大河ドラマ「真田丸」のオープニングに映し出される「信繁の城」。実在しないCGのお城とはいえ、見ているだけでもワクワクするかっこいいお城ですね。 先日の信濃毎日新聞に載っていた須坂市にある名勝・米子不動の滝。「真田丸」が始まって、滝の上にお城があると勘違いしてお越しになる方が増えたと…。あのお城に魅かれるのは、どうやら私だけではないようです。 CGの城は、画像の下半分は米子不動の滝、上の断崖絶壁は岩櫃城(群馬県東吾妻町)の写真を合成して創ったものです。今回の写真はこの春先に撮ったものですが、先日、名胡桃城(群馬県みなかみ町)を訪ねた帰り道に見たときは、CGの城のように緑いっぱいになっていました。この撮影スポットから眺める岩櫃城が、私の一番のお気に入りです。岩櫃の麓に住みたいと妻に嘆願したところ、一笑に付されましたが…。 織田信長の勢力拡大により、武田家存亡の危機を迎えた勝頼に、昌幸はこの岩櫃城への避難を勧めたといいます。勝頼の父・信玄の頃から、真田幸隆、矢沢頼綱はその命令により、岩櫃城周辺を含む、西〜北上州の攻略を進めていました。
信玄の下で上州吾妻郡周辺の攻略を進めた真田幸隆と矢沢頼綱。実はふたりは血の繋がった兄弟なのです。幸隆のすぐ下の弟が矢沢頼綱です。昌幸が「叔父上」と呼ぶのも当然と言えば当然です。「でも頼綱は真田姓ではないでしょ…」と思われる方もいらっしゃるでしょう…。 大河ドラマには頑固一徹な頼綱と息子の三十郎が信繁らの補佐役として登場します。やがて矢沢家は信之といっしょに松代に移り、代々、筆頭家老格として真田家を支えました。真田宝物館(松代)から5分ほど歩くと、六文銭瓦の矢沢家表門を見ることができます。 矢沢家はもともと、現在の上田市矢沢周辺を本拠地とした一族です。ここには矢沢城(矢沢公園)や菩提寺・良泉寺のお墓などがあり、見所がいっぱいです。 9月27日(火)まで上田市立博物館で開催中の特別展「第二次上田合戦と高野山配流」。ここに「良泉寺矢沢系図」が展示されています。これは矢沢頼綱と真田家の関係を今に伝えるとても貴重な史料です。興味のある方は、ぜひ特別展に足をお運びください。実物をご覧いただけるよいチャンスです。
「矢沢系図」には矢沢頼綱のお父さんの名が記されています。それは「真田右馬佐頼昌」。頼綱の父が真田家の人物だったことがわかる貴重な史料です。 頼綱は頼昌の三男「源之助」で、昌幸の父・幸隆(幸綱)の弟です。ではなぜ「矢沢」を名乗っているのでしょうか。もしかしたら源之助は矢沢家の娘さんと結婚して家を継いだのかもしれません。系図によると、源之助は16歳で矢沢に移ったようです。 矢沢家を継ぎ、頼綱は「矢沢薩摩守綱頼」を名乗ります。その後、武田勝頼の家来になり「頼」の字を拝領した際に「頼綱」と改名したといいます。 頼綱が家を継いだことで、矢沢家と真田家との強い絆が生まれました。頼綱は兄はもちろん、甥の昌幸をよく補佐し、真田家のために尽くしました。まさに縁の下の力持ちと言えましょう。 お気づきの方もいらっしゃるでしょう。「それなら矢沢三十郎は昌幸の従兄弟じゃないか」…。そのとおりです。大河ドラマでは信繁と同年代くらいに見えますが、実はそういう間柄なのです。 ドラマで人気の三十郎ですが、今後の活躍もきっと目が離せませんよ。
矢沢頼綱は真田右馬佐頼昌の三男で、幸隆(幸綱)の弟であることは前回ふれました。現代まで続く真田家の礎を築いた幸隆は頼昌の次男で、実は長男の系統の「真田家」も存在したのです。長男の名は「真田右馬助綱吉」。生島足島神社の将士起請文にその名を見ることができます。 真田家の長男は代々、「右馬助(「助」は佐・允とも)」を名乗ったようです。綱吉の長男と思われる人物も「右馬允」といいます。右馬允は天正10年(1582)に昌幸の家臣となり、慶長5年(1600)には上田を出て、小諸城の仙石氏に身を寄せています。ところが第二次上田合戦で昌幸が徳川に抗ったためか、領地を減らされ、その子は姓を「友野」と変えています。その後、右馬允の子孫は仙石忠政とともに上田に移り、「友野儀太夫」は海野町の南側辺りに屋敷を構えていました。 やがて仙石氏の出石藩(兵庫県豊岡市)転封に儀太夫も伴い、「真田」姓に復したそうです。大河ドラマで活躍する信繁たちとは別の「真田家」のストーリーにも目を向けたいものです(本稿は寺島隆史氏の研究成果を参考にさせていただきました)。
鹿教湯温泉にほど近い丸子地域西内の宮沢地区に、「御屋敷」と呼ばれ、真田一族の屋敷跡と伝わる場所があります。独鈷山の登山口に位置するこの一帯は、段々のような平らな地形や、土塁とみられる盛土が屋敷跡であることをうかがわせます。また、屋敷の東側の沢は「御屋敷沢」と呼ばれ、天然の堀の役割を果たしていたようです。 ここは、真田信之や信繁の弟・昌親(信忠とも)の屋敷跡のようです。昌親は昌幸の三男(あるいは四男)で、「犬伏の別れ」の後は信之と行動を共にしました。九度山にいた父の借入金の手配のため、上田で奔走したといいます。 慶長元年(1596)から元和4年(1618)までこの宮沢の屋敷に住み、信之の国替えにより松代に移り、49歳で生涯を閉じました。 昌親の墓は松代大林寺と善光寺にあります。善光寺のものは本堂の裏側にあり、大きな宝篋印塔で説明板もありますので、すぐに見つけることができると思います。また、本堂の右手にも真田家重臣たちの供養塔があります。善光寺に行かれた際には、ぜひお訪ねいただきたい真田氏ゆかりの場所です。
真田信之や信繁の弟・昌親が住んでいたとされる宮沢の御屋敷。鹿教湯温泉に近い屋敷なので、昌親や家族の温泉にまつわる逸話がないか探してみたところ、やっぱりありましたよ、次のような伝承が…。 宮沢御屋敷と鹿教湯温泉の「御殿」と呼ばれる場所を結ぶ道は、「姫道」と呼ばれ、昌親の娘が別宅のあった御殿まで通った道だと地元のみなさんは伝えています。「姫道」なんて名前が付くくらいですから、姫さまはきっと大の温泉好きだったのでしょう。こうした伝承は、何だかほんわかとした気持ちにさせてくれます…。 丸子地域にはもうひとつ、真田一族が屋敷を構えたとされる場所があります。それは飯沼・龍顔寺の西側一帯で、広くて平らな段のような地形と、「家老屋敷」と呼ばれる場所があり、この地が屋敷跡であることをうかがわせます。 では、この屋敷に住んでいた人は誰なのでしょう? 『丸子町誌』を見ると、複数の名前が挙げられています。明治時代に旧飯沼村が長野県に提出した資料にも、ここが「真田氏館跡」とするものの、主の名前にはふれていないのです。さて、どうしたことか…。
『丸子町誌』によると、この屋敷の主については、「真田信興・信光父子」あるいは「真田高勝」というふたつの説があるようです。 真田信興は、長篠の戦いで討ち死にした昌幸の兄・信綱の子とされています。 一方の真田高勝は昌幸の異母弟で、依田に移り住んで母方の金井姓を継ぎました。病身で戦場に行けなかったために僧籍に入り、高勝寺(寛文年間に龍顔寺と改称)を開いたと伝えられています。高勝の子・高次は天正11年(1583)に昌幸が丸子を平定した際に、昌幸を助けて活躍したことが、当時の史料から知られています。 高勝は自らが開いた龍顔寺に葬られました。本堂北側に五輪塔が安置され、「真田宮内助高勝公墓所」と案内されています。高勝は慶長11年(1606)に、上田城で亡くなったのだそうです。なお、高勝は信繁にたいへん慕われていたらしく、高野山蓮華定院で信繁が手厚く供養しています。 龍顔寺の由緒からすると、西側の屋敷跡は高勝のものかな…と私は思います。ただ、いずれにせよ、丸子地域に真田一族の屋敷跡がふたつも見つかっていることに驚かされます。
7月から行っていた上田城の発掘調査が終わりました。9月4日の現地説明会には大勢のみなさんにお越しいただき、ありがとうございました。発掘調査の場所は二の丸南東隅のやぐら台と土塁。発掘する前にはわからなかったことが明らかになりました。今回はその結果をお知らせします。 まずは残念だったことから。写真をご覧ください。これは昭和35年に市民会館(現大河ドラマ館)の建設工事が始まる前に、現地で式典を開いたときのものです。よく見ると、見覚えのある二中の古い校舎が写っています。 また、その手前には土塁が写っています。この土塁、矢印の人の身長と比べると、高さはおそらく3.5mくらいと考えられます。二中の旧校舎の位置などからすると、市民会館ができる前は、二の丸橋の南側には土塁がほぼ江戸時代の形のまま残っていたことがわかります。ちなみにこの土塁は仙石忠政が行った寛永3〜5年(1626〜28)の復興工事の際に造られたもので、幕末まで大きく姿を変えることなく維持補修されてきたものでしょう。発掘調査した土塁もこの一部と思われたのですが…。
発掘調査はまず土塁を覆っていた表土を取り除き、江戸時代に土を盛ってたたき締めた面を探して掘り進めました。 ところがいくら掘り下げてもその面が出てきません。出てくるのは石や瓦の混じった土ばかり…。これは土塁を造るときには絶対に使わない土です。「どうして?」現場で頭を抱えました。 「仕方ないな」―現場ではこんなとき、発想の転換が必要です。「この土塁はニセモノかもしれない」。調査をふりだしに戻し、土塁の北端に残っていた断面を削ぎ落として土を盛ったときの地層の重なりをしっかり確認することにしました。 断面をきれいに削っていくと、ミルフィーユのように何層も重ねた人工的な地層が見事に現れました。「うーん、残念」。断面に現れた土を盛った状況から、この土塁は江戸時代のものではなく、積み直したものであると判断しました。 やはり土の質が悪く、小石や大きな礫、粘土の塊などが混じった土が無造作に積まれていたのです。 こうした土からは、3千年くらい前の縄文土器や平安時代の素焼きの茶碗、江戸時代のすり鉢、近代の瓦などのかけらも見つかりました。
残念ながら、土塁は江戸時代のものではなく、積み直したものだとわかりました。では積み直したのは、いつのことなのでしょうか。 前々回の写真から、土塁は昭和35年ごろまでは残っていたようです。おそらく市民会館の工事の際に崩され、その土を使って一帯を造成したのでしょう。今回の調査で、市民会館の南側あたりは1m60pくらい土を盛っていることもわかっています。そして余った土を再度土塁のように積み直した…これが結論かと。 残念なことですが、やぐら台も同じように新しく土を盛った痕跡が見つかってしまいました。期待していた江戸時代の姿を見ることは叶いませんでした。 ただ、悪いことばかりではありません。土塁には江戸時代に盛った部分がわずかに残っていることもわかりました。二の丸堀(けやき並木)の斜面の側には江戸時代の盛土が残っていたのです。とても質のよい粘土をたたき締めた部分が見つかりました。当時の人たちの苦労が偲ばれます。 また、真田昌幸が活躍していたころに使われた素焼きの器のかけらが2点出土しました。「昌幸が使ったの?」期待はふくらみます。
見つかったかけらはとても小さいもので、そのうちのひとつは「かわらけ」という素焼きの皿です。「昌幸が使ったの?」という期待も当然ですが、証拠がありません。「名前でも書いといてくれればいいのに、昌幸公…」なんて虫がよすぎますね。 今回の調査の結果、二の丸南東隅の土塁・やぐら台は江戸時代の姿を留めていないことが判明しましたが、上田城が公園として整備された痕跡を把握することができました。現在では考えられないことですが、市民会館が造られた当時、お城の名残が失われてしまいました。でも、私は当時の人を責めるのは間違っているのではないかと思います。 廃城後、上田城跡公園は丸山平八郎さんをはじめ、長い間に大勢の人が関わり、親しまれる公園へと変わりました。鹿や熊がいたり、プールや陸上競技場で仲間と頑張った記録会、そして市民会館での成人式…。私はこうした身近な歴史も踏まえて、今後の上田城の整備を進めていかなければならないと感じています。 みなさんに親しまれる上田城。将来へと受け継いでいく整備のために、これからも時機を見て発掘調査を行う予定です。
大河ドラマ「真田丸」を毎週楽しみにされている方も多いことと思います。九度山から大坂に入城した「幸村」の今後の活躍が楽しみです。 ドラマの35話では真田家が親兄弟で敵味方に別れる決心をした「犬伏の別れ」が描かれました。大泉洋さん演じる信幸がとても印象的でした。真田家の大きな転機を描いた「犬伏」でしたが、ドラマのなかに登場する上田城にとっても、大きな転機となった回だったことにみなさんお気づきでしたか? この回以降、尼ヶ淵から見た上田城のCGになんとなく違和感を覚えた方も多いのではないでしょうか? それもそのはず、見慣れた上田城に突如天守閣が出現したのですから。 「天守閣なんてなかったんでしょ…」。そうです、少なくとも寛永3年(1626)から仙石忠政が復興した上田城に天守閣はありませんでした。 「じゃあ、昌幸のころはどうなの…?」―上田城では真田昌幸の時代に使われた屋根瓦とともに、ちょっと豪華な「金箔瓦」が本丸の堀などから見つかっています。これは、しゃちほこや鬼瓦などに金箔を貼ったものです。
大河ドラマにも出てきた大坂城や伏見城などには、金箔瓦は天守閣や表門などに使われていました。上田城でも金箔が付いた立派なしゃちほこが見つかっていることから、天守閣あるいはそれに匹敵する3階建くらいの櫓があった可能性があります。ただ、残念なことにあくまでも「可能性」というレベルですが…。 上田城では平成2年から本丸などで発掘調査が行われてきました。ただ、天守閣の基礎であるとか、天守台石垣の痕跡などが見つかっていないので、「天守閣があった」と断言できないのが正直なところです。 最近では上田城も「第二次上田合戦の直前には天守を構えていた」とする研究者が増えてきました。それは出土した金箔瓦の存在と、周りの松本城や小諸城などに天守閣があったのだから、当然上田城にもあっただろうという考え方からです。 信之の沼田城には、5階建の天守閣がありました。上田と沼田はいわば真田家の「本店と支店」。支店に天守閣があって、本店に無かったというのは…? ドラマも最終回まであとわずか。寂しさも募りますが、一年間楽しませてくれた「真田丸」に感謝です!
だいぶ横道に逸れてしまいましたが、丸子地域の真田氏ゆかりの地めぐりに戻りましょう。 真田昌幸は上田城で二度、徳川軍と対峙しました。その最初の戦い・第一次上田合戦(神川合戦)のときに、上田城下や神川一帯で大打撃を受けて退去する徳川軍が、今度は昌幸の支城・丸子城に手を出します。このとき、徳川軍が布陣したのが八重原の台地から長瀬辺りとされ、塩川の陣場山(お伊勢山)はその跡だと伝えられています。 「陣場山」という地名は、まさに徳川軍が陣を置いたことから付いた地名だと考えられます。周辺には「天下山」や「勝負沢」、「殿平」、「白塚(城塚?)」という地名もあり、関連がうかがえます。このような「物見塚」「合図山」「兵糧山」など、合戦に由来する地名は身近なところにも残っています。みなさんがお住まいの地域にもあるかもしれません。地図をお供に探してみませんか? 陣場山は眺めがよく、上田城まで見渡すことができる絶好の場所です。さらに徳川軍は、小諸方面を監視できる芝宮砦を手中とし、本陣の脇を固めました。こうして丸子城を攻める準備は着々と進められたのです。
これに対して昌幸は、海野から千曲川を越え、狐塚の市乃町砦(手白塚)に兵を進め、対陣しました。市乃町砦は現在の市乃町神社の付近とされ、三方を高い崖に囲まれた要害の地です。 また、昌幸は依田川を挟んだ尾野山城にも兵を増強し、徳川の攻撃に備えました。尾野山城は千曲川と依田川の合流点の西側の山に築かれた城で、八重原方面の徳川の様子はもちろん、上田城や砥石米山城、真田氏本城、丸子城などの城を見渡すことができる好条件を備えた山城でした。 徳川軍はついに丸子城への攻撃を開始。対する昌幸軍も出陣し、激戦となりました。徳川家臣・岡部弥二郎隊は、河原町に火をかけたり、真田軍の後方をついたりと優位に戦を進め、昌幸らは丸子三左衛門(三右衛門とも)らが守る丸子城に退却します。丸子城主の三左衛門…お菓子の名前でもお馴染みですよね。 昌幸は秀吉に援軍を要請。対する徳川軍も井伊直政(養母は来年の大河ドラマの主人公・直虎)ら援軍が到着するも、両軍のにらみ合いは続き、三ヵ月ほどこう着状態となりました。ところが突然、何故か徳川軍が撤退を始めたのです!?
本原の御屋敷(御屋敷公園)の一角に建つ真田氏歴史館。ここに昌幸が秀吉から受け取った一通の手紙が展示されています。この手紙により、徳川軍が突然上田から撤退した理由を昌幸は知ることになります。 大河ドラマにも出ていた石川数正(キャストは伊藤正之さん)は家康の重臣。徳川軍が上田で昌幸と対峙していたまさにそのころ、彼が突然秀吉のもとに出奔したのです。慌てたのは家康です。徳川家の内情が全部秀吉に漏れてしまう…。丸子での激戦のとき、秀吉は昌幸に援軍を出すことを承知しています。「こんなときに秀吉の後ろ盾を得た昌幸と戦っている場合ではないぞ…」家康はそう思ったのでしょう。上田を攻めていた徳川軍の全部を遠江に撤退させ、第一次上田合戦は幕を下ろしたのです。 これまで昌幸と徳川の戦いを見てきました。両軍が上田城から八重原や丸子に兵を進めるときに、千曲川はどうやって渡ったの? と聞かれることがあります。「歩いて渡ったの?」「舟? それとも橋?」川には浅いところも深みもあるので、渡るのにはいろいろな方法がありそうです。みなさんはどう考えますか?
千曲川に架かる大石橋。昔はこのすぐ下流に「猫ノ瀬」と呼ばれる浅瀬があったそうです。現在の水量ではちょっと考えにくいかもしれません。小学生の私は、学校から帰るとよく、この辺りで魚釣りに興じていました。 そのころには思いもしなかったことですが、上田城から八重原や丸子に兵を進めた両軍は、この猫ノ瀬付近で川を渡ったと思われます。 かつての大石橋が台風の被害を受け、現在の橋に架け替えられたのを覚えていますか? 大石橋の下には「猫石」と呼ばれる石がありましたが、新しい橋を架けるときにやむなく破壊されることになったのです。ところが、古くから親しまれてきた石がなくなってしまうことを憂いた地元のみなさんの願いで、猫石は大屋神社の境内に移され、今も大切に守られています。真田と徳川の軍勢を見守った猫石は、四百年後の今、当時を懐かしく思っているのでしょうか…。 大屋神社から大屋駅に向かうと、かつての北国街道に出ます。現在は車が通るこの道をさらに東へ進むと、江戸時代の面影を残す海野宿へと至ります。ここに真田氏ゆかりの白鳥神社が鎮座しています。
江戸時代の宿場の面影を今に伝える海野宿。「旅籠屋造り」と呼ばれ、海野格子や出梁を特徴とする建物が目を引きます。かつて北国街道の宿場町として賑わったこの一帯は、中世には海野氏の本拠だった場所です。 白鳥神社は海野宿の東側に鎮座する、海野氏やその一族である真田氏の氏神です。街道が鍵の手に折れた宿場の入口を見守ってきた神社ですが、海野氏の守り神として、宿場が設けられる前からここに祭られていたと考えられます。 境内に入ると、大きな御神木がこの神社の古さを私たちに伝えてくれます。どこか懐かしい景色を楽しんでいると、おや、どこかで見たような家紋が…。社殿のとある場所に「洲浜」の紋を見ることができます。ぜひ探してみてください。 真田氏の家紋は「六文銭(六連銭)」「結び雁金」「洲浜」が知られています。これらはそもそも海野氏の家紋であり、その一族である真田家は同じ紋を使いました。 信之が国替えになった松代にも白鳥(しろとり)神社があります。このように真田家ゆかりの寺社は、松代にも同じ名前のものが建てられました。東御市にあった「開善寺」もそうです。
浅間サンラインにある、「海善寺北」と書かれた歩道橋をご存じですか?現在はお寺の建物などはありませんが、最初の「開善寺」の痕跡は地名と寺跡に残された石塔に見ることができます。石塔には年号が刻まれたものがあり、文保元年(1317・鎌倉時代末)の記銘がある石塔の基礎が東御市文化財に指定されています。開善寺は平安前期の創建とされ、滋野氏や海野氏の祈願所として栄えました。 開善寺跡の近くには滋野神社(八幡社)があります…そうです、上田城下の鬼門を守る「海禅寺」と八幡社は、真田昌幸が城下町を造った天正11年(1583)頃?に、現在の東御市海善寺北区にあった開善寺と八幡社がもとになっているのです。 松代の真田ゆかりのお寺には、「ちょうこくじ(長国寺・長谷寺)」「だいりんじ(大林寺・大輪寺)」のように上田と同名のものがあり、同じく開善寺もあります。地元のゆかりの地とともに、ぜひ足を運んでいただきたい場所です。きっと真田信之の故郷を偲ぶ思いを感じることができるでしょう。 信之といえば、武石の正念寺でお位牌が見つかりました。お寺と信之との関係とは?
信之のお位牌は、金色の雲形の飾りが眼を引く立派なものです。93歳という長い生涯を全うした信之。藩主の仕事からようやく解放された最期の2年間は、隠居所(現在の松代大鋒寺)を住まいとし、家臣の鈴木主水と近くの金井池で魚釣りを楽しんでいたようです。 武石の正念寺は天文年間(1532〜55)の開山とされ、信之が戦火で焼失したお寺の再建を命じて復興されたことから、信之が中興開基となっています。お位牌があるのはそのためでしょう。 信之のお位牌は一昨年に発見されたものです。位牌には「大鋒院殿徹巌一當大居士 神儀」(表面)/「万治元戊戌年十月十七日真田伊豆守信之」(裏面)と刻まれています。金色に塗られた雲形飾りは江戸時代前期の領主級の人の位牌に多く見られる特徴とのこと。 信之は実直な性格から人望も厚く、幕府の人びとからもとても信頼されたといいます。 没後は神として敬われ、長国寺や大鋒寺にある信之のお墓には、なんと鳥居が備わっています。 信之と信繁の実姉・村松殿。お姉さんがなぜ「村松殿」と呼ばれたのか、次回はそのゆかりの地にご案内しましょう。
真田丸」では信之・信繁兄弟から慕われる姉として描かれた「村松殿」。ドラマのなかでは結婚する前から「松」と呼ばれていました。 青木村の村松に立派なふたつの石塔(宝篋印塔)が大切に祭られている場所があります。この石塔のある付近が村松殿の夫・小山田茂誠の屋敷があった場所だと伝わっています。お気づきですか?お姉さんが「村松殿」と呼ばれる理由…。それは、茂誠と結婚して「村松の屋敷に住んでいた」からなんです。 戦国時代の武家の女性は、生前の名前が不詳で、亡くなった後の法号しかわからないという方がほとんどです。例えば昌幸の正室は「寒松院」、信繁の正室は「竹林院」と呼ばれますが、これらは法号です。住んでいた場所で呼ばれていた「村松殿」。これは淀城の「淀殿」と同じような呼称と思われます。 信之たち兄弟は、姉をとても慕っていたのでしょう。特に信繁は大坂冬の陣の後、村松殿に手紙を送り、心情を吐露しています。手紙では「(豊臣方となり)本家に迷惑をかけて申し訳ない」との謝罪と、甥の之知(村松の子)を心配する叔父らしい一面を見せています。
真田丸での戦いの後、信繁は小山田茂誠・之知にも手紙を送っています。そこには、姉への手紙ではふれられることがなかった「自分はもう生きて帰ることがないだろう」という決死の覚悟が綴られています。姉とその家族に届いた手紙からは、信繁の勇猛果敢な姿とともに、身内を想う彼の優しさが伝わってきます。 関ヶ原の戦い(第二次上田合戦)の後、信繁は父・昌幸らとともに九度山に蟄居を命じられます。このとき、信繁には四人の女の子がいたと考えられています。 上の二人は、すへ(於菊)・於市といい、母は堀田作兵衛興重の妹(娘とも)。「真田丸」では「梅」と呼ばれた女性です。 三女は阿梅、四女はあぐりといいます。このふたりの母は、高梨内記の娘。そうです、「真田丸」で「きり」と呼ばれていた女性です。ドラマでは信繁を想いながらも、妻になることはありませんでしたが、実際は室となり、上田で信繁との子を授かっていたようです(阿梅は竹林院との子だとする説もあります)。 信繁は、於市・阿梅・あぐりを九度山に連れていきました。なぜ、すへを残していったのでしょう?
すへは現在の長和町・長窪宿の本陣を勤めた石合十蔵道定に嫁ぎました。このときすでに、伯父の堀田作兵衛興重の養女となっていたようです。 信繁がすへを養女に出した理由はよくわかりません。母親が早く亡くなったから? 幼少期をともに過ごさなかった信繁に懐かなかったから? など、想像は尽きません。同じ母から生まれたとされる二女・於市は九度山に連れていったことを考えると、さらに疑問は深まります(於市は九度山で病死します)。 大坂の陣が終わって24年後の寛永16年(1639)、すへが徳川に背いた信繁の遺児であることから、お咎めを受けそうになったといいます。このとき道定は、すへといっしょになったのは大坂の陣より前であることなどを訴え、すへは処罰を受けずに済みました。 冬の陣の後、道定は大坂にいた作兵衛に近況を尋ねる手紙を送っています。信繁は自ら道定に返事を書きました。「何があっても、すへを見放さないでくれ」と。 道定はこの言葉のとおり、愛するすへを危機から救ったのです。大河ドラマのように、ふたりは終生仲睦まじく暮らしたことでしょうね。
長窪宿から笠取峠を越えた最初の宿場町・芦田。この南方、古町の芦田城は、真田家と同じく武田信玄に仕えて活躍した芦田(依田)信守ゆかりの城です。 信守は真田幸隆(幸綱)らと信州先方衆として、川中島合戦・妻女山攻撃に参加しています。嫡男の信蕃は天文17年(1548)の生まれ。真田昌幸よりひとつ年下です。武田に仕えていたころ、年齢・故郷が近いふたりは何かと通じ合うものがあったのかもしれません。 信玄は三方原の戦い(浜松市)で徳川家康を破ります。「真田丸」でもふれていましたが、家康の馬印が倒されたのは、この戦いと大坂夏の陣のときだけといいます。三方原などで芦田父子は戦功をあげ、二俣城(浜松市)などの守りを任されるなど、信玄・勝頼父子の厚い信頼を得ました。 武田家が滅び、信蕃は本拠地の春日城(佐久市)に戻りました。芦田家と領地の人びとを守るためです。ところが、佐久一帯にはすでに信濃侵攻を狙う北条氏直の手が伸びていたのです。戦国の世を生き抜くため、信蕃も昌幸も思いは同じだったはずです。信蕃はかつての敵・家康に属し、北条家の脅威に備えました。
本能寺で織田信長が亡くなると、ついに北条氏直は碓氷峠を越えて北佐久郡に侵入。徳川家康も甲斐(現在の山梨県)に進軍します。芦田(依田)信蕃は春日城の詰城・三沢小屋(穴小屋などとも)に入り、氏直の出方をうかがっていました。 天正10年(1582)7月、北条勢が海野(東御市)まで兵を進めると、真田昌幸は氏直に属しました。このとき信蕃は、昌幸に「ぜひ味方になってくれ」と思いを伝えたようです。「信玄の両眼」と例えられた昌幸の活躍を、信蕃も目にしているはずです。昌幸と手を組み、何としても北条の進出をくい止めたかったのでしょう。 9月になり、ついに家康本人から昌幸の勧誘工作が命じられました。信蕃はもちろん、津金寺の住持・善海、すでに家康のもとにいた昌幸の弟・信伊らが説得にあたり、昌幸は家康に属す決心をします。信蕃と昌幸が面会し、手を組む約束をした場所が、三沢小屋ではないかといわれています。 かつてのように、同じ敵に立ち向かう約束をしたふたり。ところが徳川と北条が和議を結んだのです。両者の緊張状態はいったん解消され、「一件落着」のはずだったのですが…。
北条と徳川は仲直りにあたり、上州(現在の群馬県)は北条、信濃と甲斐は徳川の持ち分としました。この約束で真田昌幸の上州沼田領は北条のものとされてしまいます。これが原因で、後に昌幸が上杉景勝に翻り、天正13年(1585)徳川家康が上田城を攻めました。 一方、昌幸の徳川従属に尽くした芦田(依田)信蕃は、家康の更なる信頼を勝ち取り、北条方の岩村田城、田口城などを攻略しました。信蕃は早速手に入れた田口城を本拠とし、岩尾城の攻略を目指しますが、天正11年2月、城主大井行吉との激戦で弟とともに戦死。信蕃35歳の若さでした。 天正11年は昌幸が上田城を造り始めた年です。信蕃と昌幸。少なくとも信蕃が亡くなるまでは、家康のもとで二人は同じ方向を見ていました。「信蕃が生きていたら、昌幸は家康から離反しなかったかも…」。みなさんは、昌幸にとって信蕃はどんな存在だったと思われるでしょうか…。 龍岡城五稜郭にほど近い田口城の麓の蕃松院。ここに信蕃兄弟の墓があります。私は思います。昌幸の「大切な友人」が眠る場所だと…。 ※本稿は『立科町誌』を参考にさせていただきました。
連載もついに100回を迎えることができました。始めた当初は、「1年もてば御の字」だと思っていましたが、何とか満2年の節目を迎えることができました。ありがとうございます。私にとって、読者のみなさんの声が何よりの薬です。自分自身「真田丸ロス」からまだ完全に立ち直れていませんが、「作者の急病のため休載…(苦笑)」なんてことがないよう、いっそう気を引き締めて頑張ります! 前回お話した芦田(依田)信蕃のように武田家に仕え、後に昌幸、いえ真田家にとって無くてはならない存在になった人がもう一人いました。「真田丸」にも登場した出浦昌相です。そうです、寺島進さんが演じた「佐助」の師匠で透波(忍)として描かれた人です。今回は、そのゆかりの地・出浦城(上原城)をご紹介しましょう。 出浦氏が本拠としたこの城は、尾根筋が千曲市と坂城町の境となる岩井堂山の頂上にあります。さかき千曲川バラ公園辺りから対岸を見ると、ピラミッドのような美しい姿を見せてくれる山で、みなさんもご存じでしょう。烽火台の伝承もあり、山は西側を除く三方が急斜面で、とても攻めにくい城となっています。
岩井堂山周辺は村上氏が最初に居館を構えた一帯だと考えられています。その後、村上氏が塩田城(上田市)、葛尾城(坂城町)に本拠を移転する際に、配下の出浦氏がこの一帯の守りを任されたのでしょう。 出浦昌相は、武田信玄の北信濃侵攻により、村上義清が葛尾城を離れて越後の上杉景勝を頼った後は、武田家に従いました。この当時からすでに真田昌幸の与力だったという説もあります。 武田家滅亡後は、父とともに織田信長家臣の海津城(長野市松代町)主・森長可に仕えますが、すでに北条氏直から勧誘の手が伸びてもいたようです。 昌相は天正11年(1583)ごろから昌幸と行動をともにしたとみられています。芦田(依田)信蕃が亡くなったこの年、昌相との連携は、その後の真田家の命運を決する、重大な画期となったと私は思います。 「真田丸」では透波(忍)の棟梁だった昌相。実は昌相は、信之の家老として生涯を尽くしたというのが真の姿のようです。信之もそれに応え、彼を心から信頼していたことがうかがえる手紙があります。それは幕府から松代への国替えを命じられたときのことでした…。
元和8年(1622)、幕府に呼び出され国替えを命じられた信之が、上田に戻る途中、家老である出浦昌相に送った手紙が残っています。 「過分な領地を拝領したうえで、松代への国替えを将軍から直々に命じられたのは、本当に幸せなことだ」と述べる一方、追って書き(追伸)で「自分も高齢だし、子孫のためにとも思うので、命令どおり松代に移ることにしたよ。何事も心配しないでくれ」とも述べ、住み慣れた上田を離れることになった愚痴ともとれる言葉を昌相に伝えています。信之の本心がのぞくこの手紙から、ふたりの確固とした信頼関係がうかがえます。 元和9年、信之を支えた昌相は、78歳の生涯を閉じます。真田家のために命を賭した昌相。信之の悲しみを思うと心が痛みますね。 「あのかっこいい寺島さんの姿はウソなの…」との女性陣からの声が聞こえてきそうですが、「武田時代から透波の棟梁で、真田家でも透波を率いた」とする書物もあり、「諸説あり」でご勘弁を…。 「真田丸」で昌相は大勢の人に知られました。真田氏以外の隠れたヒーローが、実はたくさんいるのかもしれませんよ。
坂城町と上田市の境にある虚空蔵山。その頂から尾根筋を東に進むと、太郎山や東太郎山へと縦走することができます。 この山々には、村上氏が整備したとみられる山城や砦跡がたくさん残っています(村上連珠砦)。虚空蔵山城、飯縄城、砥石米山城などがそうです。 真田昌幸が尼ヶ淵に築城を始めた天正11年(1583)、徳川家康からの援助を受け、工事は急ピッチで進められたようです。家康が脅威に感じていた越後の上杉景勝に対する備えとして、城造りが始められたのです。 同年3月、昌幸は虚空蔵山に籠る上杉方を攻撃しています。山の上から常に監視されるのが余程嫌だったのでしょう。上杉方も黙っていません。景勝は虚空蔵山に北信濃四郡の兵を集結させ、尼ヶ淵の築城を阻止しようとしました。 先年、「太郎山を楽しくつくる会」の案内で、虚空蔵山に登ってきました。「なるほどこの辺で上杉の兵が見張っていたのか…」と、眼下に開けたパノラマに心が奪われました。写真はそのときに虚空蔵山城から撮ったもの。確かに上田城が上から丸見えです。昌幸が苦虫をかみつぶす姿が目に浮かびます…。
ところが、こんなに仲が悪かったはずの上杉と昌幸は手を結ぶことになります。それは、家康が昌幸の領地である上州(現在の群馬県)沼田を、北条氏直との仲直りの印として勝手に引き渡してしまったからです。昌幸の気持ちを代弁しましょう「家来になった証としてあんたからもらった土地じゃないのに、勝手なことをするな!」。歴史に「もしも」はありませんが、第99回で紹介した芦田(依田)信蕃がもし生きていたら、徳川方に残るよう引き止めていたかもしれません…。 昌幸の翻意を理由に、家康は天正13年(1585)に上田を攻めます。いわゆる第一次上田合戦です。築城の最中に昌幸が徳川から上杉に鞍替えした結果、尼ヶ淵の城は「徳川の城」から、合戦時には「上杉の城」へと変身しました。詳しいことは不明ですが、城や城下町の姿も大きく変わったのではないでしょうか。 そして、昌幸にとってかつては目障りな存在だった虚空蔵山が、今度は上田城の背後を守る重要な要塞となったのです。遠くまで見通しが利く山は敵の動きを的確に掴み、衝立のような山の北麓・傍陽には、上杉の援軍が控えていました。
松代から地蔵峠を越えた太郎山北側の麓に、上杉の援軍が控えていたと思われます。現在の傍陽、横尾といった神川の右岸一帯は、かつては村上方に付いた曲尾氏、横尾氏の領地でした。村上義清の砥石城を真田幸隆(幸綱)が独力で奪った後、両氏は先祖伝来の地を離れました。 砥石城を尾根伝いに北西に行くと、根古屋城があります。城の名前になっている「根古屋(根小屋)」とは山城の麓の屋敷を示す言葉です。他にも「内小屋」「堀の内」「城山」など、山城や屋敷に関する地名は私たちの周りに現在でもたくさん残っています。 根古屋城は谷を挟んだふたつの郭からなる山城です。北側の郭を根古屋城、南側を「千古屋城」とも呼びます。また地元のみなさんは、根古屋城を「高い城(タケェ城)」、千古屋城を「低い城(ヒキィ城)」とも呼びます。親しみがこもった、とてもよい名前ですよね。 そもそもは村上方の城だったと考えられますが、真田の力が及び、城の守役として大熊備前守常光という重臣が置かれました。地蔵峠道を押さえる城で、幸隆がこの城を重要視していたことがうかがえます。
根古屋城の麓には、大熊常光に関する足跡が残っています。城の北麓の墓地に常光は葬られています。根古屋城を敵の侵入から守った断崖絶壁の下で、彼はまるで今でも城を守り続けているかのようです。 もうひとつは「常光寺跡」です。「曲尾」信号機の西側の曲尾公民館。その西側がかつて常光寺のあった場所です。現在、お寺があったことを偲ばせてくれるのは残された石仏だけですが、永禄9年(1566)に、常光の子・友秀が父を弔うため、この場所にお寺を建てたということです。 この大熊氏は、後に真田昌幸の重臣として活躍します。なお、第二次上田合戦の際に徳川方が陣を置いたとされる染屋城(豊染英神社付近)は、かつては大熊氏の城だったとも考えられています。また真田地域・山家神社の南東に真田氏の屋敷跡がありますが、ここは大坂の陣に出兵するときに、真田氏が大熊氏に譲った土地だという伝承があります。 ようやく真田氏発祥の地に戻ってきました。そろそろ「ゆかりの地めぐり」も終わりにしましょう。最後に選んだのは、「おこう」とその父・真田信綱ゆかりの地です。
真田信綱は昌幸の一番上のお兄さんです。ふたりの間にはもうひとり兄弟がいました。それが次男の昌輝。「昌幸って長男じゃないんだ…?」という声が聞こえてきそうです。実は昌幸は三男坊。まさか真田家を継ぐことになるなんて、きっと昌幸自身も思っていなかったことでしょう。 信綱の父・幸隆(幸綱)は、武田信玄の上州(現在の群馬県)吾妻郡支配の要となった岩櫃城(東吾妻町)の城代を任されました。信綱はやがて自分が背負う真田家当主としての振る舞いを、父の姿を見て学んでいたのでしょう。城代の仕事もよく補佐していたようです。 永禄10年(1567)、ついに幸隆は白井城(渋川市)を攻略。信綱は父とともに、その功績を労う信玄からの書状を得ています。 そして、信綱が真田家を継ぐ時がついに訪れたのです。正確にはわかりませんが、永禄12年末から13年初めごろの間のことだと考えられています。以前は、幸隆が亡くなって真田家を継いだとされていました。最新の研究では、幸隆が隠居して、生前に信綱に家督を譲ったという説が有力です。信綱の当主としての第一歩が刻まれた瞬間でした。
堺雅人さんや草刈正雄さんをはじめ、「真田丸」出演者のみなさんは何度となく上田へ足を運んでくださり、私たちを心から楽しませてくれました。本当に楽しかったですよね…「真田丸」。思い出すとまたロスに陥りそうです…。 ドラマ最終回放送前の一週間、上田に滞在され、真田丸イベントのMCとして活躍されたおふたりを覚えていますか? そうです、大野泰広さんと長野里美さんです。ふたりが演じた「河原綱家」と「こう」、実は真田信綱とは切っても切れない人たちなんです。 河原綱家は真田家を古くから支えた河原一族の出身。父の名は河原隆正といい、その妹が幸隆に嫁ぎました。「真田丸」で草笛光子さんが演じた「とり」がその人で、綱家にとっては叔母に当たる人です。綱家の「綱」は、天正元年(1573)に元服に当たって信綱から与えられたものです。自分の名から一字授けるということは、絶大な信頼の証です。当主が信綱から昌幸に代わっても真田家を支え続けた彼の姿は、ドラマでも描かれていましたよね。 「真田丸」では信幸の最初の室だった「こう」。彼女と信綱との関係とは?
かりがね踊りと「おこうさん」と呼ばれて親しまれた彼女ですが、「こう」はドラマの役名で、生前に何と呼ばれていたかはわかりませんでした。亡くなった後、「清音院殿」という法号が与えられました。ここでは「こう」と呼ぶことにします。 実は「こう」は信綱の娘さんなのです。おそらく、お父さんが長篠の合戦で戦死し、昌幸が真田家を継いだときに信幸に嫁いだのでしょう。当時ふたりはまだ10歳くらい。まだ結婚には早いかなというタイミングですが、昌幸には一刻も早く、ふたりを夫婦にしなければならない事情があったのです。 昌幸は三男です。本来であれば、信綱が亡くなったとしても、信綱や次男・昌輝の息子が真田家を継ぐのが普通でしょう。ところが、真田一族が仕えていた武田勝頼(信玄の子)は、昌幸に家督を継ぐよう命じます。それは、信綱の息子がまだ幼く、武田家を支える真田家が不安定になることを恐れたからともいいます。 家督を継いだ昌幸を一族全員が歓迎した訳ではなかったようです。「いったいどうすればみなが俺を真田の当主と認めてくれるのだろう…」、昌幸は考えました。
昌幸は信綱を弔うため、菩提所として真田地域横尾に信綱寺を整備します。この地が選ばれた理由は不明ですが、信綱と縁が深かった場所なのかもしれません。 昌幸はこう考えたのでしょう「兄さんの血をわが家に繋ぐことが大事だ」と。さっそく幼い信幸たちは縁組をし、徳川から稲姫を正室に迎えるまで、「こう」は正室として信幸を支えました。ドラマで稲姫ではなく、「こう」が産んだ信吉を真田家の嫡男とした場面がありましたよね。信之も父・昌幸の思い、そして自分と「こう」に与えられた宿命を理解していたからこそ、その選択をし、信綱の血は受け継がれたのです。信吉が嫡男と決まった場面で、「こう」が号泣した理由、みなさんはどう考えますか? 大河ドラマ「真田丸」にちなみ、「真田氏ゆかりの地めぐり」として連載してきましたが、今回でおしまい。次回からは、また上田城についてお話しします。 まずは肩の凝らないこのネタ。タモリさんとめぐった例の番組、残念ながら収録したのに放送されなかった上田城の謎など、もう一度お城に行ってみたくなるような内容になればと思っています。ご期待あれ!!
旧市民会館で開催中の特別企画展「400年の時を経て甦る上田城」はもうご覧になりましたか? 真田一族の活躍はもちろん、上田城の歴史を楽しみながら知ることができます。 なかでもおススメは、VR(バーチャルリアリティ)で再現された上田城の姿を体感できるコーナーです。スマートフォンで楽しむアプリ「VR上田城」を超える大画面の臨場感は、まさに400年前にタイムスリップしたかのようです。最新VR技術を用いた新感覚の世界をぜひご体験ください。 「真田丸」が終わっても上田城には大勢のお客様がお見えになっています。尼ヶ淵の芝生広場などでは、「ブラタモリ」で紹介された石垣を見上げる方の姿を見かけます。 今号から「続・城歩きのススメ」と題し、上田城や城下町の不思議スポットやイチオシの場所を、タモリさんたちが歩いたルートを振り返りながらご紹介します。本には載っていない収録中のハプニングや未公開シーンなどのウラ話も…。楽しみにしてくださいね。 上田駅前を出発したタモリさん。上田高校の正門前を通らなかった本当の理由とは!?
「どうしてタモリさんに上田高校の正門前を歩いてもらわなかったんだ!」と番組の放送後、大勢の方に叱られました…。確かに、江戸時代から残る正門と両脇の堀は、番組としても面白い話題だったはずです。 実はタモリさん一行には江戸時代の地図を渡して、打ち合わせなしで上田城まで歩いていただきました。タモリさんはブラタモリの収録では、当日まで場所を知らされないのだそうです。よく聞かれますが、案内人の質問を見事に正解されるタモリさんの姿は、本当にやらせではありません。 結局、江戸時代には無かった道を歩くことになってしまい、番組では上田高校の門は紹介されませんでした。 さて、上田高校の敷地は、江戸時代には藩主の屋敷があったところで、立派な正門は寛政元年(1789)に火災に遭い、翌年に再建されたものです。ここに最初に藩主屋敷を構えたのは真田信之で、その後、歴代の上田藩主はここで政治を行いました。今でも残っている堀は、万一の攻撃から屋敷を守るためや、盗賊除けなどの防犯のために設けられたものです。門や堀は、当時の屋敷の雰囲気を今に伝える大切な文化財なのです。
私たちは、タモリさん一行が松尾町を海野町との交差点まで進み、左に曲がって上田商工会議所前のカギの手に折れた道を通ってお城に向かうルートも想定していたのですが…、こちらも玉砕。 商工会議所の付近は、江戸時代には三の丸の大手口(城の正面の出入口)で、カギの手に折れた道の両側には石垣が築かれ、番人がお城への出入りを監視していました。ここが城内と城下町との境界になっていたのです。そのため、写真のように大きな堀が設けられ、防備を固めていたのです。 結局、江戸時代の地図は役に立たなかったようです…。上田高校の校舎とグラウンドの間を抜けて、市役所の自転車置き場を通った一行は、ようやくお城に到着しました。 駅前から私たちは、カメラに映らないように隠れながら、タモリさんたちの後を着いていきました。思い通りのルートを通ってくれないもどかしさと、ハプニングを期待するわくわく感でいっぱいでした。タモリさんたちがホテル祥園さんに立ち寄ったのも、本当に打ち合わせ無し。思わぬ来客に驚いた女将さんと一行の掛け合いに、笑みがこぼれた方も多かったのでは?
お城に到着した一行から、鶴瓶さんが真田方面に収録に向かうということで離脱。代わって桑子アナウンサーが加わり、上田城の案内人として私が合流…という台本でした。待ち合わせは櫓門の前、そうです、あの真田石の前だったのですが…。 ブラタモリをご覧になっている方はご存じかと思いますが、毎回、番組の案内人はそれとなくわかる怪しげな様子で登場しますよね。私もその予定でした。ところが、収録は11月末の日曜日。櫓門前にタモリさんや堺雅人さんを見つけたみなさんがたくさん集まり、大パニックに。当然、台本通りに一行に合流できるはずはなく、思わぬ事態に全身が硬直した私は、ディレクターさんに背中を押されてなんとかタモリさんに話しかけることができました。今考えても、ゾッとします。必死に覚えた台本が全部頭から消えた瞬間でした…。 最初の案内場所は、本丸の空堀。旧市民会館と南櫓の間の堀です。番組のテーマは「上田城に残る真田の痕跡をさがせ」でした。「真田の堀は関ヶ原合戦の後に、徳川方に埋め立てられたのでは…」そう思った方は正解。現在の堀って、本当に真田が造った堀なの?
上田城は関ヶ原合戦の後に、徳川方に破壊されました。櫓(天守も?)など建物はもちろん、石垣や土塁は崩され、堀は埋め立てられたといいます。真田信之が上田を治めていた当時を描いたという絵図は、城の堀の部分に「ウメホリ」と記され、本丸や二の丸は「畑(畠)」とあり、廃城となっていたことを伝えています。 信之の後に上田藩主となった仙石忠政は、寛永3年(1626)からお城の復興工事を始めます。このとき本丸には7棟の櫓、東西の櫓門が造られました。忠政は江戸の藩邸から、家臣に工事の指示を出しており、その覚書が残っています。それには「古城の堀にゆがみがあったら、多少堀の幅が広くなってもよいから、まっすぐに整えよ」と書かれています。このことから、忠政は真田氏時代の城(古城)の堀をほぼそのまま利用したことが窺えるのです。 そんな意味では、現在私たちが見ることができる堀は、真田の痕跡とも言えるのではと思います。ただし、東西の土橋は、真田の頃のものではないでしょう、土橋の土留めのために積まれた石垣は、その積み方や石材から、仙石氏の頃のものと推定されるからです。
大阪城や熊本城、姫路城などには、とても高く積まれた石垣があります。上田城にも尼ヶ淵の崖に高い石垣がありますが、上田城の石垣は比較的小規模なもので、その数も少ないと言えましょう。 寛永3年(1626)に始まった仙石忠政の上田城復興工事では、本丸に7つの櫓が建てられました。今から400年ほど前のことです。ところが明治時代になって上田城跡は払い下げられ、土地や建物、石垣は人手に渡り、建物等は解体されてしまいます。ただし、西櫓だけが唯一解体されずに残りました。 なお、北櫓・南櫓は一度城外に移築した櫓を、昭和24年に再び城内に戻したものです。 教育委員会では、この3つの櫓について、測量などによる建築学的調査をしました。その結果、北櫓と南櫓は城外に移築された時に柱などが改変されてしまっているものの、建築当時の材木と推定される部材がかなり残っていることがわかりました。また、西櫓も昭和4年に徴古館(博物館)としたときに内部を改造しているものの、基本となる骨組み等は、ほぼ建てた当時のままだとわかりました。
建築学的には約400年前の姿をほぼ留めている西櫓。これを科学的に証明する方法はないのでしょうか…。 実はあるのです。西櫓の大黒柱から1p四方の木片を切り取り、それに含まれる放射性炭素(C14)の量を調べることで、大黒柱に使われた木が切り倒された年代がわかるのです。この分析法で調べた結果、西櫓の大黒柱は1450年ごろから1600年ごろまでの間に切り倒された木を使っていることが判明しました。 正直、もう少し狭い時間幅で結果が出るのを期待していましたが、西櫓が建てられた寛永3年(1628)より前の年代が出たことにはひと安心でした。 ただ…違和感のある方もいらっしゃるのでは…。仮に1450年ごろに切られた木だとすると、西櫓が建てられる約180年も前に材木を準備していたなんて、ちょっと考えにくいですよね…。材木は切ってから十分に寝かせて水分を調整してから使うとは言え、180年も前から櫓の材木を準備していたとは思えないのです。 仙石家が将来の新築やリフォーム工事に備えて、材木を用意していたのでしょうか? さて、この結果をみなさんはどう考えますか?
この謎を解くひとつのカギは次のような考え方です。 そもそも西櫓の大黒柱は、お寺や神社など、他の建物で使われていた材木を再利用したものだとしたらどうでしょうか? 櫓や天守閣を築くときに、他のお城の建物を移築したり、移築とは言わないまでも、材木や瓦などを再利用したりするのは珍しいことではありません。仙石忠政が国替えとなってわずか4年。材木や石垣の石材を準備する時間としては、十分なものではなかったでしょう。忠政は上田城の復興を急いで進めるため、上田領内の寺社などから材木を転用した可能性がありそうです。そういう事情であれば、「180年も前に切られた木材」という結果も、つじつまが合うと思うのです。 ここに挙げたのは、あくまでも考え方のひとつです。みなさんはどう考えますか? これからの研究にも期待しましょう。 西櫓が約400年前から一度も解体されずに残った…ということは、建物の下の石垣も400年間、形を変えずに残っているということになります。この石垣にも、タモリさんに説明した見事な「算木積み」を見ることができます。
仙石忠政は上田城の復興のため、本丸や二の丸の「虎口」と呼ぶ出入口に石垣を築きました。現在、南北の櫓と櫓門があるところ、二の丸橋、陸上競技場の東側などが虎口です。虎口には敵の侵入を阻むために石垣が築かれました。 タモリさんは尼ヶ淵で石垣を見たときに、「この石は凝灰岩かな」とおっしゃいました。仙石忠政は、上田城の虎口の石垣に太郎山から切り出してきた石を使っています。後年、尼ヶ淵の石垣を築いた松平忠愛も太郎山から運び出した石を使いました。 この石の種類については、「緑色凝灰岩(グリーンタフ)」だとこれまでは説明されてきましたが、最近は「流紋岩」だとする研究もみられます。上田創造館には、こうした私たちに身近な岩石や地層を勉強できる展示室があります。ぜひ一度足を運んでみてください。 教育委員会では、太郎山で石材を切り出した場所(石切場)を見つけるため、今年3月に山内の調査をしました。調査は「太郎山山系を楽しくつくる会」のほか、山に詳しいみなさんにご協力をいただきました。その結果、何ヵ所かで石切場を発見できたのです。
最初に私たちが調査した場所は、地元のみなさんが「指差しゴーロ」と呼ぶ、山の岩肌から崩れ落ちた岩石が斜面に河原のように積もった場所にほど近い、「眉間林」という一帯です。 ゴーロは「ガレ場」などとも言い、岩石だらけで木や草が生えにくく、遠くから見るとそこだけ色が違って見えます。 太郎山山系にはほかにもゴーロがたくさんあります。「指差しゴーロ」とは、岩石が積もっている範囲が、まるで指を差している人の手のように見えることから名づけられたそうです。 写真は谷の反対側から撮影したもの。なるほど、「指差し」とはよく言ったものです。なお、指差しゴーロは、遠く千曲川を挟んだ尾野山の信州国際音楽村辺りからも見えるのだそうです。自然の造形と、山への親しみから名づけられたゴーロの名前に、江戸時代に石を切り出してきた上田の殿様たちも、同じ名前で呼んでいたのかな…と、ちょっと感傷的な気持ちになりました。 享保17年(1732)、大雨による千曲川の洪水が上田城の尼ヶ淵一帯を襲い、崖がえぐられたり、崩れたりして、崖の上にあった櫓が崩壊する危険に見舞われたのです。
上田城の尼ヶ淵、崖際にある櫓といえば、現在は「南櫓」「北櫓」と呼んでいる2棟です。「現在は?」なんて回りくどい言い方をしました。このふたつの櫓、当時は「東川手櫓」「西川手櫓」と呼んでいたことがわかっています。 南櫓と西櫓の崖下には高い石垣が築かれていますよね。これらは、洪水で崖が被害を受けないようにと、享保18〜21年(1733〜1736)にかけて造られた石垣です。時の殿様は、松平忠愛(まつだいらただざね)。次の洪水に備えて、工事は急ピッチで進められるはずでした!? 上田城でこれほど大規模な石垣工事が行われるのは、おそらく寛永3年(1626)の仙石忠政の上田城復興工事以来だったのでしょう。工事を始めたはいいものの、次次に問題が生じました。 まずは石垣を積む石工さん。上田の石工さんだけでは手が足りず、技術も未熟で、工事は思うように進みません。なんと、松本から石工さんが応援に駆けつけて石垣が完成したのです。 やはり、この工事で主に使われたのは太郎山から調達してきた石です。ところが、なぜか石が足りなくなってしまったのです…!?
尼ヶ淵の芝生広場から、櫓の下の石垣を見ると、所々に四角く整形された太郎山産の石(緑色凝灰岩あるいは流紋岩)に混じって、丸っこい自然石を見つけることができます。どうやら、こうした石は太郎山の石だけでは足りなくなったため、急きょ調達された石だと考えてよさそうです。 当初は櫓の崖下だけではなく、現在の眞田神社の崖下も同じ高さで石垣を積む予定でした。ところが、石工さんや石材が不足したため、藩主の忠愛は「せめて櫓の崖下だけでも高く積むように」と命じました。 こうした工事の様子は、古文書に記録が残っており、その苦労を伝えています。そして、このときに石材を調達した場所は、まさに太郎山の指差しゴーロの北側一帯「眉間林」だというのです。山の麓まで下ろされた石は、どこかで矢出沢川を渡り、坂下の通り(芳泉寺の東側を南北に通る道)を引かれて、尼ヶ淵まで運ばれたようです。 今回行った眉間林の調査では残念ながら、上田城の石垣の石切場を見つけることはできませんでした。ただ、もう少し新しい時代の石切場を見つけることができました。
この石切場では、石の柱が採れるようです。こうした石柱は山麓まで運ばれ、神社やお寺などで使われたり、道祖神などの石仏に姿を変えたりしました。写真は、旧上田市産院の北側にある道祖神です。この石材は、この指差しゴーロの石切場から採れたものなのだそうです。 このように石切場といっても、上田城の石垣に使われた石だけを採ったわけではなく、石材の形質によっては、江戸時代、明治時代以降も太郎山山系から運び出され、私たちの身近なところで利用されたのです。 今回の調査はあくまでも上田城の石切場を見つけること。次に私たちは指差しゴーロの東側にある虚空蔵堂の裏山に向かいました。ここは以前から石切場であることが知られており、上田城の石垣の石もここから運び出されたのではないかと考えられてきました。 現地に到着して、びっくり。岩の断崖をよく見ると、なんと点線のような穴があります。そうです、これが石材を切り出すために「矢」という鉄の楔のような道具で開けた「矢穴」です。 さっそく調査を開始。私たちは矢穴の大きさをひとつずつ計測してみました。
写真上は十文字のように見える矢穴です。このひとつひとつの大きさは、長辺が5p、短辺が3p位の四角形で、深さは3〜5pほどありました。こうした矢穴が6〜7p間隔で岩に打たれているのです。たくさん矢穴を開けて、石材を切り出す…、現代ならドリルのような機械を使って行う作業を、かつては人力で行っていたのですから、非常に多くの時間と労力が必要だったはずです。 写真の箇所は、石を切り出す途中で止めてしまったため、こうした矢穴が残りました。なぜ止めてしまったのかはわかりませんが、まずはこうした痕跡を探すことが、石切場を見つける第一歩となります。 周辺の岩場をよく見てみると、実際に石材が切り出された痕跡も見つけることができました(写真下)。ここで見られる矢穴は、縦半分に割ったような形に見えます。
ここは石材を切り出した石切場とみて間違いなさそうです。ただし、眉間林のように古文書などに記録が残っていないため、この場所で採れた石材が上田城の石垣に使われたと断定はできません。でも、ここであきらめるのはとても残念です。それを調べる方法はないのでしょうか!? 上田城の石垣をよく見ると、こうした矢穴が残っている石材があります。しかもすべて同じ大きさ、形ではなく、石材ごとにいろいろなパターンの矢穴の列を見ることができます。 写真は、まるで大昔の恐竜が岩を噛んで割ったかのようにも見える石材です。矢穴が残らないように、割れ口を見栄え良く調整する石材がある一方、写真のように矢穴を残す場合もあります。なぜその違いがあるのかはわかりませんが…。 でも、歯型のようにも見える矢穴の列を見ていると、これもデザインのひとつで、石垣のアクセントとして当時の石工さんが意識して使っているのでは?とも感じます。現代で言えば、コンクリート打ちっ放しのような効果ですね。石垣の面を見ていると、石工さんたちの思いが私たちにも伝わってくるようです。
上田城の石垣で見ることができる矢穴。すべてが同じ形、大きさではありません。楔のような道具を石に打ち込む、いわば石を割るときに付いてしまう傷跡ですから、ふたつとして同じ大きさのものは無いともいえます。 残念ながら太郎山系にある石切場は、その時代を示す史料がとても少ないのが現状です。う〜ん…と頭を抱えていたところ、こんな考えが浮かびました。 「石切場の矢穴と、上田城の石垣の矢穴がもし同じ形・大きさならば、同じ矢を使って切り出した可能性が高い…。すなわち、両者は同じ時期の矢穴だと考えてもよいのではないか!?」 幸いにも上田城の石垣は積まれた年代がわかっているものがあります。もしそうした石垣の矢穴と共通する特徴が石切場の矢穴に見つかれば…。期待して調査を始めたのですが、世の中はそんなに甘くない??? 石切場の矢穴を見ると、総じて上田城の石垣の矢穴よりも大きなものばかり…。これは、山で石材を切り出す矢は大きく、お城まで運ばれてきた大きな石材を、石垣に積むために小さな石材に加工する矢は、それよりも小さなものだったという証拠…。う〜ん、残念。
太郎山の石切場の矢穴と上田城の石垣の矢穴を比較して、両者の同時性を見出すことは少々難しいようです。もう少しほかの石切場の観察を続けてみましょう。 虚空蔵堂の裏山をさらに登っていくと、牛伏城という山城に至ります。その少し下で見つかった石切場は、とても大きなもので、大量の石材をここから切り出したことが窺えます。その証拠に、石を切り出した岩の周りには、「ズリ」と呼ぶ石材を割った屑がたくさん散らばっていたのです。 ここが石切場であることは、岩に残された矢穴とズリから間違いありません。そして、切り出した石を荒加工するための平坦地が岩の周りにいくつか確認できます。こうした状況から、この石切場が長期間営まれたこともわかります。ここを仮に「牛伏の石切場」と命名しましょう。 私が一番驚いたのは、ズリが土塁のように積み上げられてもいたことです。その膨大な屑の量に鳥肌が立ちました。そして、石切場のある山の中腹から千曲川方面の景色を見て、「なるほど…」と納得させられました。「もしかしてここが上田城の…」そう思わせるものが正面に見えたのです。
牛伏の石切場から正面に見えたのは市街地にひときわ目立つ緑…。そう、上田城です。この石切場はお城のほぼ真北にあり、切り出した石をお城まで運んだとしたら、最短距離でとても効率的だったのでは? ここがお城の石切場だったかどうかは、今後も追求していきたいと思います。 今回の最後の調査地点は、太郎山の表参道沿いにある石切場です。ここは以前から太郎山神社の鳥居の石を切り出した場所だと言われており、最初は「お城とは関係ないでしょ」と高をくくっていました。 その場所は表参道12番丁石(登山口からの距離を記した道標)付近。ここには矢穴が一列に刻まれた石が残っており、太郎山に何度も登ったことがあるみなさんには、矢穴のある石はよく知られていたそうです。 石垣の石を切り出そうとしたにしては、長く直線状に刻まれた矢穴の列に少々違和感があり、「あぁ、やっばり新しい時代の石切場だろうな…」というのが第一印象でした。 ところが、念のため周囲の岩の調査を始めたところ、びっくり。「ここは牛伏よりもすごいのでは…」、そんな思いが頭をよぎりました。
太郎山表参道の12丁石付近。周囲には上田城の石垣でもおなじみの石が大きな塊となっているのが見えます。その岩の塊の表面を観察すると、ありましたよ、たくさんの矢穴が。しかもこれまで見てきた石切場のなかで、一番多くの矢穴が見つかったのです。 写真上は、矢を打ち込んで割ろうとした痕跡が残る岩塊です。表参道12丁石付近には、こうした岩が3〜4ヵ所に分布しています。かなり大規模に石を切り出したことがうかがえます。 さて、これまで何度も出てきた矢ですが、金沢城等で江戸時代のものが出土しています。残念ながら上田城ではまだ確認されていませんが、今回、調査に参加された石工さんのお宅に残る「豆矢」と呼ぶ道具をご紹介しましょう。江戸時代のものではないのですが、形などはかなり似ていたものと考えられます(写真下)。
表参道から少し林のなかに入ると、なんと、いくつかの岩に無数の矢穴が打たれた光景を目にしました。なかでも、四角い石材を切り出した痕と、矢穴が縦横に残された縦3×横3×高さ1.5mほどの岩塊が目を引きます。岩の上に積もった葉っぱを取り除くと、たくさんの矢穴が現れました。岩の周りには「ズリ」がたくさん散らばってもいます。また、石材を整える作業をした平らな地面もあり、ここは石切場の典型例ではないかと思われました。 そしてこの石切場は、岩塊が石材を切り取られるたびにだんだんと小さくなっていく過程がとてもよくわかります。これまで紹介してきた太郎山の石切場のなかでも、とても貴重な資料となりそうです。 ただ、この石切場は現在知られている江戸時代の古文書には記録が見られません。上田城との関係は現時点では何とも言えませんが、今後の調査に繋がるよい資料となりました。 たった一日の調査でわかることは限られています。表参道の石切場はこの初冬にもう一度調査をしたいと思っています。結果は、またみなさんにお知らせしたいと思っています。
上田とともに真田氏の居城となった沼田では、この8月末まで「ブラタモリパネル展」が開催されていました。「全国から番組のファンのみなさんがたくさんお越しになられましたよ」とは受付の方のお話。街なかでカメラを持った人が、番組で紹介された「武者隠し」を撮影している姿を拝見し、上田もたくさんのファンのみなさんに訪ねて欲しいな…と思いました。 ずいぶん石垣の話が長くなってしまいました…。話をタモリさんとの町歩きに戻しましょう。 尼ヶ淵の石垣と上田泥流の崖をご覧いただいた後、タモリさん一行は上田城の百間堀・広堀の跡に造られた野球場と陸上競技場に向かいました。この運動施設は昭和天皇の即位を記念して造られたもので、全国でも1位、2位を争うくらい、歴史のある施設なんです。 タモリさんにも説明したとおり、このふたつの施設はお城の堀の形状を活かして造られたことが自慢の種です。写真は野球場がオープンしたときのものですが、実はこの野球場を造る工事のとき、堀の中からあるものが見つかっているのです…。そう、キラキラと輝くあの破片です!?
みなさん、野球場工事のときに広堀跡で見つかった破片、何だかわかりましたか? それは「金箔瓦」の破片です(写真)。上田市立博物館の記録によると、これは昭和2年の工事のときに出土したものだそうです。鬼瓦の破片と考えられ、上田城の出土品のなかでは一番、金箔が残っているものです。 金箔瓦は、天守やそれに匹敵する3階建て以上の櫓に載せられていたといいます。ただ、松本城では太鼓門(松本市役所に面した門)の付近から出土しており、金箔瓦は立派な門にも載せられていた可能性があります。 広堀跡(野球場)から出土したこの金箔瓦は、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか…。 広堀や百間堀(陸上競技場)は、真田昌幸が城を築く前は、矢出沢川と蛭沢川が合流した川が作った谷を利用したと考えられます。3月に行った野球場観客席の発掘調査でも、この谷の一部を確認しました。川は上田高校第二グラウンドの西側で塞き止められ、堀として利用されたのでしょう。 一方、矢出沢川は現在のように城下町の北側を東西に一直線に流れる外堀へと姿を変え、北側の守りを担うこととなったのです。
野球場と陸上競技場は、広堀と百間堀の地形を利用して造られました。 まず野球場。一塁側スタンドは、堀の面影をよく残しています。観客席が並ぶ斜面は、堀の斜面をほぼそのまま利用したと考えられます。その傾斜が、野球観戦にもってこいの観客席へと姿を変えたのです。バックネット裏の建物は、さらに南側に続く細い堀を利用して造られています。その様子は、昭和2年に架けられた小泉橋から見るとよくわかります。 ところが、堀の中に野球場をはめこむように造ったために、制約もありました。その最たるは、外野スタンドが造れなかったことでしょう。堀の西側斜面を削ったり、大規模な盛土をすれば外野スタンドだって造れたと思うのです。 なぜ、堀の地形を残すことにこだわったのか、今では知る由もありませんが、昭和の初めに、野球場の設計や工事に関わった人たちに感謝しなければいけませんね。なぜなら、堀の地形を、こうして現在まで伝えてくれたのですから…。 映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」のロケ地にもなったこの野球場。これからも様々な歴史を刻んでいくことでしょう。
タモリさんとのロケ当日は、野球場から陸上競技場に通り抜けてもらいました。かつて水の流れとは逆になってしまいましたが…。 お城の堀の中を歩くわけですから、ふだんあまり見ることがない景色のはずですが、私は中学生のころによく利用した陸上競技場に入ると、とても懐かしい気持ちでいっぱいでした。上田城はお城としての役割を終えた後、大勢の人たちに親しまれる史跡公園として生まれ変わったのだということに気づかされます。 もうひとつ、実はそれまで知らなかったのですが、陸上競技場から烏帽子岳がとてもよく見えたのです。うっすらと雪を被った山頂を見て、私は思わず、「烏帽子岳に3回雪が降ると、次は里に雪が降る」という伝承をタモリさんたちにお話しました。これが後に私にとって忘れることができない言葉になろうとは、このときは考えもしませんでした。 「真田丸」の第35話「犬伏」で、昌幸と信繁が九度山に流される場面がありました。その直前、上田城内で信繁が義兄の小山田茂誠と話している場面で、なんとびっくり、信繁の口から「烏帽子岳に…」のセリフが飛び出したのです!?
「真田丸」は日曜午後6時からの放送を「早丸」、午後8時からを「本丸」と呼び、土曜の「再丸」も含め、3度ご覧になった方もいらっしゃるとか…。ちなみに私は「本丸」派でした。 「烏帽子岳に…」が放送された後、私のスマホには、「おめでとう」「よかったね!」などのメッセージがたくさん寄せられました。とくに「早丸」をご覧になったみなさんからは、午後7時ごろからメッセージをいただいたようですが、私はスマホを見ることなく、「本丸」は始まりました。 実は私、タモリさんたちとご一緒した放送をちゃんと見ていません。自分が出ている画面が恥ずかしくて直視できなかったのです。 だからかもしれないのですが、堺雅人さんが「烏帽子岳に…」のセリフをおっしゃったときに、なんとなく「ん? どこかで聞いたことのある言葉だな?」くらいにしか感じていませんでした。 部屋に戻ってスマホを見てびっくり!「そういえば、あのときの…」と遅ればせながら、とても感激したことを憶えています。 もうじき烏帽子の頂が白くなる時季ですね。
タモリさんたちと上田城内を歩いたのは陸上競技場まででした。放送ではこの後、城の外堀である矢出沢川に沿って、生塚から北国街道を城下町に向かって歩く様子が映りました。 実はブラタモリでは、収録をしたのに番組ではオンエアされなかった場所があります。城内では1ヵ所、30分以上も時間をかけて収録したのにカットされてしまいました。みなさん、それはどこだかわかりますか? ヒントは「今回は真田丸スペシャルなので…」という番組ディレクターさんの言葉です。 タモリさんが鉄道好きなのをご存じの方は、もうピンときたかもしれません。そうです、その場所は二の丸橋。城の堀跡に敷かれた線路と駅があった場所です。 上田城はお城の役割を終えた後は、史跡公園として多くの人たちの暮らしに関わってきました。動物園があって、クマやシカ、サルが人気者だったこと。市民会館での成人式や学校の合同音楽会、コンサートなど、懐かしい思い出です。お花見や市民会館に某大物芸能人が来るなんてときには、二の丸橋の下にあった「公園下駅」は大勢の人で賑わったのだそうです。
お城の堀のなかを通る線路は、上田駅と真田地域の長・傍陽方面を結んでいた路線です。公園下駅は無人駅だったのですが、上田城の最寄駅として、大勢の利用客に親しまれました。 昭和3年の開業当時は、「上田温泉電軌」という会社の「北東線」と呼ぶ路線でした。まず、神川の手前の伊勢山駅までが開業し、その後、真田駅、傍陽駅までが全通したそうです。今でも伊勢山に残る当時のトンネルは、その先の土木工事がたいへんだったことを窺わせるものでしょう。 北東線は菅平の高原野菜や傍陽の石材や鉱物、そして「お蚕さま」の繭や養蚕に関わるみなさんなど、たくさんの人や物資を運びました。ところが自動車の普及で乗降客が減り、昭和47年についに廃止となります。 二の丸橋や駅の辺りは、電車が走っていた当時の面影をよく残しています。最近、けやき並木の遊歩道を舗装しましたが、その部分が線路のようにも見えます。 「電車を走らせるためには何が必要ですか?」 「電気…」とタモリさん。「では、その痕跡を見つけましょう!」みなさんも二の丸橋でその痕跡を探してみませんか?
みなさん、おわかりになりましたか? 二の丸橋に残る電車が通っていた当時の痕跡…、それは「碍子」と呼ばれる、電車に電気を供給した架線の絶縁体です。 写真はその碍子。50代以上の方は、家の中にあった小さなものや電柱に付いていた碍子を見たことがあるかもしれません。最近では、あまり身近なものではなくなってしまいましたよね。 タモリさんとの鉄道談義はとても面白くて、時間が経つのを忘れてしまいました。上田城には、このようにお城とは直接関係がないものの、上田の歴史を考える上で大切なものがたくさん残っています。神社やラジオ塔、赤松小三郎ほか先人・偉人の石碑や銅像など、お城が公園に変身したことを伝える語り部を見つけながら、お城を歩いてみるのも楽しいものです。 さて、そろそろお城を出て、その後のタモリさん一行の足跡をたどってみましょう。 午前中の収録で堺雅人さんとはお別れ。堺さんは鶴瓶さんと真田方面で「家族に乾杯」。タモリさんはお城を出て、今度は城の外堀だった矢出沢川に真田の痕跡を見つけるため、生塚の「高橋」に向かいました。
江戸時代の百間堀のなかに造られた陸上競技場。そもそも百間堀は、ここを流れていた矢出沢川が形成した広くて深い谷地形を利用したものです。百間堀自体は仙石忠政が整備したものですが、真田昌幸が上田城を築いたときから、堀として使われたものと考えられます。 現在の矢出沢川は、お城の北側を東西に一直線に流れ、生塚の高橋の辺りでほぼ直角に折れ、南に向かっています。お城の北側と西側の流れは外堀として人工的に造られた川だと考えられるのです。 もともとは陸上競技場の辺りを流れていた矢出沢川。真田昌幸はこの流れを北側に付け替え、新しく造った外堀に水を供給したのです。この「新矢出沢川」は、元々あった条里(碁盤の目状の昔の田)の水路を整備した可能性があるそうです。 江戸時代もお城の西側には蛭沢川が流れていましたが、これも外堀として人の手で流れが変えられたと思われます。蛭沢川は原町から柳町の辺りまで、標高の低いところから高いところに向かって流れています。何だか不思議だと思いませんか?
蛭沢川を整備し、矢出沢川と合流させたのは、真田昌幸ではなく、仙石氏だと考えられています。 こんな逸話があります。江戸時代には大水が出て川岸が崩れても、蛭沢川はそのままにして、直すことがなかったと…。これは川幅を広げることで、より防御力を高めるためだったと言います。 上田築城や矢出沢川の付け替え工事には、大勢の徳川方の人たちが応援に来たと考えられます。なぜなら、築城を始めたころは、昌幸は徳川家康の配下となっていたからです。上田城は上杉方に対する、家康の前線基地という意味合いが強かったはずです。より強固な城にするために、外堀をはじめとした堀を何重にも巡らしました。 矢出沢川は高橋の辺りまで行くと、川底が深く、立派な堀だなぁという印象です。ところが蛭沢川は川幅も狭く、堀としてはもう少しだな…という感じがします。人の力だけでなく、大水の破壊力をも利用して、城の守りに役立てたとは、逆転の発想に驚きです。 さて、タモリさんとの収録は高橋から再開。ここは江戸時代の北国街道。城下の西の出入口として、強固な防御を備えた場所です。
「この橋は高橋と言います。なぜでしょう?」タモリさんに質問をぶつけても、素早く正解を返されてしまう場面は「ブラタモリ」でもおなじみですよね。 高橋の辺りは、矢出沢川では一番川底を深く掘り下げた場所に当たります。それは東西のほぼ同じ標高の場所に水を流すため、西へ向かって川底を低くしなければならなかったからです。おそらく「高橋」とは川底からの高さが高いことから「高橋」と呼ばれるようになったのではないかと私は考えています。 それはそうと、みなさんは「高橋」の場所をご存じですか? 国道18号線と矢出沢川の南側を平行して走る北国街道が、国道に向かって北に折れる場所に架かる橋です。国道の生塚交差点の南側、芳泉寺さんの北側辺りにある橋です。 仙石忠政の子・政俊が上田の殿様だったころに作られた絵図(正保4年の信州上田城絵図)を見ると、高橋の位置が現在とは違っていることに気づきます。橋の所で北国街道は鍵の手に折れ、見通しを悪くしています。こうした工夫の名残は、身近な場所にもたくさんあります。みなさん、どこだかわかりますか?
お城の周辺で、見通しを悪くするために道を鍵の手に曲げる工夫…、上田の城下ではほかに商工会議所前のクランクの道はもちろん、横町から海野町に曲がるところ、原町から木町、木町から柳町…など、現代でも鍵の手の道を当時の名残として見ることができます。 上田の城下町と周辺の北国街道を整備したのは、昌幸の長男・真田信之です。信之は父から引き継いだ上田の町を「城下町」と「宿場町」の機能を兼ね備えた町へと再整備したのです。 海野町と原町は商人の町でしたが、仙石氏のころには本陣、脇本陣などといった、参勤交代のときに殿様やお付きの人が泊まる宿が整備されました。海野町や原町には現在、こうした施設があった場所を示す案内板が設置されています。みなさんも、ぜひ探してみてください。 「えっ? 城下町と宿場町がいっしょなんておかしくない?」。そう思われた方もいらっしゃるでしょう。 確かに、城下町とは殿様のお膝元として防備が固められた町です。そんなところに別の城のお殿様が泊まったら、もし命を狙われたときに、逃げ道を無くす危険もゼロとはいえないでしょう!?
そんな事情もあって、上田宿に泊ってくださったのは、金沢のお殿様ぐらいだったそうです。 城下町は、折れ曲がった道を所々に配置して守りを固めました。上田ではほかにも敵の侵入を阻むための備えが設けられています。それは、今でも「土橋」と呼ばれている、原町郵便局の前の交差点のところです。 タモリさんとの町歩きもここが終点。朝8時ごろに駅前を出発してから、土橋に着いたころには時計はもう3時を指していました。半日なんてあっという間…、NHKからの初めての電話から半年、これで全部終わってしまうのかと思うと、とてもさみしくなりました。 「土橋」とは城下を囲む外堀の蛭沢川に架けた木の橋です…?「それなら『木橋』でしょ」と思われた方もいらっしゃるでしょう。実はこの橋、上に土を敷いてカモフラージュし、土橋だと勘違いして敵が侵入してきたときには、橋脚を壊して橋を落としてしまう仕組みでした。 現代でも舗装した道路の下を蛭沢川が流れ、なかなか橋だとは気づきません。今に伝わる城下町の痕跡として、みなさんにもぜひご覧いただきたい場所です。
明けましておめでとうございます。 このコーナーを任せていただくようになって、もうじき満3年になります。タモリさんとのエピソードをもとに綴った「続・城歩きのススメ」は今回でおしまい。次回からは「上田城、これから…」と題し、お城の将来整備構想のお話をして、そろそろ連載もまとめに入りたいと思います。 先日、東小学校の5年生のみなさんが社会科見学で上田城を訪れました。何でも事前にブラタモリを見て学習をしてきたとのこと。なるほど、石垣の算木積みや緑色凝灰岩、上田泥流層…、子どもたちからは次々と専門用語が飛び出します。みんな目を輝かせて、タモリさんの足跡をたどっていました。 もしタモリさんともう一度お会いできたなら、お礼を言いたいです。放送以降、上田城はタモリさんが歩いたルートをたどるみなさんであふれました。尼ヶ淵や野球場にも大勢のみなさんが足を運んでくださるようになりました。今まで知っているようで知らなかった上田城と城下町。タモリさんはその魅力を、全国に発信してくださったのですから。 (続・城歩きのススメ 終り)
みなさん、お正月はどのように過ごされましたか? きっと眞田神社に初詣に行かれた方もいらっしゃるでしょう。 この眞田神社の前身は、松平の殿様を祭った松平神社ですが、いつからお城のなかにあったと思いますか? 正解は明治12年(1879)。約140年前からお城、いや正確には「城跡」にある神社です。明治時代を迎え、公園として新たな歴史を刻むことになった城跡がたくさんあります。上田城はもちろん、小諸城(懐古園)などもそうです。 以前は、お城の価値というと櫓や石垣、堀といった江戸時代の城の痕跡だけを指しましたが、最近はちょっと変わってきています。身近な上田城を例に見てみましょう。松平神社(眞田神社)は、100年以上も前から城跡にあり、現在の公園のもととなる「上田公園」が整備されるきっかけを作った神社です。 上田招魂社も古く、松平神社よりも少し前、明治初年の戊辰戦争の戦没者を慰霊したのが最初で、明治14年に本丸のだんご山に祭られました。今も戊辰戦役の碑が残っていますので、招魂社がかつて本丸にあったことがわかります。
招魂社が今の場所に移転したのは、大正13年のこと。本殿・拝殿はそろそろ100年を経過しそうな古い建物です。招魂社は先の大戦のほか、戦争で尊い命を失った方々をお祭りしています。 こうした神社の存在は、城跡が神聖で公的な場所として意識されていたことをうかがわせます。いわば、明治時代になって、お城が現役のときとは違う役割をもち始めたということです。 これまで「上田城の謎と実像」と題して、江戸時代のお城の姿や、発掘調査の結果、真田氏ゆかりの史跡などについてお話してきました。最後に、お城が「城跡」となり、どのように変化してきたのか、そして上田城の未来予想図について話をして、連載を閉じたいと思います。 神社と言えば、松平氏のころ、今の第二中学校の西側に、「鎮守曲輪」と呼ばれる一帯があり、鎮守社が祭られていました。社殿は壊されたままになってしまいましたが、霊代は大宮社に移されたといいます。現役のお城に神社があったとは、意外ですね。一方、「城跡」には松平神社、招魂社のほかにも神社がありました。そう、お城の払い下げのときに本丸を購入した、あの人に関わる神社が…。
写真はどこだかわかりますか? 現在と景色が違いますが、よく見ると鳥居が写っていますよね。 これは、昭和24年に北櫓が移築復元される前の石垣の写真です。本丸の土地を購入した丸山平八郎さんが櫓を解体した後、石垣の上に「丸山稲荷社」を祭りました。当時、城跡に神社が3つもあったとは驚きです。 明治新政府は「神道」を国家の礎としました。そして「古いものを捨て、新しい世の中を創る」という風潮の下、お城は古き遺産とされ、解体されるなどして姿を変え、公園や神社等の公共の場となっていきます。 みなさんは、現存する天守はいくつあると思いますか? 身近な松本城、最近国宝になった松江城など12城です(諸説あり)。また先の大戦で燃えてしまった天守もあります。広島城、名古屋城、岡山城などがそうです。 新たな社会となり、解体された城が多数あるなか、古き遺産を大切に保存しようという動きが興りました。城が国民共有の財産として再スタートを切ったのです。 上田城の本丸が公園になったのは明治29年ごろだといいます。いったいどんな公園だったのでしょうか!?
本丸には松平神社と招魂社、丸山稲荷社があり、「上田公園」と呼ばれました。 写真は明治末年ごろのもので、「上田公園入口」と記されています。この写真を見て、先入観で二の丸橋のところだと勘違いしました。では、このころ、二の丸はどうなっていたのでしょう。 二の丸橋を渡ったところには当時、監獄があり、白壁の高い塀に囲まれていました。現在の二の丸橋のところには監獄専用の橋が架かっていて、少し南側に公園専用の橋がありました。 昭和3年、堀底に北東線が開通、監獄用の橋は現在の二の丸橋に改築され、電車が通れるように下がトンネルとなりました。このころまでに監獄の移転が決まり、南側の公園専用の橋は削り取られ、二の丸橋が公園の出入口となったのです。かつての橋の痕跡がケヤキ並木に残っています。堀の土手が、旧市民会館の側で盛り上がっているところです。 監獄が移転し、二の丸の公園化の動きが一気に進みます。公会堂、運動場、遊園地…、私たちの知っている、現在の上田城跡公園の原型を見ることができます。
昭和の初めは、上田城跡が近代的な公園へと大変身した時期だと思います。そのきっかけとなったのが、昭和天皇の即位、まさに新たな時代の始まりでした。 陸上競技場と野球場は、即位をお祝いして造られたもので、全国的にも大変歴史のある施設です。当時の勝俣英吉郎市長は二の丸の公有化を精力的に行い、公園整備を進めました。野球場の南東付近に市長の胸像があるので探してみてください。 さてみなさん、このときの市の収入役って誰だかご存じですか? 本丸を買い取ったあの丸山平八郎さんの孫「丸山平八郎」さんです。 あらら、連載終了が決まってついに気が抜けたのかしら…なんて思わないでくださいね。丸山さんの「平八郎」は世襲されており、本丸を買い取った平八郎は11代「直養」さん、その土地を神社と市に寄付したのが12代「直義」さん、収入役として二の丸の土地の買収に尽力したのが13代「直好」さんです。例えば13代は「丸山平八郎直好」が正式な名前となります。 3代にわたって城跡の公園化にかかわった「平八郎」さん。上田城跡の歴史を考える上で、彼らの業績を忘れてはならないと思います。
昨年、児童遊園地に新しい遊具がお披露目されたとき、大勢のご家族が遊びに来てくれました。私もかなり前に、娘を連れて遊びに行ったことを思い出します。上田城跡公園は史跡公園である一方、こうした市民のみなさんの憩いの場としての役割もあります。 監獄が移転した跡地にはテニスコートと遊園地、少し遅れて動物園ができました。当時の写真には子どもたちの笑顔がいっぱいです。 博物館の辺りに動物園があったのは、昭和40年代まででしょうか。幼いころ、母と城跡公園にクマを見に行った記憶があります。ただ、クマそのものを見たのではなく、檻があったのでそのように思っているだけかもしれませんが…。 私の城跡公園の思い出は、このクマと、予備校時代に花木園に通って食べた孤独なお昼ご飯…、みなさんもきっと、懐かしい思い出があると思います。 昔は本丸の堀に「だんご山」へ渡る吊り橋が架かっていたこと、魚釣りやスケートができたこと、現在は桜や紅葉、野鳥が私たちの目を楽しませてくれること…など、世代を超えて城跡公園は、つねに私たちの身近にありました。
世界遺産に登録されている姫路城。国内だけでなく、外国からの観光客もたくさん訪れる、日本を代表するお城です。教科書にも出てくる国宝の大天守や櫓、石垣など、まさにお城の典型と言えるでしょう。 上田城とは建物の規模も城郭の広さも違う姫路城…、同じ城跡でも何だか別世界のもののように感じてしまうのですが、実は上田城と似たところがあります。それは、城跡内にまだ現役の動物園があることです。 世界遺産となり、大勢の人たちが訪れるようになりました。でも、一方で城跡にある動物園が市民、とくに子どもたちに親しまれていることは、全国の城跡が明治以降に歩んできた姿と一致します。天守があろうとなかろうと、城跡は人々の心のよりどころとして、大切にされてきたのです。 熊本の大地震からもうじき2年。地震から間もないころ被災したみなさんから、こんな声が地元市役所にたくさん寄せられたそうです。 「熊本城を早く元に戻してほしい」。 お城なんて二の次、被災されたみなさんにとって一番大切なのは、早く元の生活に戻ることだと、私は思っていました。
あの日、砂煙を上げて瓦が落ちた大天守を見て、切なくなったのは私だけではないでしょう。石垣が崩れ、たった一列の隅石だけで櫓を支えている無残な姿…。地震であのような甚大な被害を受けたお城は、近代以降、例がないと思います。 お城に関わる仕事をして10年余、熊本のみなさんの言葉に改めてお城の存在感というものに気づかされました。日常の景色のなかのお城は、ずっと前から変わらない、空気みたいな存在だったのかもしれません。でも、「早く城を直してほしい」という言葉は、熊本城が市民のみなさんのよりどころになっていたことを何より示しています。上田城跡はみなさんにとってどんな存在ですか? 熊本城とはちょっと違うかもしれませんが、上田市民の力が結集し、上田城保存の大きな原動力となった出来事があります。それは、明治の払い下げで城外に移築された、北櫓・南櫓がお城に戻ったときの話です…。 軍部が太平洋戦争へと突き進んでいたころ、上田ではかつて遊郭の貸座敷として使われていたふたつの櫓が売却され、東京に移築されるかもしれない…という危機を迎えていました。
「上田のシンボルである櫓が遠くに売られてしまう」―上田の人たちは寄付金を募って2棟の櫓を買い戻し、何とか城跡に移築しようとしました。 その結果、集まった募金で櫓の買い戻しに成功。本丸の石垣の上に建築を始めようとしましたが、時は昭和17年、開戦後の非常時に櫓の移築は困難を極め一時中断。終戦後に再開した工事は、昭和24年に完成し、現在の北櫓・南櫓となりました。 平成6年には、ふたつの櫓の間に、櫓門が発掘調査や古写真の調査結果を踏まえて復元されました。こうして、かつての上田城本丸の正面玄関が甦ったのです。 この櫓門の復元整備は平成2年度に策定された「史跡上田城跡整備基本計画」に基づき、実施したものです。この計画は平成23年度に改訂し、単に城跡を江戸時代の姿に戻すだけでなく、目的別にゾーン分けをして整備をする方針としました。江戸時代の景観を復元する史跡ゾーン、桜や紅葉などの景色を維持管理していく植栽ゾーン、市民や観光客のみなさんのための憩いのゾーンなど、城跡を後世に引き継ぐために必要な整備方法を提案しています。
春本番ももうすぐ。上田城が桜の花でいっぱいになるのが楽しみです。なぜって? それはご想像におまかせします…。 「真田丸」のときもそうでしたが、大勢のみなさんが笑顔でお城を楽しんでいる光景は、文化財である上田城を次の世代に伝えていくための方法を私たちに教えてくれているように思います。 みなさん、上田城が桜で有名になったのはいつのことかご存じですか?以前、このコーナーでも紹介したことがありますが、明治40年ごろの絵はがき(裏側に写真が印刷されたもの)に「花の上田公園」というタイトルのものがあり(写真)、本丸が神社を中心とした公園になった明治20年代の終わりごろには、すでに桜を植えていたらしいのです。絵はがきを見ると、すっかり大木となった桜が写っていて、だんご山には屋台のようなものもあったようです。 昭和10年ごろの写真にも本丸堀の桜が写っています。これも古くからある桜でしょう。ところが、桜(ソメイヨシノ)は江戸時代のお城にはなかった木だからという理由で、少し前まで「植えるな」「伐採しろ」という声もあったのです。
これは上田城に限ったことではなく、全国の史跡に指定されたお城で同じような指導がされてきました。 現在でもこうした風潮はなくなってはいませんが、お城としての役割を終えた「城跡」の歴史も大切に守っていこうという考え方が、私たちのような文化財に関わる者や、文化庁などのみなさんにも共感が得られるようになってきました。桜を城跡に植えた先輩たちの思いを、誰も否定することはできないはずです。 私はこの仕事に就くまで、お城や真田氏のあたりは、日本史でも一番嫌いな時代でした…。ところが、仕事でお城を訪ねるようになって、少しずつですが、考え方が変わりました。 「お城って、こんなにも愛されていたんだ…」 熊本城は私が最初に「お城っておもしろいなぁ!」と感じたところです。松山城、高松城…訪ねたお城が増えるにつれ、それを大切に守ってきた人たちの努力の成果と足跡を感じ、お城の魅力に取りつかれました。 「堅苦しい話ではなく、自分が楽しい、素敵だと感じたことをみなさんにお伝えしよう」。この連載で私が一番気をつけてきたことです。
上田城に対する思いは、おのおの違うでしょう。私の価値観を押し付けるつもりはありません。ただ、桜の季節を迎え、お城にお花見に訪れたときに、この連載でお話しした上田城の魅力、エピソードなどを少しでも思い出していただければ、とてもうれしいです。 城跡となった上田城の名残をもう少したどってみましょう。まずは二の丸橋の北側の石垣と土塁です。「それって、江戸時代から残っているものでしょ?」と思われた方も多いでしょう。でも、実は違うんです。 現在見ることができる石垣は、明治30年代ごろに積み直したものと考えられます。石垣と土塁の上には、監獄を囲む白壁の高い塀が造られ、現在もその礎石が残っていると以前お話ししました。 土塁の上を歩いてみてください。川原石が列になって並んでいるのがわかります。博物館の南側で発掘調査をしたときに、土のなかから、白壁の破片がたくさん見つかりました。きっと昭和の初めに、監獄の塀を壊したときのものでしょう。 高い塀がなくなった石垣の上には、城下の人たちの暮らしに欠かせなかった、ある建物が移築されました。
ある建物…それは城下に時間を知らせる「時の鐘」です。二の丸橋の北側の石垣上にある建物ですが、これはもともとこの場所にあったものではありません。 江戸時代の上田城下町絵図を見ると、「時鐘」という文字を現在の清明小学校の東側に見つけることができます。時の鐘は仙石氏のころに、ここ七軒町に建てられ、幕末までこの場所にあったと伝えられています。七軒町とは武家屋敷が7軒あったことが町名の由来なのだそうです。 その後、明治初期に現在の八十二銀行上田支店の前に移転、同21年には、上田商工会議所の辺りにあった虎口の石垣上に移り、昭和9年に現在の二の丸東虎口の石垣上に移転しました。 ところが、昭和18年に太平洋戦争による物資の不足で金属類回収令が出され、鐘は供出されてしまいました。現在の鐘は、昭和47年に自治会連合会のみなさんの努力による募金で造られたものです。 外観には現代の修復の痕が見られますが、骨組みなどに江戸時代の材木が残っています。時を告げることはなくなっても、江戸時代から上田の街を見守ってきた建物と言えるでしょう。
上田城は真田昌幸による築城から430年あまりが経ちました。徳川の二度もの攻撃に耐えた「昌幸の城」。現在の上田城の姿のもとになった「仙石氏の城」。石垣の新造や修復などの苦労を乗り越え、幕末まで城の姿が守られた「松平氏の城」。城だった当時の歴史を振り返ると、改めて上田城の魅力に気づくことができます。 そして城跡となった後も、南北櫓の買上げと移築など、幾多の苦難がありました。ただ、それらは上田城を愛する多くのみなさんの熱意で乗り越えられてきました。 時の鐘もそうしたひとつの「記念碑」だと思います。傷みが激しいため、今後、修理をして守っていきます。また、お気づきのみなさんも多いかと思いますが、本丸の堀も法面崩落がひどくなっています。御心配の声が私どもにも届いています。お城の魅力を壊さない方法で工事ができるよう、計画をしていますので、もうしばらく時間をください。 城跡となった上田城ですが、こうした復旧や修理、そして江戸時代の城の姿を復元する整備を進めながら、未来へと受け継いでいくことが私たちの務めだと考えています。
連載が始まって3年が経ちました。みなさんにお伝えしたかったことは、これで全部です。 読者のみなさんからお叱りをいただき、自身の勉強不足を反省したこと。筆が遅く、編集長から何度もお尻を叩かれたこと、正直、「やめたいな…」と思ったこともたびたびでした。 そんなとき、毎週紙面を切り抜いて綴ってくださっている方がいらっしゃると聞き、元気をもらったのは当然ですが、それ以上に、みなさんを裏切るような不勉強ではいけないと、努力をしてきたつもりです。 「私も歴史が好きなんです!!」と先日、あるお店でレジの方に声を掛けていただきました。編集部に届いた激励のお便り。読者のみなさんのこうした支えがあったからこそ、なんとか原稿の提出を続けることができたのだと思います。みなさんには心からの感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。ありがとうございました。 …と、今回が最終回となる予定だったのですが、2月下旬、上田城から26年ぶりに金箔瓦が出土しました。ちょっとだけ連載を延長して、紹介をさせていただいてから、筆を置きたいと思います。
先日の「上田城本丸で金箔瓦が出土!」というニュースを見てくださった方もいらっしゃるでしょう。2月の末に発掘調査をした真田神社の境内(尼ヶ淵の崖上付近で、3年前まで社務所があった)での発見でした。 今回の調査は、尼ヶ淵に面した崖上にあったとされる土塁(だんご山を囲んでいるような盛土)の痕跡を確認し、将来の復元整備に役立てることが目的でした。なので、金箔瓦が見つかるとは想像もしてなかったというのが正直なところです。 私の発掘調査歴は今年で30年、初めて金箔瓦の出土に立ち会うことができ、背筋がゾクゾクとして興奮を抑えられませんでした。 金箔瓦は織田信長の安土城や豊臣秀吉の伏見城、大坂城などで使われました。写真は現在の大阪城天守の屋根です。たくさんの金箔瓦があります。これらは復元されたものですが、秀吉の頃もこのように豪華絢爛な天守だったことがうかがえます。 上田城では今回が5点目ですが、伏見城でも近年、金箔瓦が多数出土し、「ブラタモリ」でも話題になっていました。やはり秀吉の城、その出土量に驚かされます。
「真田丸」でも描かれていましたが、真田昌幸らは、伏見城の築城工事に動員されています。そうです、完成を目前にして、地震で壊れてしまったあのお城です。 昌幸たちがこのときに見たものをまねて、上田城でも金箔瓦を使うようになったとも言われますが、正確なことはわかっていません。 天下統一を果たした秀吉は、徳川家康を駿府から江戸に追いやり、家康に近い信濃の武将たちも関東に移りました。その結果、小諸城や松本城などに秀吉の息の掛かった武将が再配置され、城も大改修されたといいます。松本城や小諸城でも当時のものと考えられる金箔瓦が出土しています。 上田城の昌幸もこのころ、城を改修したと考えられています。確かな記録は残っていませんが、このときに金箔瓦を載せた建物が城内に造られた可能性が高いのではと私は考えています(第二次上田合戦の直前?)。 上田城跡で金箔瓦が出土したのは、平成3年に本丸の堀底から、しゃちほこの破片が見つかって以来、26年ぶりの発見です。昭和の初め以降に出土した、記録と実物が両方とも残っている金箔瓦としては5点目の破片となります。
今回出土した金箔瓦の破片は「鬼瓦」の一部ではないかと考えています。 鬼瓦とは瓦葺き屋根の大棟(てっぺんの水平な部分)の両端や、大棟から直角に前後に下る降棟(くだりむね)の先端につける飾り瓦で、魔除けの意味をもつものだそうです。 写真は奈良の法隆寺にある門の屋根を撮影したもの。鬼瓦をはじめ、いろいろな瓦が載っています。 現在、市立博物館で展示している金箔瓦は、鬼瓦、しゃちほこ(鯱瓦・しゃちがわら)、鳥衾瓦(とりぶすまがわら)の破片5点です。写真を見ながら、それぞれの瓦について説明しましょう。@が鬼瓦、Aは鳥衾瓦、Bがしゃちほこ。写真はあくまでも一例です。 鬼瓦すべてに鬼の顔があるわけではなく、家紋などをつける場合もあります。
5つのうちで一番古い出土例は、昭和2年に現在の上田城跡野球場(当時は市営運動場)の建設工事のときに見つかった、鬼瓦(写真)と鳥衾瓦です。野球場のある場所は、江戸時代には二の丸の堀(広堀)だったところです。出土した場所は、野球場と陸上競技場の境付近だと聞いています。 前回掲載した法隆寺の門の写真をご覧ください。降り棟先端では、鬼瓦と鳥衾瓦は組み合わせて用いられています。昭和2年に出土した金箔瓦とは、実はこの2種類の瓦なんです。 組み合わせて使う鬼瓦と鳥衾瓦の破片がセットで出土したことから、ふたつの破片は、建物から落ちて割れた後、それほど遠くまで移動していない可能性が高いと思われます。裏を返せば、破片が見つかったあたりに、金箔瓦を載せた建物が存在したかもしれない、ということです。 このあたりは仙石忠政が二の丸北西隅の櫓台を造った場所ですが、忠政は建物を造ることなく病に倒れました。昌幸のころに、ここに建物があったかどうかは不明ですが、本丸だけではなく、二の丸からも金箔瓦が出土していることは、上田城の特徴です。
現在、体育館がある付近は小泉曲輪と言います。江戸時代にこの場所から金箔瓦が出土したという記録がありますが、現物は残っていません。 小泉曲輪は上田築城前に小泉氏が城としていた一帯とされ、仙石忠政の復興工事以降、建物が無かった場所だと考えられています。このことから、昌幸の頃の様子は正確にはわかりませんが、小泉曲輪から見つかった金箔瓦も昌幸が用いたものだった可能性は否定できません。 小諸城では、江戸時代に金箔瓦が大手門(櫓門)の2階屋内から複数枚見つかるという事件が起きました。金箔瓦そのものは行方不明になっていますが、古文書に詳細が記録されていました。こうしたことから、出土数が少ないからといって、金箔瓦があまり使われていなかったと考えるのはリスクがありそうです。 さて、上田城に話を戻しましょう。平成3年に本丸堀の底から見つかった金箔瓦はしゃちほこの破片です。金箔が残っている破片は、背びれとお腹の2箇所です。ふたつが接合しないので、一応2点としていますが、おそらく同じしゃちほこの破片でしょう。
しゃちほこは建物が火事にならないように、火災除けとして屋根に載せられました。空想の動物で、大きな口から水を吐いて火を消すと考えられていたようです。大棟の両端で2匹対になっていますが、それぞれオスとメスなんだそうです。 しゃちほこと言えば、名古屋城の「金のしゃちほこ」を思い出しますよね。上田城で見つかったしゃちほこは、名古屋城のように全身金ピカなものではなかったようです。なぜそんなことがわかるの? と思った方、写真の背びれとお腹の部分をご覧ください。 表面にこげ茶色の汚れのようなものがついていますね? これは金箔を貼るために塗った黒漆の痕跡です。長い年月で金箔は剥がれてしまいましたが、この部分に金箔が貼られていたこと、そしてその範囲を示す貴重な証拠だと言えます。 昭和2年、そして今回見つかった鬼瓦にも黒漆が使われています。そもそも400年以上経ってもこうして金箔が残っていたことに驚きますが、これには黒漆がひと役買っていたのです。目立たないけれども、当時の職人さんたちの思いを受け、黒漆は現代まで金箔瓦の輝きを守ってきたのです。
さて今回、真田神社境内から出土した小さな金箔瓦の破片が、私たちにどんな事柄を伝えてくれているのか説明をして、稿を閉じたいと思います。 上田城では、現物が残っていないものも含めて、これまでに数回、金箔瓦が見つかっていますが、本丸(陸上)から出土したのは今回が初めてです。 あくまでも推測の域を出ませんが、これと本丸堀底から出土したしゃちほこをあわせて考えると、現在の本丸には昌幸のころにも瓦葺きの建物があり、その建物は関ヶ原合戦後に徳川方に破壊されたものの、屋根に載せてあった金箔瓦は破片となって本丸に残ったものと推定されるのです。 ただし、今回の金箔瓦は元々あった位置から離れてしまっています。金箔瓦は土塁の痕跡である硬い盛土を覆う土砂から出土しました。この土砂は真田神社の境内を平坦にしようとどこかから運んできた埋土です。 この埋土には昌幸のころの瓦がわずかに含まれ、仙石氏、松平氏のころの瓦、明治〜大正時代の瓦がごちゃ混ぜになっていました。特徴的なのは、茶碗や皿などの道具が一切出土しなかったことです。これはいったい…?
生活道具の茶碗や皿が混じらない場所、そして真田・仙石・松平の瓦が見られるということから、この埋土は城内、強いて言えば櫓があった本丸から運ばれてきた可能性があります。 この土には明治大正期の瓦が大量に含まれていることから、埋土は廃城後に調達されたことがわかります。そして、明治以降に建てられた建物で、大正末までに解体あるいは瓦屋根の葺き替えをした建物の近くで用意された土である可能性が高いということです。 異論もありますが、私はこの土を調達した場所はだんご山ではないかと思います。大正13年に招魂社が二の丸に移り、だんご山にあった社殿は壊されています。この付近から土を運んだのであれば、仙石・松平期の櫓の瓦が混じっていることも理解できます。 だんご山から金箔瓦の破片もいっしょに運ばれてきたのだとすれば、本丸にあったかもしれない金箔瓦を使った建物とはいったいどんなものだったのでしょう。みなさんも期待されていると思いますが、天守である可能性も否定できません。また、天守に匹敵するような三階建以上の櫓、門なども考えられます。
金箔瓦が出土したことはとてもうれしい出来事でした。ただ今回の発見によって、ただちに上田城の天守閣論争に決着がつくわけではないんです。 昌幸の城に天守があったと断定するには、発掘調査でその基礎や関連する遺構を発見しなければなりません。金箔瓦が出土したり、絵図に「天守跡」と書かれていても、それは間接的な証拠でしかありません。 金箔瓦出土のニュースが報じられた後、ご協力をいただいた真田神社のみなさんから、「もっと広い面積を掘ってもいいぞ」とありがたいお言葉をかけていただきました。ご承知のとおり、上田城跡は国の史跡に指定されていますので、事前に届け出た範囲を超えて、無断で発掘調査区を広げることは禁止されています。 「まだ金箔瓦が埋まっているのでは?」確かに今回の発見によりその可能性が高まりました。当然、地面を掘り返して、もっと金箔瓦を見つけたいと思うのは当然です。なのに、史跡の発掘調査はどうして規制がされているのでしょうか。それは「史跡は国民共有の財産であり、未来に伝えていくために保存しなければならない」からです。
学校で考古学の勉強をはじめたころ、「遺跡の発掘は、やり直しがきかない手術のようなものだ」「発掘調査報告書は遺跡の死亡診断書だ」と、厳しく教えられたことを今さらながら思い出します。 そんな責任のある仕事を30年続けてきました。「何を大げさな…」と思われる方もいらっしゃるでしょう。でも、正直言って「もっと良い調査が出来たのに…」と後悔した現場もありました。そんなプレッシャーと闘ってきたのも事実です。 初めて真田町で現場を担当したときから、大勢のみなさんにサポートしていただきました。重機や機械の運転操作、炎天下でも愚痴も言わずに黙々と手を動かしてくださる作業員さんたち…今回の金箔瓦もそうです、地味な作業ですが、これを続ける気力が生んだ成果だと思います。私一人では絶対に見つけることができなかったはずです。 今では直接「ありがとう」と伝えることができないみなさんへも、感謝の気持ちが伝わるといいなと思います。 私もそろそろ発掘調査の現場から引退かな…? 名残惜しいのは事実ですが、担当した現場から金箔瓦が出土したことは、一区切りをつける良い機会なんだと思います。 さて、そんな決心が揺るがないうちに、これで筆を置きたいと思います。三年間、お付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。 *本連載は今回をもちまして終了します。