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| 2010年5月29日号 |
| 41 太郎山が語る 凡なるモラル@ |
「信州人と言えば、多くは俊敏であるが、とかく理屈っぽくて……」というような先入観にとらわれた評価にぶつかった経験をもつ人も多いことでしょう。たしかに、朝に夕に秀峰の連なりを仰ぎ、何れの日にかそれらの山々の彼方へと憧れる日々を積み重ねて育った若者の心に、根強い理想主義が芽生えるのは自然な成り行きに違いありません。生前の臼井吉見さんなどが、そのようにして信州人の心性(しんせい)が鍛えられるいきさつを述べているのは、如何にも安曇野育ちらしい卓見です。けれども上小盆地生まれの私などにしてみれば、そのような「信州人」観には、強く反駁しないではいられません。
試みにこの盆地の中心に立って四方を見渡してみれば、見渡す限りは里山ばかりで、すべての山頂までキノコや山菜採りに訪れることのできそうな親しさにあふれているのです。今から数百年の昔、戦に敗れたり、権力から逐(お)われたりして、北へ東へと活路を求めたいわゆる「北方の人」の集団にしてみれば、群(むれ)を成してあの峠この峠と辿りつき、ふと、里山に囲まれた蒲団(ふとん)のように緑豊かな大地を望み見たしゅんかん、あたかもふるさとの如き温もりを感じ取って、この地に根をおろすことを心に誓わないではいられなかったのでしょう。戦後の史学でいわゆるヤマタイ国論争などが繰り広げられましたが、実は、たくさんのヤマタイ国を発見したのが私たちの先祖でしょう。 |
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| 2010年6月5日号 |
| 42 太郎山が語る 凡なるモラルA |
私の生家に近い上田市の西の外れ新町(しんまち)の古刹(こさつ)向源寺の故池田方丈(ほうじょう)さんは、幼年時代のガキ大将として私たちを率いた同年代の仲間でしたが、長じて老人付き合いをする頃になって、しきりと、この寺の秘宝ともいうべき先祖たちの過去帳を閲覧するようすすめられたものです。
古文書の解読に不得手な私などは専ら方丈さんの語りを耳学問とするばかりでしたが、それでもこの盆地に「北方の人」が群成して根付いたのは西暦12世紀の頃で、これら敗軍の将卒(しょうそつ)を受け容れた先住民たちも、どちらかと言えば、あのオオクニヌシノミコト系の心やさしき先祖たちであったなどと語られると、何となく納得したものです。
オオキナ袋ヲ肩ニカケ 大黒サマガ来カカルト ココニ因幡(いなば)ノ白ウサギ 皮ヲムカレテ赤裸……などと方丈さんが小学唱歌交じりで語ったりすると、「なるほど!」と私たちは頷いて、この上小盆地というものが、その成立ちの始めから、心やさしく、禁獣(きんじゅう)・医薬の道を選んで、温和な里づくりに精進してきた先祖たちの丹精によって形成されたものと思い込まずにはいられないのでした。
そんな里づくりの心で見渡せば、これといって秀峰を仰ぐでもなく、四季白雪をいただく峻烈さを誇るでもない太郎山の如きは、誠に凡中の凡、まん中の主峰も、東側の東太郎、西側の虚空蔵山もそろって千メートルそこそこに連なり、四季の色に映えるのでした。 |
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| 2010年6月12日号 |
| 43 太郎山が語る 凡なるモラルB |
私が70歳代の半ばを過ぎてから郷里の上田にリタイアを決めこんだ頃から、求められるままに小さな学習会を作って、その会名を《太郎山塾》と名乗ったのも、そんな「凡中の凡」なるふるさとの特色を探求してみたいと思ったからに他(ほか)なりません。折から日本のバブル景気も頭打ちしたばかりでなく、ソ連のような大国にしてからが、その社会主義体制への根本的反省を表明する《モスクワ・フォーラム》を主催して、世界の英知に呼びかける有様でした。
確かに、心ある人びとの多くが無暗に「発展」だの「前進」だのに対して「待った」をかけ、要すれば自己の足どりにもストップを命じて、沈思黙考(ちんしもっこう)の期間を持ちたいものと考えたに違いありません。折からわがふるさとは高速道路の整備も進み、新幹線の開通にも恵まれて、東京都市圏へと呑み込まれる幸運にも恵まれて、一段と人間の動きは活発化したかと見えるのでしたが、実はその頃から表通りのシャッターを下ろす時間が長くなり、老舗の閉店なども目立つようになりました。
こうした時の流れを太郎山ふうの視野で見つめるならば、何とまあ速い足どりで「都市化」が進むのにつれて、反って人通りが淋しくなったと感じるに違いありません。至る所に空地が生じるのにつれて、自動車が増えたかと思うと、かつてこの田舎町に生じたこともないような事故や犯罪にびっくりさせられる日が相次ぐようになりました。 |
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| 2010年6月19日号 |
| 44 太郎山が語る 凡なるモラルC |
そんな時代の訪れにつれて、何とかして時代の駈け歩(あし)から取り残されまいと、必死の努力をつくしたせいもあって、わが上田駅は蚕都(さんと)の誇りを守り通すかのように、駅舎に昔ながらのマユ倉庫の名残りを留めたり、ささやかなマユの女神を祭ることを忘れませんでした。観光資源として「城下町」を誇り「千本桜」の美しさを宣伝し、近隣の町村の協力も得て太鼓を打ち鳴らすことも忘れてはいません。けれども畏友・窪島誠一郎氏による《デッサン館》や《無言館》のユニークさのように遥々(はるばる)と、「其處(そこ)にそれがあるから…」と、人の心を惹きつける熱い存在理由を掲げる新しい魅力には及ばないようです。
この「通過都市化」の危機の時代なればこそ、上田という町が特別に訪れるに価(あたい)する理由をしっかりと正視(せいし)し、地味(じみ)ではあっても忘れがたい旅人を受け容れるフトコロの深い町づくりを求めるべき時代を見失うべきではありません。いや、私たちが幼い日から心底に灼きつけてきたあの童話『青い鳥』の寓意(ぐうい)が物語っているように、シアワセはわが家の鳥篭の中にさえずっているかも知れないことを発見する英知こそが必要なのです。
そんなとき、ふと眼を上げて、凡中の凡なる太郎山の連なりに心眼(しんがん)を注いで下さい。1000メートルの高さからの視野の彩りを改めて反芻(はんすう)してみて下さい。そこに、この上もない「ふるさと」の色と匂いがただよう安息に注目して下さい。 |
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| 2010年6月26日号 |
| 45 太郎山が語る 凡なるモラルD |
思えば「凡中の凡」なる太郎山のてっぺんから俯瞰(ふかん)する視野の中には、まぎれもなく、ふるさとの中の「ふるさと」とでも言うべき温(ぬく)もりがたっぷりと納められているのです。それは、私のふるさと、あなたのふるさとという枠(わく)を超え、今や「ふるさと喪失」の時代を迎えている人びとすべての心が求めているふるさとの精気が、春先の大地のように息づいているのです。
永年(ながねん)住み着いて改めて気づくことですが、この盆地ほど天気が「機嫌の良い土地」は他にあるまいと思えるのです。どんな雨期も台風季節も、ほどほどに訪れ、ほどほどに通り過ぎて、その季節の優しい温もりばかりが胸に刻まれるのです。恐らく「太郎山の逆さ霧」と呼ばれる、此の地ならではな珍現象があって、不断に襲いかかる大陸からの低気圧をしっかりと背で受け止め、時として太郎山の稜線を越えたりすると、まるで雪崩のようにてっぺんから転げ落ちる霧の固まり。それが忽ち盆地を覆いつくすベールと化したかと思って見とれるうちに、呆気なく好天が「天空海闊」の歩調で広がるのです。
そんな日本一の好天つづきの盆地の真ん中には千曲の流れが貫流し、空の開豁と相俟(あいま)って、地上からのさんざめきを奏でるのです。幸いにも、県内200キロに及んで格別のダム造りなどに冒されることもなく、正に、川遊びのふるさととして私たちは祝祭を受けつづけて育ったものです。 |
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