2018年7月7日号
1  はじめに
「朝3時半に起きて山の桑畑へ行き、桑を切り背負子(しょいこ)で担ぎ家へもどる。5時ごろ竈(かまど)に火を入れ朝飯の用意。皆に朝飯を食べさせ片付ける。子どもたちを学校へやり、お蚕さんの世話。積み上げた桑の枝から桑っ葉(くわっぱ)を摘む。やわらかい桑っ葉を包丁で細かく刻み、お蚕さんの上にまく。お蚕さんが大きくなると摘んだ桑っ葉のまま蚕にやる。休む間もなく昼飯の用意。ご飯が済むとまたお蚕さんの世話。食べ残した桑と蚕糞(こくそ)を掃除して新しい桑をくれる」…。

一日の蚕(こかい)飼の様子を語るおばあちゃんの話は尽きません。仕事は夜中まで続きます。田植えと重なると「寝る時間は3時間もない」「繭を売ったお金を懐に、子どもがほしがっていた下駄を買いに上田の街へ出かけたもんだ」「子どもが喜ぶ顔を思うと、どんなにきつくてもお蚕さんはやめられなかった」…。

養蚕で生計を立てる農家の多かったこの地域、蚕飼いは主に女性の仕事でした。製糸場の女工さんも女性。もちろろん男性の養蚕・製糸関連の仕事もあったのですが…。

本連載では、人々の力によってつくりあげられた「蚕都上田」を探っていきます。
 
2018年7月14日号
2  お蚕さま
「かいこ」は「蚕」と書きます。「天の虫」でしょうか。江戸時代には「神虫」とも書きました。天の虫であり神の虫であった蚕。ですから、おばあちゃんたちは「かいこ」ではなく「おかいこさま」とか「お蚕さま」と呼びます。蚕は農家にとってそれほど大切だったのです。

桑を食べて育った蚕は「繭」になります。繭から挽く糸は「生糸」、生糸は絹織物を織る「絹糸」になります。たった一粒の繭から、1500mもの生糸が挽き出されます。

昔は蚕を飼い繭から糸を挽き機を織り和服に仕立てるまで、主に農家の女性が受け持ちました。これらの仕事は「蚕をたくさん飼う家へ娘を嫁にやるな」と言われるほど大変でした。

蚕は昆虫です。しかし、一匹、二匹とは数えず、馬のように一頭、二頭と数えます。蚕種(蚕の卵)紙を包む袋などには馬が描かれています。なぜでしょう。

中国や日本の昔話に、娘と馬と蚕の結びつきを知る手がかりがあります。この話はいずれ紹介することとして、女性とお蚕さまは養蚕の仕事だけでなく、さまざまな点でつながっていました。
 
2018年7月21日号
3  蚕はミミズ? 宝?
「蚕は天の虫でしょうか」と、前回書きました。古くから「蚕」は「蠶」という文字でした。しかし蠶は画数が多く書きにくいなどの理由もあり、幕末明治期には「蚕」の文字が使われるようになりました。そのため「蠶」の略字として「蚕」が生まれたと思いがちですが、「蚕」は古くから中国で使われていた漢字で「ミミズ」を意味していました。このことを知っていた人たちは昭和になっても「蠶」を使い続けています。「カイコはミミズではないよ」と言いたかったのかもしれませんね。

明治・大正・昭和前期まで「蠶」と「蚕」は併用され、戦後、常用漢字となった「蚕」が主に使われるようになるのです。

蚕の原産地は中国です。古代中国の宮廷では皇后自身が桑を摘み、蚕を飼い糸にして絹織物に仕上げて天帝に捧げ、蚕に感謝する儀式が行われていました。

現在、日本でも皇后さまが皇居内の紅葉山で養蚕をされておられます。その蚕の一品種は、上田が原産地とされる「小石丸」、上田市伊勢山の蚕種製造家がつくりだしたといわれている蚕です。小石丸から挽かれた生糸は繊細で美しく、正倉院宝物の絹織物の修復に最適なのだそうです。
 
2018年7月28日号
4  上田紬と上田生糸
江戸時代、「上田といえば上田紬」と言われるほど大坂や江戸で評判でした。「紬」は蛾が出て穴の開いた繭(出殻繭)や生糸を挽けないキズ繭などから糸を紡ぎ出した「絹糸」です。

紬は太めで丈夫な絹糸ですから、普段着として愛用されることが多かったようです。現在上田紬は反物のほか、小物などにも熱い視線が注がれています。

明治の世になると、工場でくず繭などから絹糸を製造するようになりました。これが絹糸紡績糸です。信濃絹糸紡績(シナノケンシ)や丸子鐘紡(カネボウ)は、日本で最後まで絹糸紡績糸を製造し続けた会社です。

傷のない繭から一本一本糸を挽き、数本撚ると「生糸」になります。生糸を精練した「絹糸」からできた布(羽二重など)は「よそ行き」の和服に仕立てます。

幕末、上田地域から横浜へ運ばれた生糸は「上田糸(提糸)」と呼ばれ輸出されました。

フランスやアメリカへ輸出された生糸はドレスとなり女性に喜ばれます。

時が経ち、働く女性が多くなったアメリカからは絹のストッキング用生糸の注文が増え、日本の輸出量は増大し、養蚕・製糸業はますます盛んになりました。
 
2018年8月4日号
5  絹と金箔瓦
2月下旬、上田城跡から金箔瓦の破片が新たに出土しました。出土金箔瓦は5点目となり、「真田氏が築城した上田城には天守閣があったの?」など興味が増します。「金」はいつの世にも「絹」のように人々をひきつけます。

そこで金と絹のお話。古代、絹は中国からシルクロードをラクダの背に揺られてローマへ運ばれました。優美な布である絹(セレス)は古代ローマ人の憧れであり、絹布は金と同じ重さで取り引きされていました。

絹の糸から織られた「錦」は絹織物であるのに糸へんではなく金へんです。なぜでしょう?

漢の書物に「錦は金也」とあります。錦を織るためには高い技術と金と長い時間が必要だったので、錦は金と同じ金へんになったといいます。イスラムの世界でも「金」「絹」「真珠」は同価値で、交易の最も高価な商品でした。

古代ローマの時代から金のように貴重な絹が、日本に伝わったのはいつでしょうか。

1600年ほど前、朝鮮半島から渡来した人々が九州などに絹と養蚕技術を伝えたといいます。上田地域へは奈良時代が始まったころ伝わったのではないかといわれています。
 
2018年8月11日号
6  「蚕都」の由来は?
上田市交流文化芸術センターの愛称「サントミューゼ」には、「蚕都」の意が含まれているそうで、当地では蚕都をサントと読む人が多いでしょう。

10年ほど前のことです。横浜の人から、蚕都は「カイコミヤコ? コト?…どう読むかわからない」と言われました。東京や福岡でも同じ経験をしました。

『広辞苑』で「さんと」を引くと「三都」=京都・大坂・江戸はありますが「蚕都」はありません。読めないのも当然です。

では、蚕都という言葉はいつどこで生まれたのでしょう。

それは江戸中期の寛保2年(1742)、奥州(福島県)でのことでした。福島の蚕種家、遠藤氏が自家で製造した蚕種(蚕の卵)を「蚕都」と命名。この蚕種を遠藤氏と親交のあった上田藩上塩尻村の塚田与右衛門が仕入れ、当地近郷で販売したことから「蚕都」の名が上田小県で知られるようになったといわれています。

上田から遠く離れた東北の地まで、与右衛門は優れた蚕種とその製造法を求めて歩いて通っていたのです。
 
2018年8月18日号
7  「蚕都上田」はいつから
上田の政治・経済・文化は発展し続け、大正8年(1919)に上田市となりました。この年、奇しくも蚕糸業の雑誌『蚕都新報』が創刊されています。

上田の発展を誇りに感じた人びとは、このころから蚕糸業で栄える都=「蚕都上田」という言葉を使い始めたのではないかと推測されています。

しかし蚕で栄えた「蚕都上田状態」は、江戸時代から始まっています。江戸中期の上田では養蚕・蚕種が盛んでした。幕末になると製糸が発達、他に先駆けて外国への生糸輸出を始めます。上州の生糸商人は「幕末から明治20年ごろまで、上田は信州の横浜であった」と言っています。

明治25年(1892)になると、上田に小県蚕業学校が創設されます。蚕糸業が急成長した明治中期、この学校には全国から生徒が集まりました。卒業生は地元に帰って養蚕指導者となる。全国各地で蚕糸業や繊維産業関連の仕事に就く。彼らはそれぞれの地で「上田は蚕業の中心地、蚕都だ」と言ったようです。40年ほど前、鹿児島の人が「私のじいさんは、明治の終わりごろ小県蚕業学校を出たことを自慢しながら、上田は蚕都だ、と言っていた」と話しています。
 
2018年8月25日号
8  生糸輸出のはじまり@ 横浜開港と上田糸
上田が蚕都となっていく様子を見ていきます。

ペリーが来航してから6年後の安政6年(1859)6月2日、横浜が開港しました。しかし横浜港はまだ建設中です。

日本人街はもとより、外国商館街も建設中なので、店は営業を始めていません(驚いたことに、港や街の建設には上田の商人も加わっています)。

そんななか、上田原町土橋の生糸商人萬屋長岡万平は弟の永之介を横浜へ向かわせました。永之介は横浜海岸の仮小屋に、上田提糸(生糸)を並べます。そこで仮上陸していた外国商人相手に身振り手まねで生糸二提を売ったといいます。猪坂直一は、『上田近代史』で「あるいはこれが生糸貿易の初めであったかも知れない」と記しています。 長岡永之介が売った生糸はわずか二提ですから、外国商人はこれから始まるであろう貿易の生糸見本として購入したのではないかと推測できます。

このような光景は本格的な貿易が始まる前の横浜海岸のそこここで見られたようで、上田生糸商人にまつわる次のような話も伝えられています。
 
2018年9月1日号
9  生糸輸出のはじまりA 開港と上田藩主
 
諏訪の商人吉田和蔵と喜代蔵は、「北沢祐助本人から直接聞いた」と、次のように語っています。

「上田の武蔵屋(北沢祐助)が外国人に生糸を売ったのが生糸輸出のはじまりだ。祐助は上田藩主の命により、生糸五提ばかりを横浜に持参。当時の横浜には人家もほとんどなかったため路傍にテントを張り、桐油紙を敷いた上に生糸を並べた。すると外国人が来てドル(洋銀)を見せ、身振り手まねで『生糸を売れ』と言う。言葉が通じないなかでの交渉だったが、思いもかけぬ高額で生糸が売れて驚いたと話してくれた。」

全国から商人が集まってきた横浜で、「上田の商人が日本で初めて生糸を輸出した」という話が二つも残っていました。なぜでしょうか? 上田藩が積極的に生糸輸出をしようとしていたからです。

上田藩主・松平忠固(忠優)は幕府老中を二回も務めた人物です。老中であったため、ペリー来航の情報は一年前につかんでいます。日本を取り巻く世界の情勢を熟知していた忠固は、開国するか否かで揺れていた国内で、早い時期に「開国・通商」の意志を固めていました。藩主の意をくんだ上田藩では外国貿易に向けて動き始めます。

 
2018年9月8日号
10  生糸輸出のはじまりB 上田藩、輸出準備
安政5年(1858)、日米通商条約が結ばれました。上田藩はこのころから海外貿易を想定して動いています。安政6年1月21日、後に幕末最大の貿易商人となる中居撰之助と江戸の上田産物会所役人が貿易についての相談を始めます。

2月7日になって、江戸の茅町(浅草)上田藩邸を中居撰之助が訪れました。勘定奉行稲垣林右衛門らが「山海の珍味を取り揃えて」歓迎。家老の岡部志津馬をはじめとする江戸詰めの重役らも同席していることから、貿易に対する上田藩の意気込みは相当のものだったと推測できます。この時はあいさつ程度だったのでしょうか、話の内容は記録されていません。

横浜開港まで3ヵ月に迫った3月9日、上田藩公用日記には「異国貿易」願いを外国奉行に提出したと記されています。しばらくして「異国貿易」願いは許可され、中居撰之助との打ち合わせが頻繁になります。輸出予定品目を何にするか、初段階では30にも及んでいますが、最終的には15品目に絞られています。書き上げられた品のトップはやはり生糸です。

ちなみに紀州藩と会津藩の輸出予定品目トップは「塗物」(漆器)でした。
 
2018年9月15日号
11  デザインされた桑の葉
この欄のデザイン、いかがですか。私はまず緑を基調とした色づかいに惹かれました。次にバランスのとれた配置のよさ。

右上に鮮やかな桑の葉。左上は白と黄の繭が3つ。桑の葉と繭を結ぶ帯状模様は上田縞でしょうか。「蚕都上田」にぴったりのタイトル周りのもと、気持ちよく原稿を書いています。

そこで今回は、桑の葉の話。桑の葉は、お蚕さまの食糧ですが、今ではお茶や飴、お菓子にと、開発が進んでいます。

桑の品種は、ハート形をした葉や切り込み入りの葉…街路や上田城跡公園のシダレ桑など多様。

江戸末期から明治初期に活躍した蚕種家、上塩尻の藤本善右衛門縄葛が著した『続錦雑誌』には、さまざまな品種の800枚余もの拓影が載せられています。

明治7年の調査によると、上田地域では「鼠返」「四ツ目」「青軸」「道元」「相模早生」などの桑樹が多く栽培され、桑品種激増時代(明治20年代)。下伊那の原家では84品種も栽培、「長瀬」「扶桑」「魁」「丸葉イタリア」「飛騨」などの名が見えます。日本では、数百品種が栽培されていたといいます。
 
2018年9月22日号
12  生糸輸出のはじまりC 日本初の生糸輸出は上田から
話は生糸輸出に戻ります。幕府の許可が下りた後、輸出用の生糸を初めて外国商人に売ったのは誰か。これまでは安政6年6月28日、甲州生糸を売った横浜の芝屋清五郎だといわれてきました。ところが、初めて輸出用生糸を外国人に売ったのは、上田藩命で横浜に出向いていた原町商人伊藤林之助だったのです。

横浜に中居屋(江戸から移転した中居撰之助の店)が開店した6月19日の朝、イギリス商人が来店し、上田産の生糸に目を付け売買交渉を開始。

対応したのは上田商人鼠屋伊藤林之助。彼の「出府日記」にはイギリス商人との間で話がはずんだとあり「生糸取引成立」とは記されていません。

しかし6月24日の上田「原町問屋日記」に「19日、生糸取引成立。大量の生糸を横浜へ送る準備開始」と記されているではありませんか。「大量の生糸」とは「10駄」(馬10頭分)です。開港当初は1駄分の生糸(4個の梱包)が百両余、したがってこの取引一回で千両以上になります。生糸取引が成立していなければこれほどの生糸を準備しないでしょう。これを契機に上田から横浜へ大量の生糸が運び続けられるのです。
 
2018年9月29日号
13  生糸輸出のはじまりD 「出府日記」の発見
「日本初の生糸輸出は上田から」に気づかせてくれたのは、伊藤林之助の「出府日記」でした。上田市教育委員会所蔵の幕末関係史料を閲覧しているとき、表紙に「安政6年2月28日出府日記・伊藤」と記された文書を手にしました。

伊藤が江戸に出かけたときの日記だろうと思いページをめくっていきましたが、しばらくすると心臓の鼓動が聞こえるほどの驚きが。それは「生糸輸出日記」と名づけたくなる内容で、安政6年(1859)2月から10月まで、生糸輸出をするために藩命を受けた林之助が、江戸と横浜に滞在したときの記録だったのです。

改めて周辺史料を含めた見直しをすると、日記帳の「壱番」はほぼ完全に残り、上田藩江戸屋敷でのこと、江戸商人や中居撰之助との交渉などがメモされていることがわかりました。

しかし2冊目(「貮番」か)は表紙から3〜4ページが破損や虫食いで、一部解読可能になるのは6月15日から。幸運にも、イギリス商人と取引した19日前後は読めたのです。

さらに不明であった中居屋開店の日も「日記」から判明し、横浜開港史の研究にも役立ちました。
 
2018年10月6日号
14  生糸輸出のはじまりE  上田から江戸へ 1
上田藩命を受けて江戸・横浜へ出向いた原町商人伊藤林之助の「出府日記」を詳しく見ていきましょう。日記からは、生糸輸出のことだけでなく幕末の旅や江戸の姿が浮かび上がってきます。

〔安政6年2月29日朝6時に上田を出立。9時ごろ町田吉五郎とともに小諸に到着。酒肴付きの昼飯を食べ、午後1時ごろ小諸を出立。追分を経て軽井沢に到着。伊藤、町田と供の者3人の計5人で軽井沢の佐藤宅に泊〕

この記述から5人で上田を出立したことがわかります。一日目ということで、小諸でゆっくりと休み、軽井沢泊まり。小諸や軽井沢では取引先や友人にお土産をたくさん渡しています。伊藤と町田は、供の者3人にお土産や身の回りの荷物を持たせて歩いたようです。

ここに登場する町田とは、原町の嶋屋町田吉五郎で、林之助と同役です。しかも二人の店は原町の中央に並んでいました。吉五郎の嶋屋は『諸国道中商人鑑』(1827年)によると、文政のころには上田紙・ろうそく・紅おしろい・水油・伽羅の油などを商っています。
 
2018年10月13日号
15  生糸輸出のはじまりF  上田から江戸へ 2
〔翌朝(3月1日)6時に軽井沢を出立。碓氷峠を越え坂本宿に着。妙義山へ参詣し、松井田を経て板鼻に泊〕

林之助と同時代の嘉永2年(1849)刊の『善光寺道名所図会』には、碓氷峠の頂上に熊野権現が鎮座し「この嶺は信州・上州の境にて、拝殿の屋根、片方は信州、片方は上州より修理するなり、国分の社と称する」と記されています。熊野権現拝殿の真ん中に上信の国境があったことがわかります。現在は境内に信州・上州別それぞれの社が建てられています。峠には多くの茶屋もありました。旅の無事を熊野権現に祈り、峠の茶屋で一服したのでしょうが、それにはふれていません。

少し回り道にはなりますが、林之助らは妙義山参詣をしています。

〔妙義山にて持参の酒を飲み、軽井沢より…〕とその様子が詳しく書かれています。

30年ほど前、上州の養蚕農家の方が「いい繭ができるように妙義山へお参りに行った。 妙義山は、お蚕さんだけでなく、何でも聞いてくれる観音様だ」と話していたのを思い出します。

養蚕・製糸の神様については、いずれお話します。
 
2018年10月20日号
16  生糸輸出のはじまりG 上田から江戸へ3
〔3月2日、朝4時に板鼻を出立、鴻巣で泊まる。今日は18里ほど歩く〕

暗いうちに宿を出立。一日に72q余りも歩いたのでしょうか。日記のなかで歩いた距離を記してあるのはここだけです。このころの記録に「1日、10里」はしばしば書かれていますが、18里とは! 上田藩江戸屋敷到着の日時は決められていたにもかかわらず、小諸や軽井沢、妙義山で時間を費やしてしまったための「18里」でしょうか。それにしても、江戸時代の人々の健脚ぶりがうかがえます。

〔3月3日、朝4時に鴻巣を出立。夕方の3時頃板橋に到着。土屋、町田、伊藤の3人で和泉屋へ泊る〕

中山道の起点板橋宿に着きました。ここでいきなり登場してきた「土屋」とは、どのような人でしょう。上田の海野町商人であり、産物会所の重鎮でもあった白木屋土屋仁助です。

このころ、産物会所は上田と江戸に開かれており、彼は上田と江戸を行き来しています。

では、「産物会所」とはどんなところでしょうか。
 
2018年10月27日号
17  生糸輸出のはじまりH 上田から江戸へ4
上田藩の生糸貿易に大きな役割を果たした物流センターとしての「産物会所」を見ましょう。

産物会所は上田藩主松平忠固の命により安政4年(1857)、上田の大手前堀端(海野町)と江戸の南新堀町に(まもなく原町にも)開設されました。これは上田領内産物の統制販売機関で、会所が領内産物を買い上げ、江戸そのほかへ出荷するという大掛かりな事業でした。会所では産物を検査するとともに税金を徴収(藩にとってはこれが重要)しました。設置時の安政4年、忠固は上田産物の外国輸出を見据えていたようです。

なお、これより前、天保4年(1833)に設置された上田産物改所では上田縞、上田紬、上田提糸(生糸)が中心に検査され、改料、藩の税収である冥加金が徴収されていました。

藩は産物会所の御用掛に藩士の松本左右衛門、御領分産物惣取締役に海野町商人の白木屋土屋仁助と原町商人の綿屋島田参助、実務の中心である産物世話役に原町商人の鼠屋伊藤林之助と嶋屋町田吉五郎を任命しています。商人らは、上田で自身の店を経営しながら、藩の貿易事業に携わっていたのです。
 
2018年11月3日号
18  生糸輸出のはじまりI 上田から江戸へ5
〔3月4日、朝8時ごろ板橋を出立、江戸茅町御中屋敷へ午前10時着。仁助、吉五郎、林之助の3人は茅町の御屋敷御長屋を貸し渡される。〕

林之助たちは5日かけ、江戸の藩邸に着いたわけです。上田藩はこのころ、江戸に屋敷が5つもありました。5万数千石の小藩としては多い方で、江戸城内の西の丸(忠固が幕府老中であったため)、浅草茅町(上・中屋敷)、湯島天神下(下屋敷)、小石川大塚(下屋敷)、深川扇橋(抱屋敷)です。

浅草の江戸屋敷へ着いた林之助らは、藩の長屋で寝起きを共にすることになりました。

松平伊賀守屋敷は、安政6年の「江戸切絵図」によると大川(隅田川)に面しています。北隣に本多美濃守屋敷、その北隣が浅草御蔵(蔵前国技館があった所)、北へ歩くと浅草の観音様。両国橋を渡ると回向院(現在は両国国技館が建つ)。今も東京観光の一等地です。
 
2018年11月10日号
19  こぼれ話  江戸の旅・明治の旅@
伊藤林之助らは4日間で上田から板橋宿へ到着、翌朝2時間ほどかけて浅草茅町の上田藩江戸屋敷へ着いています。江戸時代、上田から江戸へは通常4日。明治の世になっても江戸まで歩いて4日、変わることはありません。しかし、徒歩でなく【人力車】だったら?

明治8年6月、鹿教湯温泉の齋藤弥惣太は上田から東京へ行きました。彼は人力車を利用しています。私用なら徒歩だったのでしょうが、このとき彼は公用で出京、『出亰雑誌』を書いています(明治初期には「東京」を【東亰】とも書き「とうけい」と読みました)。

公用、それは明治8年6月20日の第1回地方官会議(会場は浅草東本願寺、議長は木戸孝允)へ参加することでした。このとき長野県からは長官として楢崎寛直(後に県知事)の代理ほか数人が参加しています。齋藤弥惣太(後に県会議員)は東信濃代表として出亰したわけです。

人力車は明治5年に北国街道の各宿に配置され、各宿場で乗り継ぎできるようになりましたが、上田宿に何輌置かれたかは不明です(明治9年海野宿の人力車は14輌)。

では東京まで人力車で、何日かかったのでしょう。
 
2018年11月17日号
20  こぼれ話  江戸の旅・明治の旅A

徒歩でも人力車でも上田から江戸・東京までは3泊4日でした。

その日程は、歩きの林之助は1日目が軽井沢泊、2日目が板鼻泊、3日目鴻巣泊で、4日目に板橋着。
人力車の弥惣太は1日目が軽井沢泊、2日目が高崎泊、3日目が桶川泊で、4日目に板橋着となっています。

弥惣太らは宿駅に配置されている人力車等を利用したため、その手配が大変でした。現在のように予約はできず、到着した宿駅の事情によりその場で計画を変える必要がありました。

たとえば2日目の碓氷峠から高崎。峠は人力車で越えられぬため、軽井沢で籠を頼む予定でした。しかし戸田殿(旧松本藩主)の長持数棹が峠越えするため人足がいません。しかたなく歩き、峠を下りた坂本宿からは再び人力車を利用し板鼻宿でひと休み。夕刻、高崎へ着き「即刻馬車会社へかけあい」ます。が、「明日は売切れ」と言われ、高崎入口の立場へ行き車を探しますが見つかりません。車夫に心づけを渡す約束で、やっと人力車にありつけました。

 
2018年11月24日号
21  生糸輸出のはじまりJ 上田から江戸へ6

〔3月5日、おみやげを配る。岡部志津馬様―金弐百両とそのほかの品、岡部四郎衛門様―金百両とそのほかの品、大井右源太様、御勘定奉行稲垣林右衛門様、松本左右衛門…」と日記は続きます。

記述によると、林之助らがこの日おみやげを渡した相手は、藩の重役から「御門番」、江戸商人まで18人余です。挨拶がわりとしての「おみやげ」でしょうが、家老岡部志津馬へ「200両」とは!

〔3月6日、大崎由兵衛から酒や肴をいただく…。7日、土屋、町田、伊藤の3人で南新堀2丁目の大崎由兵衛を訪ね、酒を呑み…帰宅〕

大崎由兵衛は江戸商人で、南新堀上田藩江戸産物会所の責任者です。親交を深めるために、まず酒を酌み交わし世間話をしたのでしょうか。上田藩の産物のことや外国貿易のことも話し合ったのかもしれませんね。

いずれにしても、林之助らが慣れない江戸で活動するために頼れる商人は、大崎由兵衛と中居撰之助なのです。貿易開始まで3ヵ月、林之助らの江戸・横浜での活躍のはじまりです。上田地域の期待を背負って。

 
2018年12月1日号
22  生糸輸出のはじまりK 横浜と神奈川

林之助らは上田藩の輸出活動が円滑に進むよう、江戸商人や諸藩の役人との交流を始めました。

3月9日には鉄砲洲(築地)にある紀伊殿廻船問屋日高屋半兵衛と接触(日高屋は明治初年、神奈川湊廻船問屋仲間の肝煎となる有力商人)。江戸に届く上田産物を船で神奈川まで運ぶ相談を始めたのでしょうか。

開港場は、外国との約束では横浜ではなく神奈川と決められていました。しかし実際に開港したのは横浜です。神奈川は東海道のにぎやかな神奈川宿にある神奈川湊。横浜は東海道から離れた「小村にて村民は専ら漁労を営み田圃僅少」の村です。

幕府は、外国から要求されている神奈川宿では日本人との接触にともなう攘夷事件発生やキリスト教の影響が憂慮されると考え、東海道筋から離れた横浜村に開港場を建設し始めます。しかし外国は強く神奈川湊を要求し続けました。このため、このころの文書には「神奈川交易」「神奈川横浜交易」「横浜交易」など、さまざまな表記が見えます。

 
2018年12月8日号
23  生糸輸出のはじまりL 横浜港建設と上田人

幕府が横浜での貿易開始を公布したのは安政6年正月のことです。このころから開港場の建設が始まります。半農半漁の一寒村であった湊に波止場造りや市街地の土盛り、商館の建築などをするためにさまざまな職種の人が集まりました。半年後の6月2日に開港してからも建設は続き、国際都市横浜が生まれます。

全国から横浜に集まった人々のなかには上田人もいました。丸子の生糸商人吉池泰助はその一人です。彼は長瀬の池内家に生まれ、上田小県を代表する丸子飯沼の生糸商・吉池家で働き、吉池を名乗ります。独立してからも「吉池」として横浜・江戸・東京で大活躍。没する前に長瀬へ帰り、倉澤姓となった人です。

泰助は横浜で大工の清水喜助(清水建設2代目)と出会い、横浜港建設資材(木材が中心か―清水建設の資料には「信州の材木商人泰助」とある)の調達に力を入れます。 

港建設が一段落すると、彼は清水喜助と江戸(東京)に日本初の西洋人向けホテル「東京築地ホテル館」を建てます。信州上田の生糸商人が江戸に出て「日本初のホテル建設」! 驚きです。

 
2018年12月15日号
24  生糸輸出のはじまりM  泰助、横浜から東京へ

吉池泰助は、丸子飯沼の吉池家のもとで上田小県はもとより松代や飯田、上州下仁田、相州八王子、奥州福島などからも生糸を集荷し、前橋や江戸・横浜へ出荷する仕事をしました。

彼は関八州や奥州で生糸集荷をすることが多くなったころ、大生糸商の吉池家から独立したようです。そのころ横浜港の建設が始まり、泰助と大工の清水喜助(清水建設2代目)が出会います(幕末の横浜で2人が酒を酌み交わした文書が飯沼で見つかっています)。泰助が横浜で生糸のほかに信州の木材も扱うようになったのは、喜助と組んで築港の仕事をするようになったからでしょう。

慶応3年(1867)6月に吉池泰助・清水喜助・鹿島源蔵らは、幕府から外国人旅館「YEDO HOTELL(江戸ホテル)」の建設を請負いました。

建設用地は江戸築地鉄砲洲(旧築地市場隅田川沿い)の外国人居留地で、紀州家の広大な屋敷跡約7000坪(2万3100u)です。

 
2018年12月22日号
25  生糸輸出のはじまりN  東京築地ホテル館

ホテルの建設には3万両という大金が必要です。本来なら幕府が経費を負担すべき大事業ですが、明治維新の混乱期、建設資金がありません。そこで幕府は、泰助らが資金を出して居留地にホテルを建設すれば、ホテルからの利益は彼らのものとしてよいという条件で事業を始めます。

信州出身の生糸商吉池泰助・江戸の材木商鹿島源蔵・越中出身の大工清水喜助らは自身の資金を出すとともに(泰助が最高額)、江戸の商人たちから資金(ホテル株)を調達。大工の喜助が中心となり、慶応3年(1867)8月、アメリカ人のブリジェンスが設計したホテルの建設に着工しました。

これを機に泰助は、慶応3年9月から10年間の約束で住居を信州飯沼から江戸堀江町に移します。ホテル建設と経営に専念するためです。幕府の事業ですので、岩村田藩(飯沼村は岩村田領)から泰助の転居願いも出ています。

 
2019年1月1日号
26  生糸輸出のはじまりO  築地ホテル館の社長は泰助

ホテル建設開始の直前、泰助は幕府に武士として抱えられています。建設が急ピッチで進むなかで泰助は資金提供だけでなく、外国商人と交渉してホテルの調度品を調達、内装を手伝うなどもしています。

明治元年(1868)10月、「YEDO HOTELL=江戸ホテル」は「東京築地ホテル館」という名で営業を開始。このとき「江戸」は「東京」となっていたのです。

開業当初からホテルの社長は吉池泰助と清水喜助だったようです(『平野弥十郎日記』など複数の史料)が、清水建設の資料には泰助は後に「築地ホテル館の共同経営者」とあります。

日本初の西洋人向けホテルは東京の名所となり、建物とその周辺を描いた「錦絵」は「開化絵」(文明開化の象徴)のさきがけとして、100種類以上出版されたといいます。

当時、これらの錦絵は東京みやげとして全国各地に持ち帰られました。最近、日本の所々でホテルの錦絵が見つかっています。

 
2019年1月12日号
27  生糸輸出のはじまりP  林之助らの江戸見物

さて、時間を少し戻し、江戸の上田藩邸に着いた林之助らのその後の動きを見ていきましょう。安政六年(1859)3月上旬、浅草の藩邸で政務をとる重役らにあいさつを済ませた林之助らは、江戸の町へ出ます。

まず、南新堀上田産物会所の大崎由兵衛と貿易の打ち合わせを開始。その後、江戸商人へのあいさつ回り、藩の重役らと向島で飲食(接待か)、と忙しい日が続きます。

3月12日は仕事の合間をぬっての江戸見物。
〔茅町御屋敷四ツ半時出、足立屋〜〕―浅草の江戸藩邸を朝10時に出て商用で立ち寄った足立屋で酒肴をごちそうになった後、江戸見物を始めます。

その足どりは、神田明神参詣→湯島天神参詣→池之端弁天参詣→上野参詣・花盛り・花見見物客で大にぎわい→本願寺参詣→浅草観音参詣→八百善に立寄り酒と夕食→吉原見物→夜9時帰宅。〔まことにまことに風景よろしく江戸之花〜〕とあります。しかし、この見物日程はかなりきつそうです。やはり多忙な貿易準備のなかでの江戸見物ではあったようです。

 
2019年1月19日号
28  生糸輸出のはじまりQ 林之助江戸見物のあとを訪ねる

平成30年11月、林之助らの歩いた神田明神→湯島天神→池之端弁天→上野→本願寺→浅草観音→八百善跡→吉原跡を自分の足でたどってみました。

JR御茶ノ水駅から歩いて8分で、神田明神へ到着。まだ午前9時だというのに参詣する人の列がすでに10mほど。若い人や外国人の多いことに驚きました。

そこから歩いて30分、湯島天神には多くの受験生が合格祈願した絵馬があり、やはり学問の神様菅原道真を祀る社だと実感。韓国の学生10数人が30分以上おしゃべりに夢中でしたが、彼らも合格祈願に来たのでしょうか。

湯島天神下の道路に出ると警察官30人ほどが辻々に立ち、道路端には多くのご婦人方がカメラ撮影の態勢。ひょっとすると…と待つこと10分、天皇皇后両陛下のお車が目の前に現れ、皇后さまの微笑みにご婦人方の歓声があがりました。

御茶ノ水で昼食。午後は不忍ノ池(弁天)から上野東叡山周辺の社を散策しました。浅草まではJRを利用し、浅草観音周辺を歩き終えると午後6時。一部電車を使ったにもかかわらず、きつい日程でした。

 
2019年1月26日号
29  生糸輸出のはじまりR 猿若町で芝居見物1

安政6年3月13日、林之助らは上田藩重役らと猿若町へ芝居見物に出かけます。一日かけた接待となりました。

〔朝六ツ半時頃茅町出。岡部志津馬様、御内室様、御母上様、松本…〆て二十一人。茶屋は猿若町萬屋吉右衛門〜夜五ツ時頃、芝居相済。それより茶屋萬屋へ又立寄〕

藩の重役とその奥さんやお母さん、そのほかお供の者や芸者さんを含めて総勢二十一人。朝七時に浅草の屋敷を出たとは、ずいぶん早い出立ですね。吉右衛門茶屋で朝飯を食べたのでしょうか。あるいは弁当を受けとったのでしょうか。

林之助らが一日がかりで観た芝居(歌舞伎)の演目は、残念ながら記されていません。夜八時ごろ終演で、再び茶屋へ寄っています。芸者さんも同道していますので、宴会をした可能性が高いですね。

いずれにしても観劇を中心とした一日、茶屋へは大金を支払ったようです。お金にもゆとりがなければできない接待だったと思います。

 
2019年2月2日号
30  生糸輸出のはじまりS 猿若町で芝居見物2

猿若町には「猿若三座」と呼ばれる中村座(中村勘三郎)、市村座(市村羽左衛門)、森田座(森田勘彌)の小屋がありました。

芝居小屋周辺には役者の住宅、三味線や太鼓演者の住宅、大道具小道具屋、茶屋、料理屋、みやげ屋などが並び一大歓楽街を形成していました。上田藩士と商人の一行は、歓楽街を見たりおみやげを買ったりしたのかもしれません。
 
なお、江戸の芝居小屋等は天保の改革の一環で、風紀を引き締めるため天保13年(1842)、幕府によってこの地に集められました。猿若町の名は、移転した猿若(中村)勘三郎の姓から取ったといわれています。この町が栄えたのは明治初年までです。

ところで彼らは朝7時に上田藩邸を発っていましたね。いかにも早い出立とは思いませんか? 遠くならいざ知らず、猿若町は上田藩邸と同じ浅草(現浅草6丁目)にあるのですから。

しかし当時は「茶屋で飲食してから芝居見物する」という人が多かったので、彼らもそのようにしたのかもしれません。

 

2019年2月9日号

31 生糸輸出のはじまり21 中居撰之助登場

3月15日、外神田の湯屋から出火、16日に柏屋へ火事見舞いに行きます。その夜、深川で火事。〔毎夜の火事にて込入り申し候〕でした。連夜の火災ですが、「火事と喧嘩は江戸の華」とはよく言ったものです。

〔17日曇天、松本様(上田藩士)、大崎氏(古くからの江戸商人)、中居撰之助(上州から新しく江戸へ出た商人)〜〕とあり、中居撰之助に敬称はついていません。伊藤林之助にとっては、幕末日本最大の貿易商人となる中居撰之助は自分と同等の存在であるという認識だったことがわかります。

この日に中居撰之助から輸出すべき上田産物を知らせてほしいとの依頼がありました。林之助は三十七品目も書いています。幕末の上田地域で商品として生産されていたものがわかり、興味深いのでいくつか記します。

〔呉服、太物、白糸、真綿、繭、木綿、麻苧、漆、煙草、紙類、生?、傘、葛粉、乾物類、石炭油、人参、大横、杏仁、桃仁、鉛、芥子、胡麻、酒、そうめん〜〕

 

2019年2月16日号

32 生糸輸出のはじまり22 小諸商人登場

林之助らは、中居撰之助らと上田周辺の産物輸出の本格的な活動に入るために、茅町上田藩邸の長屋から南新堀の上田産物会所へ居を移します。

転居してまもなくの3月19日、小諸商人の萬屋と酢屋が来訪宿泊。この二つの豪商は奇しくも明治に入ってから本業とは別に「器械製糸場」の経営に乗り出しています。

萬屋は本町の呉服商で、小諸藩の御用達を務めた高橋家です。安政2年、上田鎌原の割番庄屋田中家から養子に入った平四郎が、明治7年に「器械製糸場」を創業。高橋平四郎は豪商として富岡製糸場の繭購入係などを務めながら学び、小諸に民間初の製糸場(丸萬、丸満)を創業したのです。

小諸藩の御用達だった荒町の豪商・酢屋小山久左衛門は、明治23年に醸造業とは別に「純水館製糸場」を創業、佐久地域随一の器械製糸場とします。跡を継いだ小山邦太郎は「全国共栄蚕糸組合」理事長を務めた。酢屋は現在も味噌などの醸造販売をしている老舗です。

小諸の豪商二人が、ともに江戸の上田藩産物会所を訪れていたとは!

 

2019年2月23日号

33 生糸輸出のはじまり23 中居撰之助宅へ

安政6年(1859)3月下旬以降、上田藩と中居撰之助との接触が増えます。

林之助ら4人は、27日10時ごろ江戸の上田産物会所を出て、「船にて芝金杉片町中居撰之助」を訪ね、神奈川交易のための「地所」などについての話をします。このとき撰之助は店を構える所(地所)を横浜村と決めていたのかは記されていません。しかし幕府は、外国が要求している神奈川湊でなく、横浜村での開港準備を推し進めている最中でした…。

話が一段落し酒肴に昼飯、2階に行き「遠目鏡」を覗くと「上総房州一目」。当時、町人には珍しかった望遠鏡をのぞき、品川沖のはるか向こうに房総半島が見えた驚きが記されています。

中居撰之助は自立して日本橋から芝へ居を移していますので、来客が多かったようです。この日は林之助のほかに「北上州中居村」(撰之助の故郷)の人も訪問しています。彼らと「大井(おおい)に噺合(はなしあ)い面白く」とありますので、信州と上州の特産物(輸出品)などのことで話が弾んだのでしょうか。

 

2019年3月2日号

34 生糸輸出のはじまり24 繰り返される接待や寺社参詣

江戸商人や藩の勘定奉行との生糸輸出関連交渉の間をぬって、接待と寺社参詣は繰り返されています。

3月29日には藩の重臣岡部志津馬らのほか芸者さんや供人までを含めると総勢40人で猿若町へ繰り出し、芝居「妹背山」を観ています。もっとも、上田の商人仲間だけで猿若町の芝居を観ることもありました。

両国にも芝居小屋があり、商用の帰りに観劇しています。そのほか浅草三社祭へ出向いたり、三圍稲荷、回向院、深川八幡宮へも参詣しています。 

浅草観音、神田明神、湯島天神への参詣は「商用の行きに、帰りに」と頻繁です。

ところで、林之助らが江戸商人を訪ねるとき、手土産によく持参したものは何でしょう?

「八百善之折詰」です。「八百善」といえば浅草観音の近く、江戸で評判の料亭。浅草新鳥越一丁目にあり、西隣は猿若町、その西北に吉原という好地にあったため、折詰の注文も多かったそうです。美味だったのでしょう、 「林之助日記」以外の当時の記録にもよく現れます。

 

2019年3月9日号

35 生糸輸出のはじまり25  輸出予定の上田産物

安政6年(1859)4月7日、林之助らは江戸・芝の中居撰之助からの書状を受けて彼の家を訪ねます。そこで、撰之助が南北町奉行所へ提出した輸出予定上田産物の「書付」を見ます。

ここで示された上田の産物は最終的に決まったものとみてよいでしょう。ちょうど一月後の5月7日に国元上田の産物会所で商人らに示されたものとほぼ同じですから。

日記には紀州藩、会津藩、上田藩の輸出用産物が書き留められています(上田産物については5月7日の項で改めて紹介します)。

「紀州産物―塗物、棕呂箒、棕呂皮、葛、九年母…」、九年母とはミカン科の植物です。棕梠なども見え、暖かい紀伊国らしい産物ですね。

「会津産物―漆器類、煙筒、人参、麻苧?織物類、新刀剣付属之小道具…」、会津塗や紀州塗は日本の国内でも有名でした。煙筒とは煙管のことでしょうか。新刀剣付属の小物類はフランスで美術品として好まれたようです。

 

2019年3月16日号

36 生糸輸出のはじまり26  「中居屋」建築予定の店舗―神奈川?横浜?

上田、会津、紀州の特産物が書かれた後に「撰之助…品々、私引受仕候間、神奈川御場所へ出店仕貿易売込…出店之地所、間口三十間・奥行四十間・坪数千二百坪」。

ここには「神奈川御場所」とありますから、東海道神奈川宿の湊を想定していたのでしょう。しかし開港したのは横浜ですから、このときは神奈川と横浜の両港を視野に入れ「出店之地所」を考えていたのかもしれません。

いずれにしても「間口三十間・奥行四十間・坪数千二百坪」(54×72m)と、とてつもなく大きな店舗です。俗説では、広大で豪華な装飾の店舗を幕府にとがめられ、2年たらずで中居屋が潰されたと伝わります。実際は、計画案の提出後に幕府から間口・奥行とも10間ずつ縮小することを命ぜられ、従っています。

それでも当時の横浜絵図には「中居屋」だけが名前を書き込まれるほど目を引く建物でした。その中居屋に「上田の特産物店」が開かれ、安政6年6月19日には上田藩と外国商社との貿易が始まるのです。

 

2019年3月23日号

37 生糸輸出のはじまり27 外国奉行へ貿易許可願い・能を鑑賞

安政6年(1895)4月11日、林之助と由兵衛(江戸商人で江戸南新堀にある上田産物会所責任者)は芝の中居撰之助宅に招かれ、貿易交渉の経過を知ります。貿易願いは江戸の町奉行が受け、添え書きをして外国奉行に書付を差し出したとのこと。

内容は奉行へ届けた願いとほぼ同じですが、外国奉行届は、「出店之地所間口弐拾間奥行参拾間此坪六百坪」と訂正されています。店舗の大きさを縦横10間ずつ、大幅に減らしています。町奉行からの指示があったと考えられます。

4月20日、「観世流大夫方へ御能拝見ニ参ル…諸家様御見物」。観世流の能を観に行ったら、他藩の人々もご見物というのですから、歌舞伎だけでなく能を観ることも流行っていたのでしょう。

場所は「銀座弐丁目観世小路」と記されています。東京の中心「銀座」にあったのです。「白髭」「雲雀山」「善知鳥」など、5つの演目を観たとあります。これらの演目は「観世流謡曲百番集」にも載せられ、現在もお稽古用の手本として使用されています。

 

2019年3月30日号

38 生糸輸出のはじまり28 貿易許可される

4月24日、中居撰之助から「いよいよ神奈川交易場所絵図面…外国奉行御聞済ニ相成候…品々六月二日までニ御出荷」との話。外国奉行の許可が下りたので、6月2日までに願書に記した上田産の品々を神奈川交易場所へ出荷するようにとのこと。いよいよ貿易開始へ向けての具体的な活動が始まります。

まず伊藤林之助とともに江戸へ出て神奈川交易の仕事を進めていた町田吉五郎は藩命により南新堀の上田産物会所から浅草茅町上田藩邸の長屋に引っ越します。上田藩邸の考えを林之助や撰之助に迅速に正確に伝えるためでしょう。

 また上田藩士・江戸商人・上田商人など多くの人物が頻繁に登場、外国の情報も入るようになります。
〔〇アメリカ〇ヲロシヤ〇右二ケ国通用銀ダラと申銀…〇此度神奈川へ参り候異国 国名ヲロシヤ アメリカ イギリス フランス ヲランダ〆五ヶ国〕。アメリカやロシアとの通商ではドル(洋銀)が使われることを知ります。

―3月中旬の日記から林之助は中居撰之助に「殿」または「氏」と敬称を付すようになります。

 

2019年4月6日号

39 生糸輸出のはじまり29 江戸から上田へ

〔五月朔日(1日)天気。きく重より餞別ニ重箱貰い受…夜九ツ半時(午前1時)茅町御屋敷出立 板橋宿ニ而夜明ル〕 

夜中の1時に、林之助、吉五郎、上田藩士松本様の3人が江戸の上田藩邸から上田に向け出立。国元の商人らに貿易事業を詳しく知らせるためです。

〔二日終日雨天。〜五日朝六ツ時 軽井沢出立〕。

田中を過ぎると大勢のお出迎えがあり、常田町から上田城下に。ここでは岡部様や師岡様ほかの藩士および商人ら10人がお出迎え。

6日は休息日を与えられ、いよいよ「安政6年5月7日」は説明会。林之助は午後3時ごろ上田産物会所へ出向き、御奉行様・中村様・山村様・松本様・小川様(以上上田藩士)、両町(海野町・原町)問屋・嶋田世話役(以上城下商人代表)らに「巨細申し上げ候、日暮 帰宅」します。

残念なことに「林之助日記」には「巨細」(詳しい内容)は記されていません。しかし幸いなことに、巨細が「原町問屋日記」にありました。

 

2019年4月13日号

40 生糸輸出のはじまり30 上田で貿易開始の説明会

では「原町問屋日記」から、説明会の内容を見てみましょう。

5月7日夕方、産物会所へ。勘定奉行・松本左右衛門・小川忠右衛門らご一統がご出席。「今般神奈川交易御免に付き紀州会津上田産物三家交易御願立に相成りお聞き済…三家とも取扱は芝金杉撰之助…」。

説明会では「6月2日から神奈川交易が始まる。紀州・会津とともに上田産の品々を出荷する。外国との窓口は中居撰之助。とり急ぎ以下の品々を用意」という指示が上田商人に出されました。「原町問屋日記」には、紀州・会津の産物も書き上げられていますが、ここでは「信州上田産物」のみ紹介します。

白絹糸同織物類・木綿・真綿・麻苧・うるし・紙類・生蝋・傘類・石炭阿ふら・松油・人参・麦粉・鉛・鋸ならびにサン・煙草、以上の15品です。

3月17日(2月9日号参照)の37品から半数以下に厳選し、トップは「白絹糸同織物類」。「蚕都上田」を象徴する白絹糸や絹織物を諸外国が求めているという情報をつかんでいたのです。

 

2019年4月20日号

41 生糸輸出のはじまり31 幕末上田の特産物

「原町問屋日記」の記録からは、幕末の小県上田地域でどのようなものが生産製造されていたのかがわかります。
「白絹糸同織物類」とは、上田産の生糸(上田提糸)と絹織物。まさにこの地の特産物です。海野町や原町の多くの店で売られています。

「木綿」「真綿」「うるし」「紙類」「生蝋」は、嘉永2年(1849)刊の『善光寺道名所絵図』〔上田宿〕にも登場します。「生蝋」は現在では珍しいですが、幕末の海野町「小松屋」などで売っていました。

「紙類」は和紙のことで、幕末には現在の青木村、長和町立岩、上田市中丸子、同長瀬などの地で盛んに漉いています。

「石炭阿ふら」とは石油のことでしょうか。「石炭油」と「鉛」の産出地はどこでしょう。石炭は、青木村から産出していますが…。

「鋸ならびに“いたがね”」。いたがねは鋸(のこぎり)の元板であると思われます。江戸時代、信州の鋸は主に上田、小諸、諏訪地域で製造されています。明治初期の記録に、上田鍛冶町の中屋七左衛門が鋸を製造しているとあります。

 

2019年4月27日号

42 生糸輸出のはじまり32 貿易開始を村々に伝達

上田産物の多くは、上田城下周辺の村々から産出されます。したがって外国貿易のことは上田領の村々に伝えられました。踏入村の庄屋、平尾家に残された史料からその内容がわかります。

〔紀州様会津様上田様御国産物貿易売込とも願之通仰せ付けられ外国奉行水野筑後守様〕で始まる文書には、貿易に関する決まりまで詳しく記されています。

決まりの事項には〔密売禁止〕〔開港場所之地代金〕〔町法〕〔生糸〕〔蚕種〕〔呉服〕〔太物〕〔鑑札料〕〔冥加金」〔中居撰之助〕〔外国人との直取引〕などの文字が並んでいます。なお、この綴には〔五月十五日産物会所にて仰せ渡され候〕のメモが付いています。林之助らは5月21日まで上田の産物会所で仕事をしていますので、文書には彼らが伝えた内容が多く記されていたのでしょう。

この知らせは上田領の村々だけに出されたものですが、隣接する岩村田領・小諸領・幕府領の村々でも知ったようです。丸子の飯沼村は岩村田領ですが、名主宅には上田藩で出した内容をうかがわせる史料が残っています。
―「林之助日記」は3月中旬から中居撰之助に「殿」または「氏」と敬称を付けています。

 

2019年5月4日号

43 生糸輸出のはじまり33 林之助ら江戸へもどる

国元上田で貿易説明会と神奈川への出荷方法を伝達し終えた林之助らは、5月22日に江戸へ戻ります。

江戸へは新たに和泉屋甚三郎と武蔵屋祐助が同道、供人を含め6人で朝7時過ぎに原町を出立。17日からの大雨で加賀川(神川)橋が大破し〔往来留め〕。「朝9時から夕4時のみ渡河を許す」という状態が、やや遅めの「7時過ぎ出立」となったのでしょう。小河川であってもこのようなことが起こる江戸時代の旅の大変さがしのばれます。

なお「林之助日記」17日には〔昼頃より大雨降りヒル澤満水〕、20日には〔大雨にて加賀川橋傷み往来留〕と記されています。

23日には倉賀野宿へ泊り、江戸へは25日着。休む間もなく翌26日には茅町上田藩邸へ、その足で南新堀の産物会所へ行き仕事を開始。

6月27日〔才料(宰領)民次郎、南新堀へ着き仕候〕―上田から貿易のための品々が届きはじめていることがわかります。―〔才料〕とは宰領のことで、荷物を運搬する人夫に付き添って、その人たちを監督・差配する人のことです。

 

2019年5月11日号

44 生糸輸出のはじまり34 隅田川の花火を見物

〔廿八日曇天昼後快晴〕安政6年5月28日は隅田川の川開きです。昼から快晴となりホッとしたことでしょう。両国橋付近へ船を繰り出し花火見物に出かけるからです。〔船壱艘 屋根船弐艘 尤茅町師岡様御勘定奉行様…〕船1艘と屋形船2艘、上田藩のご重役以下藩士、町人、〔外ニ才料(宰領)ならびに供人大勢〕。芸者さんまで含めると総勢何人になるでしょうか。船3艘を仕立てての大接待。師岡様らは、打ち上げ花火だけでなく大がかりな〔仕掛花火〕も堪能しています。隅田川花火大会は現在でも、歩くことが困難なほどの人出です。

この頃の江戸の人口は100万人超え。江戸後期には世界一の大都市となった江戸は、武士(もののふ)の町から商人(あきんど)の町へ、そして町人が活躍する町へと発展し続けます。「林之助日記」からも「町人が活躍する江戸の町」がうかがえます。

接待としての寺社参詣、料亭通い、芝居・吉原・能・花火見物、贈り物、地方から出てきた人への接待などなど「接待も江戸の文化を育んだ」とは言いすぎでしょうか。

 

2019年5月18日号

45 生糸輸出のはじまり35 江戸と神奈川・横浜を往復する日々

安政6年(1859)6月2日は横浜の開港日。「林之助日記」では開港日そのものにはふれていませんが、「武蔵屋佑助之倅(せがれ)留之助儀出府」とあります。親の指示を受け貿易準備のために江戸へ来たのでしょう。

貿易が始まるというので上田から商人が続々と出府。上田商人・江戸商人・中居撰之助・上田藩重役らとの打ち合わせが続きます。林之助や上田藩士らは江戸での仕事だけでなく、5月下旬からは神奈川・横浜へ通っています。開港日を迎えても日本の商店や外国の商館は未だ建設中。従って、横浜村ではなく神奈川宿で貿易交渉をし、夜まで仕事が続くときには宿泊しています。

多忙であったにもかかわらず、神奈川・横浜へ出向く途中では「川崎大師参詣」、横浜から足を延ばしての「江ノ島参詣」。6月16日には江ノ島から船で江戸へ帰宅しています。江戸と神奈川・横浜間は陸路でも往復していますが、船を利用することが多かったようです。

 

2019年5月25日号

46 生糸輸出のはじまり36 安政6年6月19日、貿易交渉開始@

一部の商館・商店が建設完了。横浜で貿易交渉が始まったのは6月19日の横浜「中居屋」からです。朝一番にイギリス商人が来店し、上田産の生糸を手に取り売買交渉を始めます。その前後の様子が「林之助日記」に記されていますので詳しく見てみましょう。

〔六月十八日 〇横浜へ参る…〇昼頃より中居店にて代呂物切解大働〕中居屋で上田産物の荷を解き店に並べたのです。ずいぶん働いたようです。

〔十九日天気、中居重兵衛開店為祝儀蒸籠十荷遣す 〇武蔵祐殿昼九ツ時横浜出立極内々帰宅 〇夕方帰宅〕―大切な日なのに日記はこれで終わり。

翌日の日記の冒頭には、〔不快に付き横浜へ参り不申〕。開店祝いで呑みすぎ? 帰宅はしたものの日記を途中までしか書けなかったのでしょうか。

しかし大切なことが記されています。@中居撰之助が初めて「重兵衛」を名乗ったことA中居屋が開店(林之助らは開店祝いに蒸籠十荷を贈る)したことB武蔵屋佑助が秘密裏に急遽上田へ帰ったこと、です。とくにBはなぜなのか?

 

2019年6月1日号

47 生糸輸出のはじまり37 安政6年6月19日、貿易交渉開始A

「林之助日記」6月20日には、昨日の最重要事項〔十九日朝店開之節イギリス人参り 大井に噺相分り 上座品々見せ申し候〕が書かれています。

朝、中居屋が開店すると同時にイギリス商人が来店、話が弾み上座に並べた品々を見せた、というのです。これだけでは「上座に並べた品々」が何かはわかりませんが、「上田生糸」ではないかと推測できます。

この推測をもとに上田城下の「原町問屋日記」をめくっていくと、6月24日の項に〔神奈川横浜貿易十九日相始り糸引合相成り候〕と書かれているではありませんか。これで武蔵屋佑助が昼12時に横浜を秘密裏に出立し、わずか2日半で上田(実際は海野宿)へ戻った理由が判明。19日朝、イギリス商人との口約束? 商談が成立したからでしょう。

「原町問屋日記」24日の最後に「糸10駄出荷が決まる」とあります。10駄といえば生糸梱包40個(約1350s)。開港当初の1駄の利益は100両を超えたといいますから、1000両以上の利益です。イギリス商人との約束が成立していなければこれほどの糸荷は出荷しないでしょう。なお、武蔵屋佑助の行動は後に問題になりますが…。

 

2019年6月8日号

48 生糸輸出のはじまり38 日本初の輸出生糸取引

安政6年(1859)6月19日は、上田商人が日本で最初にイギリス商人と生糸輸出の売買契約をした日です。この日を「上田の生糸輸出記念日」にしましょう。

これまでは「6月28日、イギリス人が横浜の芝屋清五郎の店頭で甲州生糸を売買」が日本初とされていましたが、それより10日早かったのです。

また、中居屋がいつ開店したかも不明でしたが、「林之助日記」によって6月19日であったことが判明、この事実は横浜開港資料館でも紹介されました。

さて前回、「武蔵屋の行動は後に問題となり」とした内容は、「武蔵屋22日暁、海野宿へ到着。万屋平八と話し、糸10駄両に100目の値段買い付けの仕切書差出し…。産物会所へは〔右之義〕の知らせがなく海野町では疑念を持ち」(原町問屋日記6月24日)です。22日の「右之義」に海野町は不信を持ち調査、その後、武蔵屋は罰せられます。「右之義」とは何を指すのでしょうか。

ここに記された「22日に生糸10駄の仕切書差出し」の記述からも、「19日、イギリス商人との契約成立」を確認できます。

 

2019年6月15日号

49 生糸輸出のはじまり39  外国人の上陸

6月20日、〔神奈川本覚寺にアメリカ上陸いたし居候〕。日本領事館が置かれた神奈川青木町の本覚寺は眺めがよく、横浜港が一望できたといいます。

 開港日から10日が過ぎた22日、〔イギリス女人神奈川宮ノ岸へ上陸いたし荷物沢山持参。女余程美人也…。イギリス人神奈川常仏寺へ上陸に相成り申し候〕。メモは女性のことから始まります―「荷物が多い」「大変美人だ」と。

伊藤林之助はこのとき20歳の青年。まず外国の女性に目が向くのは当然かもしれません。彼は6月13日から神奈川に宿を移し常駐、ここから横浜と江戸へ通っています。したがって神奈川に上陸してきた両国の人々を自身の目によって見ることができたのです。(一般に最初のイギリス領事館は浄瀧寺といわれていますが、その前に常〔成?〕仏寺に入ったことが日記からわかります)

なお、外国商人は上陸するまでしばらくの間は港に停泊している船上で生活し、艀で横浜へ通ったといいます。19日に林之助と上田生糸の商談をしたイギリス商人もそうだったのでしょうか。

 

2019年6月22日号

50 生糸輸出のはじまり40  外国人との商談はどのように?

「ドロ」「エルフ」「モイフロ」―何のことでしょう?

「林之助日記」に記されている言葉です。ドロはアメリカのお金ドル、エルフは「この品物はいくら?」、モイフロは美女のこと。ここでも美女の登場です。

外国語を話せない日本人が西洋人とどのように商売を進めたのでしょうか。頻繁に使用する外国語は林之助のようにメモして覚える、繰り返して使う言葉は自然に覚える、ということでしょう。

しかし本格的な商談や契約はそうはいきません。通訳が必要です。主に中国の人がその役割を担っています。なぜ中国人なのでしょう。西洋人は、香港や上海の商館で西洋の言葉や商習慣を理解した中国人スタッフとともに横浜へ―その中国人は日本人と共有できるものがあります。漢字です。はじめは身振り手真似であっても、不明な点は漢字で筆談できる強み―横浜の外国人全体の4割が中国人でした。

横浜絵には様々な仕事に従事し活躍する中国人の姿が描かれています。中華街を形成したのも彼らです。

 

2019年6月29日号

51 生糸輸出のはじまり41  大量に輸出される上田生糸

7月からは大量の上田生糸が輸出されます。そのため神奈川宿を拠点とした林之助らは横浜へ、江戸へと連日の出張で大忙し。7月上旬にはオランダ商人から7駄、アメリカ商人から45駄もの生糸注文。8月上旬にはオランダへ44個。

8月10日、オランダやフランスとの生糸取引報告のために町田吉五郎(林之助とともに江戸・横浜で活躍した原町商人)が神奈川から国元の上田産物会所へ戻ります。会所での彼の行動記録には「代金は壱歩銀で500両受取り」「金1000両持参致し」などの文字が躍り、貿易による利益も大幅に伸びていることがわかります。

大量の生糸を積んだ外国船は横浜を出港、上海からインド洋を経てアフリカ先端の喜望峰を回りロンドンへ。ロンドンの市場で売買された日本の生糸はフランスのリヨンへ運ばれ貴婦人のドレスなどになりました。

1869年(明治2)、スエズ運河開通。運河から地中海に入りフランスのマルセーユへ入港するため航路が大幅に短縮されました。

 

2019年7月6日号

52 生糸輸出のはじまり42  開港場は横浜

各国の外交団は横浜が開港しても神奈川宿の湊に開港場をと主張しています。しかし幕府は安政6年の正月には開港場を横浜と決め、3月には建設計画を決定。林之助らは「横浜になる可能性大」と考えていたようです。

外国商人は、早くから大型船が停泊でき、発展の余地がある広い敷地の横浜がよいと考えていました。したがって彼らは横浜の仮居留地で商売を開始。が、12月に仮居留地で火災発生。これを機に外国商人は「本格的な商館を建て直したいので神奈川ではなく横浜を開港場に決定してほしい」と請願。安政6年12月(西暦1860年1月)、イギリス総領事オールコックが承認し諸外国も同意、ようやく神奈川・横浜問題は決着しました。

以後貿易はしだいに拡大し、輸出の1位は生糸、次に茶が続きます。慶応元年(1865)には蚕種の輸出が解禁され生糸に次ぐ輸出品となります。しかし蚕種は明治10年代になると主要輸出品目から消えます。輸出量を急激に伸ばした上田の蚕種も、明治10年代後半からは国内市場が中心となります。一方、生糸は昭和初期まで輸出を増大させていくのです。

 

2019年7月13日号

53 生糸輸出のはじまり43  「林之助日記」とはひとまずお別れ

ここまで40回近くは、伊藤林之助の日記を中心に生糸輸出のはじまりを探ってきました。
  
―なぜ「林之助日記」に多くを費やしたのか―彼の日記から「日本初の生糸輸出は上田から」がわかるからです。

「安政6年6月19日メモ」を発見した時のドキドキ感は忘れられません。それ以降、周辺史料などを確認するなかで、今まで不明であった多くの新事実を知り、幕末日本貿易史の一端がわかりました。と同時に、江戸・横浜・上田の人々の生活風景も見えてきました。

紙面でこれらの事実を紹介していると「林之助が歩いた江戸をグループでめぐりたい」という読者投稿が6人、5グループの方からありました。

具体的には「神田、湯島、上野の寺社めぐり」「銀座、浅草、猿若町めぐり」などです。幕末の上田商人日記がこのようなかたちで役立つとは思いませんでしたので、うれしい限りです。

「林之助日記」はまだまだ続いていますが、ここで一段落し、次回からは他の史料によって「生糸輸出のはじまり」を探っていきます。

 

2019年7月20日号

54 生糸輸出のはじまり44  丸山平八(郎)と海外生糸市場

3月中旬の「林之助日記」には、江戸・横浜へ貿易のために多くの上田商人が来訪、と記されています。丸山平八(郎)はその一人です。彼は材木商(木屋平)ですが、幕末には生糸商・蚕種商として上田や江戸で知られるようになった上田藩の御用商人です。

安政6年(1859)の丸山平八「御為替金控」帳に「〇金千弐百両 右書面之金子 糸荷二駄」とあります。安政6年の8月過ぎには、生糸が馬2頭分で1200両もしたのです。横浜開港当初は馬一頭分で100両の利益が出たといわれています。藩に納入する金額を差し引いても、平八の利益は大きかったのです。

生糸はロンドンの生糸市場まで運ばれると2倍以上になったといいます。したがって丸山平八の扱った1200両分の生糸は、2000両以上の商品取引に。馬2頭分の生糸がロンドンまで運ばれると、2000両以上になるとは。

古代、中国からシルクロードを通じてヨーロッパに運ばれた生糸は「金と同じ価値」といわれていますが、うなずけます。

 

2019年7月27日号

55 生糸輸出のはじまり45 御用商人平八(郎)

丸山家(木屋平)は天保3年(1832)上田藩に奉職し禄高5人扶持を給されます。以後藩主から多額の調達金を求められ、明治初年まで納め続けます。

丸山平八(郎)は、横浜開港当初から布袋屋善兵衛を中心とした江戸商人と上田藩の生糸取引を請負っていました。生糸貿易開始から6年後の慶応元年(1865)、蚕種貿易が解禁されると、蚕種の製造販売にも力を入れます。明治3年(1870)の上田藩庁『浜出蚕種枚数大凡調名前帳』には、諏訪部村丸山平八「三万枚」とあり、原町万屋万平「五万枚」に次ぐ横浜出荷量です。「百枚」〜「五千枚」の出荷者が多数を占めるなかで、彼らはとびぬけています。―「木屋平」丸山家がある塩尻組の諏訪部村は上田城の西隣り―

この年、上田領全体では62万7千10枚の蚕種を輸出。丸子を中心とした依田窪地域(幕府領・小諸領・岩村田領)も含めると、80万枚近くの蚕種が出荷されていたのかもしれません。

明治初年、上田小県とその周辺地域は日本一の蚕種製造地帯になっていたのです。

 

2019年8月3日号

56 生糸輸出のはじまり46 蚕種製造販売システム

丸山平八郎は明治3年7月、伊那県(長野県の基)塩尻局へ1万5千両もの大金を融資(長野県を成立させるための資金の一部)。彼が長野県の誕生に一役買っていたのです。さらに上田城を買い取り上田町へ寄付したのも平八郎です。彼が木材取引のほかに蚕糸業で財を成したからこそ可能だったことです。
 
ここでは蚕種にしぼり、丸山家を元締めとする製造販売システムをみます。

@丸山家は庄屋などの豪農商へ資金融資→豪農と中小農家は蚕種製造→製造した蚕種は豪農商から丸山家へ(同家でも大量の蚕種を製造)
A丸山家は集積した蚕種を横浜の貿易商へ販売 
B売上金は貿易商から丸山家へ→同家から豪農商へ→豪農商から中小農家へ。

幕末維新期の上田では、このような蚕種と生糸の大がかりな製造販売システムができていました。現在の「大企業→下請けの中企業→孫請けの小企業」に似ています。

大量の蚕種の輸出はこのようなシステムがあったからこそ可能になったといえるでしょう。世界の資本主義の波に乗り出した初期日本資本主義の一形態といえるのかもしれません。

 

2019年8月10日号

57 生糸輸出のはじまり47 丸山平八郎、上田藩へ嘆願状

明治3年(1870)11月、平八郎は上田藩へ「蚕種価格の暴落によって人々が困窮しているので助けてほしい」との嘆願状を提出します。蚕種製造販売の元締め(前号参照)であり御用商人でもあったからこその行動です。

蚕種輸出の絶頂期、なぜ蚕種価格が暴落したのでしょうか。明治3年7月、ヨーロッパでプロイセンとフランスとの戦争(普仏戦争)が勃発したからです。日本蚕種の消費地であったフランスは輸入をストップ(フランスの銀行が蚕種関係への融資を凍結)。これがイタリアなどの国にも波及。日本一の製造量を誇った上田蚕種は横浜で販売不能状態に陥ります。

収入源を絶たれた農家は大ピンチ。加えて明治初年は急激な生糸輸出量の増大に絡んだ贋金問題と大インフレ(明治2年の上田騒動の引き金にもなっています)があり、窮民となっていく人々が増大。嘆願状(村の代表などからも出されています)に応じた上田藩は窮民救済のため、備蓄してあった越後米(お救い米)を丸山平八郎らの豪農商に命じて放出しました。

 

2019年8月17日号

58 生糸輸出のはじまり48 輸出から国内向け蚕種へ

普仏戦争が終わると、蚕種輸出は復活し輸出量が一時的に急増します。一方、ヨーロッパで猛威をふるった蚕種の微粒子病はパスツールらの努力により克服されました。

このためイタリア・フランスからの蚕種輸出要請は急速に減少。明治10年代後半になると蚕種輸出量はごくわずかになり、大半が「国内向け」となります。一方で生糸の輸出はアメリカを中心に増え続け、「製糸業は日本の基幹産業」といわれるほどになります。

蚕種輸出の道が絶たれた丸山家では、国内向け蚕種の集荷と製造販売に重点を置くようになっていき、国内用の帳簿や印鑑には「常磐軒」の屋号が記されました。明治中期には常磐軒製造の「極精蚕種【常磐錦】」が大量に売り出されていますが、その販売地域は、上田周辺や中野、屋代などの長野県内はもちろん、遠くは岩手県から徳島県にまで広がっています。

なお屋号「常磐軒」の文字は、矢出沢川沿いの丸山家「石垣」にも刻み込まれており、川原から見ることができます。

 

2019年8月24日号

59 生糸輸出のはじまり49 丸山平八郎と上田城

生糸取引や養蚕・蚕種で財を成した丸山家は明治初期に払い下げられた上田城を入手し上田市へ寄付。城跡は公園となりましたが、これは丸山平八郎直義の「上田城は子どもらが遊べる遊園地のある公園に」の思いから始まっています。ご子孫の丸山瑛一氏は次のような理由があったのではと推測しておられます。

上田領内の豪農商や庄屋が標的となった明治2年8月16日からの上田騒動。一揆勢は街道筋にあった豪商丸山家も襲撃、邸内を荒らし衣類や什器などを矢出沢川に投棄。それを川に入って拾った妊娠中の19歳の若妻やすは女児を流産し、自身も9月2日に死亡。養子だった丸山平八郎直義は「家付き娘である19歳の若妻をお腹の女児と共に失ってしまった。事件のためとはいえ、養父母に対して大変申し訳ないことをしたと思い、母娘供養のため、二人が連れ立って遊びに来ることができる遊園地の実現を夢見た」。

公園は観光客がお花見や紅葉狩りに…市民がジョギングに…。子どもらと遊びに来た家族に会うたびに明治2年の話を思い浮かべます。

 

2019年8月31日号

60 生糸輸出のはじまり50 吉池家の生糸輸出

前回までは上田領を中心とした生糸輸出をみてきました。今回からは上田領も含めた東信濃全域の生糸輸出に目を向けましょう。

信濃国岩村田領小県郡飯沼村(丸子地域飯沼区)の吉池家は、上田小県地域でも指折りの生糸販売業者でした。名主で豪農であった吉池家がいつから生糸の売買を始めて豪商となったのか、現在のところ不明です。生糸の売買を明確に示す史料は嘉永4年(1851)の「糸貫目改帳」などです。これらの史料から、嘉永4年にはすでに生糸の集荷と販売を大規模に行っていることがわかります。

ペリー来航は嘉永6年。横浜に港はまだありません。生糸の輸出もしていません。では大量に集荷した生糸はどこへ販売していたのでしょう。上州前橋の生糸市場です。前橋に集められた生糸は桐生や伊勢崎に送られ絹織物になりました。この地は、江戸中期には「西の西陣・東の桐生」といわれるほど絹織物業が盛んになっていたのです。

 次回からは、飯沼吉池家の生糸取引を中心にみていきましょう。

 

2019年9月7日号

61 生糸輸出のはじまり51 吉池家の生糸集荷

吉池家は東信濃の養蚕地帯はもちろん、松代・上州(群馬)・奥州(福島)・相州(神奈川)などからも生糸を集めています(嘉永4年〜明治3年の史料)。

嘉永4年(1851)の吉池家帳簿から集荷した地を拾いましょう。

まず飯沼・御岳堂・長瀬・南方・藤原田・練合・辰の口・和子・平井・腰越・深山・上丸子・下丸子などの旧丸子町全域。上田城下原町の万金・万平・木屋、新町の池新、常田の油屋などの豪商。このほかに長瀬村の糸市と上田城下の原町に集荷された生糸。長瀬村の糸市には依田窪全域の生糸、原町の糸市には上田領全域の生糸が集まります。両市に集まる生糸まで購入しているのですから驚きです。

その資金力(自己資金)にも驚かされますが、重要なことは、吉池家は「横浜開港前に大規模な生糸集荷体制をつくりあげていた」ということです。

横浜開港後、大型船でヨーロッパから買い付けに来る外国商人は「大量の生糸を保有する日本商人」から購入するのは当然なのですから。

 

2019年9月14日号

62 生糸輸出のはじまり52 「宝の山」を発見

「破損し汚れた小さな文書の束がたくさんあるので捨てたい。大切なものだったらまずいので見てくれないか」。飯沼古文書係の関雅則さんから連絡いただいたのは1997年秋。長野県立歴史館に勤めていた私は、企画展や皇太子ご夫妻ご訪問準備などがあり「大切に保管しておいてください」と伝えました。翌年は皇太子ご夫妻のご来館。転勤もあり…2000年、夏休みがとれてようやく古文書庫へ。 

書庫の隅の破損した箱の中に、汚れた小さな文書(江戸期の封書)が荒縄で束ねられていました。しかし、その数の多いこと(崩れかけた大段ボール3箱に数千点?)。荒縄の間から確認できた文字は〔信州依田飯沼吉池文之助様〕〔横浜弁天通三丁目亀屋善三郎〕〔信州飯沼吉池定之助様、浜より〕などでした。

これらは生糸貿易に関する書簡ではないだろうか。とすれば、捨てられようとした文書の山は「宝の山」かもしれない! ならば私ひとりでは目録の作成さえ無理、仲間が必要です。改めて調査に伺うまで大切に保管するようお願いして、おいとましました。

2006年、ようやくその機会が訪れます。

 

2019年9月21日号

63 生糸輸出のはじまり53 「宝の山」の発掘開始

2006年春、恩師高村直助先生から「信州の生糸取引を調査したいという教え子らが行くのでよろしく」という連絡が入りました。

夏休みを利用して調査に来たのは、横浜開港資料館副館長、日本女子大学教授、同大学大学院生、東京大学大学院生など8名です。飯沼区の役員さんらが快く迎えてくださり「宝の山」の発掘開始。

史料は予想通り「生糸輸出関連文書」でした。飯沼区の役員さんらは史料の運搬、調査場の整備、お茶や昼食の用意などの仕事を手際よくしてくださいました。そのおかげもあり調査は快調。 

まず史料の写真撮影―これが思ったより大変で一史料に2〜3人がかり。書簡であるため読みにくい文字…目録作りはさらに時間がかかりました。 次は史料の分類。若さがなければできない作業の連続でした。大学院生のエネルギーには驚くばかり。私は休んでばかり。このような夏の日々が以後10年近く続きました。

捨てられずに命拾いした史料は、5000点近くもあったのですから。

 

2019年9月28日号

64 生糸輸出のはじまり54 生糸の値段、両、洋銀ドル

飯沼吉池家の「文之助日記」や「横浜書簡」から信州はもちろん開港当初の江戸・横浜の様子がわかります。また、吉池家史料には上田藩関連史料や「林之助日記」「問屋日記」と一致する部分が多く、生糸取引状況がより鮮明になります。では「文之助日記」から重要な事項を拾いましょう。

〇安政6年6月6日:外国金銀が通用するようになった(公儀のお触で知る)
 
〇7月10日:外国貿易のために開湊した(岩村田藩からの廻状で知る)

〇10月6日:生糸取引書状が神奈川の由之助(子)と定之助(甥)から届く

〇7年正月晦日:賢蔵が(生糸売上代金)400両持参して江戸から帰る

〇2月10日:(江戸の)由之助から(生糸売上代金)1500両が届く

〇3月23日:洋銀(ドル)430枚を甚助に渡して江戸で両替、260両になる。260両は由之助に渡す。

売買した輸出生糸量は記されていませんが、2月初旬の取引で1500両もの大金が動いていることには驚かされます。

 

2019年10月5日号

65 生糸輸出のはじまり55 吉池家の生糸取引体制

息子の由之助が出てきたところで、吉池家の人と仕事に目を向けてみましょう。

〇当主の文之助―信州飯沼で輸出生糸売買のすべてを取り仕切る(総務取締)。明治3年ごろから生糸取引業から手を引き、金融業に力を入れていきます。孫の2代目文之助は明治11年、第63国立銀行(松代)の初代社長になります。

〇息子の由之助―江戸、横浜に常駐し、日本の貿易商人(生糸売込商)や外国商人と交渉。ドル相場や生糸相場を見極め、出荷時期の指示を父文之助に仰いでいます。交渉相手は当初は中居屋と外国商人(イギリス・フランス人が多い―通訳はいるが、彼も英語を少し理解し簡単な日常会話ができたか)、ほどなくして亀屋(原善三郎)と野澤屋(茂木惣兵衛)になります。

安政6年3月3日は、「桜田門外の変」。幕府は公表しませんが、江戸滞在中の由之助は「変」の詳細を「急便」で飯沼へ知らせます。この一大事件はドル相場や生糸相場に影響しかねない、一刻も早く知らせなければ、という思いからの急便です。残念ながら彼は歳若くして没します。

 

2019年10月12日号

66 生糸輸出のはじまり56 吉池家の生糸取引体制

〇甥の定之助―上田小県地域はもちろん、信州各地(松代が多い)に出向いて生糸集荷、江戸横浜にもしばしば出向き由之助らとともに活動します。

―文之助から生糸取引業を受け継いだ定之助は、明治5年に「長野県生糸総代」の一人に選出され、翌年に飯沼生糸改会社を設立、横浜生糸改会社と取引しています。吉池定之助家には横浜商人や飯沼商人の記録が残されており、『横浜市史』が調査に入っています。

〇医師の松田玄冲―吉池家の大番頭として奥州(福島)や関東一円に出向き生糸を集荷(彼自身の店もありますので、吉池家との関係がどうなっているのか)。

―もともと彼は飯沼村の医師であり、岩村田藩から認可を受け、依田河原の水車小屋で火薬の製造もしています。

そんな彼がなぜ生糸取引にかかわるようになったのでしょうか。幕末最大の貿易商人中居撰之助(中居屋)とのかかわりが浮かび上がってきます。

 

2019年10月19日号

67 生糸輸出のはじまり57 松田玄冲と中居撰之助

飯沼村の医師松田玄冲は幕末最大の貿易商中居撰之助との親交が深く、中居屋の大番頭となります。彼が中居撰之助と兄弟の盟を結び、中居重右衛門と名乗るようになったのかは謎ですが(撰之助は中居重兵衛と名乗ります)、火薬で結びついたことは確かです。

信州小県郡飯沼村と撰之助の故郷上州吾妻郡中居村は、それほど遠くありません。戦国時代は真田氏で結ばれている「お隣さん」です。江戸後期、信濃国分寺の八日堂縁日に参詣した吾妻郡の人々は、上田領常田村の「鍋大」(鋳物師の小島大治郎家)で鍋などの鋳物を買っていったという話は今でも語り継がれています。嬬恋村から鳥居峠越えや地蔵峠越えの道は現在も利用され、村の人々は上田市へ買い物や娯楽に来ます。

撰之助が上州中居村で火薬を製造していたころ(江戸居住の前)、信州飯沼村の玄冲に火薬製造を依頼しています。飯沼村と中居村の最短距離は東御市の地蔵峠越え、祢津村新張の小林七治郎が中居屋に勤めていたこと、これらのことから2人を結ぶ道は地蔵峠越えだったと推測できます。

 

2019年10月26日号

68 生糸輸出のはじまり58 中居重右衛門(松田玄冲)の帳簿より

中居屋の大番頭、中居重右衛門こと松田玄冲は生糸貿易開始当初の安政6年(1859)と翌7年(=万延元年)に2冊の金銭出納帳簿『日下(ひか)恵(え)』『万(よろず)日下(ひか)恵(え)帳』を付けています。これをみると彼がどこで生糸などの取引をしたか、相手は誰かなどがわかります。

取引の地として丸子の飯沼・尾野山、小諸の市町、信州飯田の八幡・伊久間・市田、伊那の飯島・宮田・高遠…、甲州の韮崎・甲府・石和・大月…、府中、八王子、布田…、上州の下仁田・広沢村・高崎・石原村、飛騨高山、濃州、京都伏見、神奈川の戸部村・太田村、野州の大谷村…、水戸、奥州…などがメモされています。わずか2年間の記録ですが、東は奥州の福島から西は京都まで、広範囲に活動しています。江戸横浜では「ドル30枚、庄八殿へ渡す」など、ドルでの取引が多くみられます。

万延元年は信州飯田地域での生糸集荷が目立ちます。きつい旅であったためか、体調も崩したようで、鍼治療のことや薬剤購入関係のメモもあります。

 

2019年11月2日号

69 生糸輸出のはじまり59 松田玄冲と火薬製造

明治初年、生糸取引から身を引いた松田玄冲は医者として飯沼村に戻りました。その後、村の人々は彼の診療所を「松田お医者さん」と呼んでいました。

―玄冲は医者であるとともに火薬製造者でもありました。安政6年(1859)、水車を利用した火薬の新製法を発明。この権利を中居撰之助が譲り受け製造、中居屋は巨利を得ています。―

玄冲は帰村後、依田川沿いに所持していた水車付きの火薬製造所を上田町の銃砲弾薬商人飯島孫右衛門に貸していることから、火薬の製造はやめたのでしょう。写真は貸付証書に添えた絵図です。

この絵図から松田玄冲の火薬製造所のおおよその位置がわかります。飯沼の依田川原で「白欠け」と呼ばれている場所です。

ここは「人里から離れていて、爆発等があっても人家には被害が及ばないところだった」といわれています。なお、この文書には年月日が記されていませんが、明治9年に長野縣令となった楢崎寛直の許可を受けていることと地元の伝承から、貸し付けは明治10年ごろだと思われます。

 

2019年11月9日号

70 生糸輸出のはじまり60 吉池文之助と吉池定之助

さて、丸子飯沼の生糸商吉池家に話を戻しましょう。これまで文之助が取締役で甥の定之助はその指示で生糸の集荷をしたととらえてきましたが、この関係を見直すべきだとの思いに至りました。

残された帳簿のその後の分析から、文之助家と定之助家は対等な立場で生糸商売をしていたことがわかってきたのです。双方は独立して商売をし、二家が結びつき「吉池家としての生糸商経営」が成り立っていた、ということです。

明治11年には、文之助家は孫の文之助が松代の国立第六十三銀行頭取となります。定之助家は引き続き息子の悦之助も生糸商として活躍、親の定之助は長野県生糸大総代となります。二家は対等な立場で仕事をしていたからこそ、それぞれの道へ、といえます。

なお『長野県史通史編7』の「地主氏名住所一覧」(明治11年)には、小県郡のトップは吉池文之助、次が吉池定之助、続いて小野栄左衛門(県)、伊藤源太郎(上田町)、飯島七郎兵衛(上田町)とあります。幕末から明治にかけて両吉池家が財を成していったことがわかります。

 

2019年11月16日号

71 蚕種の本場上田小県1 蚕種の製造販売

―良い生糸は良い繭から良い繭は良い蚕種から―「蚕都上田」は蚕種から―

「日本初の生糸輸出は上田から」でしたね。明治初年の横浜では「上田糸・依田糸は品質が良いから浜では高値で売れている」と外国商人が言っています。その生糸を生んだのが上田小県産の蚕種です。

上田蚕種の製造と販売が史料に現れるのは江戸前期の寛文3年(1663)、塩尻の藤本善右衛門家です。塩尻は千曲川を吹き抜ける強風により桑の葉に害虫が付きにくく良質な桑(歩桑)が採れました。良い桑から良い蚕種が生まれる、というわけです。

江戸中期になると善右衛門を中心に多くの塩尻蚕種商人が関東一円に蚕種を販売するようになります。

ところが、寛保2年(1742)の千曲川大洪水(戌の満水)で塩尻の桑園は消失し蚕種業は一時衰微。しかし、塩尻周辺の養蚕農家や蚕種商人は桑園復活に尽力し、やがて関東地方から静岡・愛知・岐阜・和歌山・三重にまで蚕種の販路が広がっていきました。

 

2019年11月23日号

72 蚕種の本場上田小県2 本場は奥州から信州上田へ

天保年間(1830〜1843年)、蚕種の販路はさらに近畿地方(滋賀や京都)にまで広がりました。上田地域の蚕種が奥州(福島など)を追い越し「本場」と呼ばれるようになったのはこのころのことです。

天保7年の上州高崎「議定趣意書」表紙には「武州本庄・上田組」と記され、本文の次に上田小県地域の蚕種商名が記されています。人名(147人)は割愛し、村名と連名のみ列挙します。

下塩尻、上塩尻、滋野、滋野連、上田連、金井、紺屋町、常田、房山、長嶋、金剛寺、伊勢山、秋和、諏訪部、生塚、新町、依田連、丸子、長瀬、飯沼、高梨、塩田連、村松、越戸、仁子田、福田、八木沢、舞田、中野、十人、下之郷、鈴子、手塚、御所、中之条、神畑、大日向、中小田切、上洗馬、曲尾、横尾、真田、横沢、下原、染屋、黒坪、上沢、堀、国分(連の中には近隣の村が含まれるので村数は増える)。

天保7年には、50を超える村の150人ほどが販売をしていたようです。あなたの住む所でもお蚕さんの卵を製造販売していたのかもしれません。

 

2019年11月30日号

73 蚕種の本場上田小県3 蚕種輸出の解禁

安政6年(1859)、幕府公認の生糸輸出がはじまりますが蚕種の輸出は禁止されています。なぜでしょう。蚕種を輸出すると外国で良質な生糸が製造され、生糸輸出が停滞するからという理由だったといわれています。しかし外国商人の求めに応じ、生糸とともに蚕種も販売されていた事実が多く見受けられます。

上田藩御用商人丸山平八の文久2年(1862)帳簿中にある「輸出用蚕種」の記載はそのひとつです。これは蚕種の密輸になりますが県内各地、いや全国各地でも同様なことが行われ、藩や幕府も知っていました。国内では輸出禁止令が意味のないものになっていたことを物語っています。

そこに外国からの強い要望。慶応元年(1865)に幕府は蚕種輸出を公認し、上田小県の蚕種は大手を振ってヨーロッパへ売られていきます。幕末明治初期には当地の蚕種輸出量は全国一となります(7月27日号参照)。しかしヨーロッパで蚕種の微粒子病が克服されると輸出量は激減し、明治11年(1878)以降、国内向けの蚕種がほとんどとなりました。

 

2019年12月7日号

74 蚕種の本場上田小県4 蚕種屋は川沿いの地に

前回までは蚕種販売の歴史的経過のおおよそを見てきました。今回からは上田小県の蚕種とその製造販売について詳しく見ていきましょう。

蚕種屋にとって蚕が蛆(カイコノウジバエ)におかされることは大きな悩みでした。カイコノウジバエは4月から5月まで土のなかにいた蛹がハエとなって桑の葉に卵を産み付けます。蚕がその葉を食べると体内で孵化して成長、蛆になります。蚕が繭を作り蛹になるころ、蛆が繭を食い破り外に出ます。食い破られた種繭は蚕の蛹が死ぬため採種ができず、役に立ちません。

このきょう蛆の害を防ぐためには、カイコノウジバエの卵が産み付けにくい土地(砂礫地)で桑を育てることです。日が照りつけ風通しのよい砂礫地(川原や扇状地のガラ場など)で育った桑は、きょう蛆の害が少ない歩桑と呼ばれました。歩桑を食べた蚕は蛾の出る歩(出蛾率)が高くなります。千曲川沿いの塩尻や神川地区、依田川沿いの丸子地区などに蚕種屋が多かったのはこの歩桑が採れたためです。なお、太郎山裾の大星川原も歩桑がよく採れる地でした。

 

2019年12月14日号

75 蚕種の本場上田小県5 微粒子病対策

お蚕さんの卵「蚕種」は、病気にかかっていないことが大前提です。

蚕病には軟化病・こうじかび病・濃核病ほか多数ありますが、ここでは微粒子病について見ていきましょう。

この病気は微胞子虫によるもので、卵・幼虫・成虫などのいずれの発育段階でも発病し、親から子へ伝染していきます。

幕末、ヨーロッパでは微粒子病が大流行し、大きな被害を出したため、日本から蚕種を輸入しました。

ヨーロッパでの被害を教訓に、日本では明治期から母蛾検査を行い防除に努めてきました。母蛾検査とは産卵した雌蛾をすりつぶし、顕微鏡で病気の有無を確認することです。長野県では小県蚕業学校長に就任する前に県職員であった三吉米熊が、明治18年(1885)に小県郡殿城村でこの顕微鏡検査を行い、県内全域に広めています。

小県郡では郡長の中島精一が塩尻の藤本善右衛門や佐藤八郎右衛門らの蚕種業者に呼びかけ、顕微鏡での微粒子病検査を徹底していきました。

 

2019年12月21日号

76 蚕種の本場上田小県6 塚田与右衛門

蚕種屋には病気を克服したうえで良質な繭ができる蚕種の製造が求められます。よい蚕種の開発が蚕種屋の腕の見せどころです。今回以降しばらくは、江戸中期から昭和まで上田小県地域で活躍した蚕種家に焦点を当ててみましょう。

宝暦7年(1757)、信州人初の『新撰養蚕秘書』を著したことで名高い塚田与右衛門から始めます。

正徳5年(1715)、塚田与右衛門は上塩尻村の農家に生まれ、若いときから養蚕の技術改良に努めました。享保末年(1736)ごろには奥州伊達・信夫両郡(福島県)から蚕種を仕入れ、上州(群馬県)各地へ売り歩いたようです。

『新撰養蚕秘書』は奥州と上州を幾度となく往復し蚕種販売するなかから生まれた養蚕書です。後書には、自分の究めた養蚕の理は評判がよく注文が多いため書き写す暇がないので刊行本とするとあります。

『蚕桑古典集成』は「徳川時代蚕書中の白眉」と評価。重要部分には絵入りの説明が付され、養蚕農家が理解しやすいように考えられています。

 

2019年12月28日号

77 蚕種の本場上田小県7 与右衛門は蚕種商俳人


信州塩里燕城山下
麦々舎杜雪
這ちらぬ虫の司は蚕かな

これは、信州塩尻の里 塚田与右衛門 杜雪の俳句です。「蚕は居所を決めていて、食い歩くことをしない位の高い虫だ」とでもいうことでしょうか。塚田与右衛門が蚕種商人で杜雪という俳号を持つ俳人であったことをよく示した句です。

『近世の地域と在村文化』を著した杉仁氏は、与右衛門らを「風雅信用に保証された技術信用、そして取引信用で地域の養蚕農に蚕種を売り歩く」蚕種商俳人だと言っています。俳句をたしなむような教養のある人が売る蚕種なら信用できるということでしょう。蚕種商売は風雅(俳句)、技術(質の良い蚕種の製造)、取引(誠実な販売姿勢)の三つが一体となって成り立つ「信用商売」だというわけです。行商人であり風雅人でもあることが求められた塩尻の蚕種商は、俳諧仲間を作って教養を高め合いました。

数多くの句を残した杜雪ですが、塩尻岩鼻の崖下にある向井去来句碑の建立記念集『巌端集』には杜雪の「若草やここにむかしの月の客」が載っています。

 

2020年1月1日号

78 蚕種の本場上田小県8 藤本善右衛門

上田市立塩尻小学校の北隣にある〔藤本蚕業歴史館〕。この館には戦国期から昭和期までの史資料が収蔵されています。展示の中心は蚕種製造関係の機器や蚕種紙、蚕種業解説と略年表などですが、資料の説明がわかりやすく、蚕種業の歴史が楽しく学べます。

また収蔵されている文書史料は膨大な量で、訪問する研究者が驚くほどです。これらの蚕種関係史料群を分析した研究論文も多数書かれています。藤本家の史料から上田小県の蚕業史、いや日本蚕業史が見えると言っても過言ではないでしょう。

では、史料群を残した〔藤本〕とはどのような家だったのでしょうか。ここでは近世末から近代の同家に焦点を当てます。

佐藤一族の総本家である〔藤本〕では、江戸後期から明治期にかけて4代にわたる善右衛門が活躍しています。それぞれの諱(実名)は昌信、保右、縄葛、信汎。したがって、個の人物は「藤本善右衛門縄葛」などと表します。まずは幕末から明治初期に活躍し、海外へ蚕種を輸出した「縄葛」から見ていきましょう。

 

2020年1月11日号

79 蚕種の本場上田小県9 藤本善右衛門縄葛

縄葛は文化12年(1815)、保右の子として生まれ、安政4年(1857)に善右衛門を襲名していますが、襲名以前の弘化年間の初め(1844ごろ)から藤本家の中心として活躍しています。したがって、幕末からの蚕種輸出を準備し推し進めた人は縄葛です。

慶応元年(1865)の蚕種輸出解禁後、輸出が盛んになるなかで不良蚕種の増加が外国から指摘され、横浜で大きな問題となりました。これに対処するため、塩尻の小岩井茂三郎・清水銀右衛門・藤本善右衛門縄葛・佐藤八郎右衛門らは、明治元年(1868)に縄葛を代表とする〔妙虫少連〕という組織を結成して優良な蚕種を製造しました。縄葛はこれを携えて横浜に出向き、イタリア貿易商人らの信頼を得て、他地域の蚕種の倍以上の価格で取り引きしました。

その優良蚕種は、弘化2年(1845)に縄葛が中山重作とともに育成した「掛合」とか「信州かなす」と呼ばれた新品種です。

縄葛は引退する前に旧長野県の蚕種大総代となり、県蚕種業界のトップとしても活躍しました。

 

2020年1月18日号

80 蚕種の本場上田小県10 藤本善右衛門保右

保右は縄葛の父で、寛政五年(1793)に生まれています。彼は天保年間から明治初年にかけて流行した青白種の「黄金生」(11月30日号参照)という新蚕種を育成しました。

「青白」種は、幕末から明治にかけてヨーロッパでも大流行。今号掲載の写真はイタリアに保管されていた明治3年製造の蚕種「青白」で、故矢島好高さんが発見した1枚です。

保右は「私は久しく蚕種商をしてきたので、諸国でよい蚕の飼い方を見聞している。少しでも養蚕家の助けになれば」と、天保12年(1841)に『蚕かひの学』を著しました(1月1日号参照)。この養蚕書は30ページの小冊子ですが、漢字にはふりがなが振られ、漢字が読めない人にも読めるような工夫がされています。

内容のよさに加え、誰にでも読める工夫があったために、「多くの養蚕家が『蚕かひの学』を読み、我が家の蚕種がますます売れた」という記録が藤本家に残っています。

 

2020年1月25日号

81 蚕種の本場上田小県11 国内養蚕種と信汎

藤本善右衛門家の最後に登場する人は信汎です。縄葛の子信汎は、明治10年(1877)に藤本家の当主となりました。

彼はまず輸出蚕種を中心に製造していた「均業会社」を「塩尻均業会社」に組織替えし、国内蚕種のみを製造する決断をしました。信汎が当主になったころから輸出用蚕種の需要が激減したためです。この切り替えがスムーズにできたのは、塩尻地区の蚕種業者が江戸期からの種場(得意先)を大切にした上で、郵送による販売先の拡大を図ったからです。

日本の郵便制度が軌道に乗り、明治25年には郵便小包法が成立、蚕種の郵送ができるようになりました。信汎はこれを活用し、明治30年代には北は青森県・岩手県から南は宮崎県・鹿児島県までと、全国に販路を広げています。

はがきや封書で注文が届くと、蚕種専用の郵送筒などで送付する―この方法は広く普及していたと思われ、藤本家だけでなく明治中期に蚕種業を営んでいた幾つものお宅で拝見できました。

 

2020年2月1日号

82 蚕種の本場上田小県12 勧業博覧会と信汎

明治政府は殖産興業政策の一環として「内国勧業博覧会」を催し産業・貿易の振興を図りました。

信汎はこの博覧会に第1回(明治10年)から蚕種を出品し、最高賞を受賞しています。以後も出品し続けますが、第3回と4回の博覧会では審査官に任命されています。明治政府はこのような信汎の博覧会への貢献を賞し、皇居見学などに招待しています。

長野県でも同様の催しを開いています。「明治13年生糸繭絹織物共進会報告」によると、会場は上田町旧城内中学校(現上田高校)、「県令ハ式場ヨリ勧業課長ノ先導ニテ陳列ノ出品ヲ巡回」した後、受賞者を称えています。特別受賞者は全県を代表し「上塩尻村藤本縄葛」―出品した人は藤本信汎ですが、県は縄葛の栄誉を称え「祖先以来養蚕ノ業ヲ勉メ多年該業ニ従事苦心シ…国産興隆ノ基礎ヲ…」と記しています。

縄葛を称えつつ藤本家の江戸時代からの業績を「国産興隆ノ基礎」と評価、博覧会や共進会は明治政府「殖産興業」政策推進の一つとなっていたこともわかります。

 

2020年2月8日号

83 蚕種の本場上田小県13 もう一つの藤本

「塩尻の藤本」について語ってきましたが、上田小県地域にはほかにも「藤本」があります。「丸子の藤本」です。塩尻の藤本は「佐藤」一族でしたが、丸子の藤本は「工藤」一族です。両家とも「藤」の本家というわけです。

丸子の工藤家も江戸期から蚕種業を営んでいましたが、明治になって蚕種組合「工藤組」を立ち上げます。組合員は工藤七左衛門・工藤善助・工藤柳助・工藤藤五郎・工藤林之助・工藤由郎の6人です。筆頭の七左衛門家は、江戸期には代々岩村田領上丸子村の名主を務めた家です。

組結成証の前文には、「…工藤組ノ蚕種ハ優良健全ニシテ価格ハ廉正ナリ。工藤組ノ蚕種ハ繭、蛹、卵ノ検査ヲ施シ原種用資格アル者ニアラザレバ販売ゼズ…」等と記しています。蚕種検査の施設などは林之助家の屋敷内にあったようです。

丸子地域自治センターに隣接する3階建ての工藤林之助家住居と蚕室は近年改修され、白壁が輝いています。なお同家には、蚕種郵送筒・注文はがきが残されています。

 

2020年2月15日号

84 蚕種の本場上田小県14 蚕種業者工藤善助

前回は丸子の蚕種組合工藤組を紹介し、その一員工藤善助の名も記しました。彼は明治の中ごろまで蚕種業者・地域の政治家でしたが、後に製糸業界と政界で活躍します。ここでは蚕種業者としての善助を紹介します。

渋沢栄一は16歳のころ、藍玉商人として父と上田小県地域へ足を運びますが、丸子では伊藤松宇(藍玉商・俳人・銀行家)家や升屋工藤傳五郎(醸造業他)家を訪れています。工藤善助は安政元年(1854)に升屋傳五郎の家筋に生まれ、明治9年(1876)に蚕種業を始めました。

蚕種業を営みつつ明治13年に26歳で上丸子村の戸長となり、以後、丸子村長、郡会議員、県会議員を務めます。同19年に長野県の蚕種業組合の常任委員、明治33年(1900)には県蚕種同業組合連合会の議長となり、藤本善右衛門や南条吉左衛門、郡長中島精一らと、県や国にかかわっていきます。

この間、蚕種商売も順調で、長野県内のほか福島県や茨城県、千葉県、鹿児島県にまで得意先を広げています。

 

2020年2月22日号

85 蚕種の本場上田小県15 工藤善助は蚕種から製糸へ

長野県の蚕種業界代表として明治37年(1904)、善助は衆議院議員となりました。東京にいることが多い日々、国の蚕種政策関連会議に出席し、とくに蚕病対策では重要な役割を果たしています。その一方で郷里の丸子では製糸結社「依田社」社長下村亀三郎のよき相談相手でした。

県下製糸業界の目覚ましい発展を体感していた善助は明治40年、依田社の一員としてカネ三製糸場(現在は丸子地域自治センターが建つ)を創業します。

製糸事業が軌道に乗った明治43年、蚕種業を完全廃業し、依田社の重鎮となります。依田社が長野県4位の生糸輸出量を記録した大正2年(1913)、社長下村亀三郎が急死、善助が後任に推され就任。翌年には欧米各国を視察し、どのような日本生糸を求めているのかを探っています。

善助の力に加え製糸業界の好況もあり、同社は「日本の依田社」から「世界の依田社」へと躍進しました。大正7年、善助は地元の応援と製糸業界をバックに再び衆議院議員となりました。以後の活躍は「製糸業」の項で述べます。

 

2020年2月29日号

86 蚕種の本場上田小県16 清水金左衛門

前回は丸子の製糸の話になりかけましたが、蚕種へ戻ります。

上塩尻村の清水金左衛門には、次の3つの業績があげられます。@養蚕乾湿計の発明、A蚕室の改良、Bフランス語訳された養蚕書の上梓。

ご子孫である故清水憲之助さんのご存命中、ご自宅でそれぞれの物を見ながらお話を伺ったときの光景が、昨日のことのように思い浮かびます。@とAから金左衛門は幕末の科学者だったこと、Bからはフランスでも認められるほどの養蚕書を著したことが理解できました。

@養蚕乾湿計は明治初年につくられた「日本初の乾湿計」です。メカルガヤ(茅の一種で虚空蔵山中腹の座摩社境内にも自生している)の穂先が湿気によりねじれる性質を利用した計器で、穂に金箔の指針が付いています。

金左衛門は明治8年(1875)に長野県の許可を得て、その使用書「養蚕乾湿計用方」とともに販売しました。多くの養蚕農家で利用されたようですが、その数は確認できませんでした。

 

2020年3月7日号

87 蚕種の本場上田小県17 金左衛門の蚕室と養蚕書

清水金左衛門が設計して建てた蚕室内の構造については、故清水憲之介さんが気抜き屋根の窓を地上から開閉するための縄紐を操作しながら話してくださいました。さらに同家の展示室で金左衛門自筆の蚕室設計図も見せていただきました。国立歴史民俗博物館で紹介されるほどの蚕室だったのです。

『養蚕教弘録』は金左衛門が弘化4年(1847)に出版した養蚕指導書です。「気の籠りむすは第一の毒」と換気の重要性を説いています。蚕室造りでも実践していましたね。この書の特色は養蚕で大切な事項を短歌にして覚えやすくしていることです。初版には「今日(けふ)出たる 蚕ハけふ(きょう)に はきとれよ 明日までおけバ 病(やまひ)とぞなる」など、10首が載っています。

増補版には「火(ひ)を焼(たか)バ 夜(よ)るハ猶(なお)さら 昼とても 別(わけ)て気を付(つけ)窓の開閉(あけたて)」―蚕室内を火器で温めたときの換気が重要―などの6首が付け加えられています。

 

2020年3月14日号

88 蚕種の本場上田小県18 仏訳された日本の養蚕書

清水金左衛門の『養蚕教弘録』は横浜に居たフランス人のモーニエ博士の目に留まり、フランス語訳されて出版、ヨーロッパ各地で読まれました。

故清水憲之助さんのお宅で仏訳本を見せていただきながら、明治初期にフランスやイタリアでは日本の桑を植えたことや日本の養蚕書も参考にして養蚕技術が進歩したことを知りました。

明治中期になると日本から三吉米熊(帰国後に初代小県蚕業学校校長)がイタリア・フランスの養蚕技術を学ぶために留学しますが、日・伊・仏の交流は幕末から盛んだったことが『養蚕教弘録』からもわかります。

金左衛門の後裔しみずたかさんのご著書『蚕都物語』には、彼の生きざまがわかりやすく記されています。副題に―蚕種家清水金左衛門のはるかな旅路―とあるように塩尻・横浜・佐渡での活躍ぶりがわかります。

「第3部 オゾンを求めて佐渡へ行く」は、大量の蚕種が輸出されていた時期に、金左衛門が国内で蚕種製造の新たな試みをしたことが紹介されています。

 

2020年3月21日号

89 蚕種の本場上田小県19 産卵台紙の製造量が日本一

蚕蛾に卵を産み付けさせるための台紙を蚕卵台紙または蚕種原紙と呼びます(蚕種とは蚕の卵のこと)。この台紙はA4サイズより一まわり大きく厚めの和紙で、江戸時代の紙漉き技術の工夫のなかから生まれました。

上田小県で産卵台紙の製造が始まったのは享和年間(1801〜04)、丸子地域にある旧長瀬村と旧中丸子村でした。

両村は小諸領で(長瀬は幕府領が混在)ごく近くにあり、長瀬では倉澤彌五右衛門家、中丸子では丸屋中山吉右衛門家が最初だったことがわかっています。

『信濃蚕糸業史』には、倉澤家は彌五右衛門が製造方法を秘伝とし、村内の人びとには伝習しなかったとあり、長瀬村の久保田丈右衛門が中丸子村の丸屋から伝習を受けて開業し、「蚕種原紙の製造開くに至れり」と記されています。

その後、長瀬村は依田川の清流を生かして製造量を飛躍的に伸ばし、明治から昭和にかけて製造量が日本一となります。中丸子でも製造は続きますが、明治中期からその量は減少していきます。

 

2020年3月28日号

90 蚕種の本場上田小県20 産卵台紙の新資料発見

「一説には小県郡に於ける原紙(蚕卵台紙)製造は長瀬村より隣村丸子村(中丸子)の丸屋吉右衛門の方早しとも称せられるども丸子村の方は其沿革漠として知る能はず」と『信濃蚕糸業史』に記されています。ところが最近、「丸子村の沿革を知る」手がかりを見つけました。旧丸子町中丸子に生まれ、塩田に住んでおられた故中山秀夫さんの資料です(以下要約)。

@中山家には「江戸時代から台紙を製造」の伝承あり。A生家に「丸屋」の焼き印を押した農具あり。
B中山吉右衛門勝治の位牌に文政12年(1829)没とあり。以後3代にわたる吉右衛門の墓石あり。
C吉右衛門勝治が製造を開始し甥の吉右衛門が継ぐ―丸屋吉右衛門は享和年間(1801)以前から台紙製造、その後長瀬村の丈右衛門に技術を伝習したとする『小県郡史』『信濃蚕糸業史』の記述と同じ。
D明治44年没の吉右衛門勝弥は明治8年ごろ閉業。

2月、中丸子の集落を望む山裾の中山家墓地を訪ねました。多数の墓石が並ぶなかに「中山吉右衛門」が3基、古くは安永2年(1773)の墓石もありました。

 

2020年4月4日号

91 蚕種の本場上田小県21 学校に残る蚕卵台紙

丸子北小学校の資料室には蚕卵台紙の歴史や製造工程がわかる展示があります。小学校に台紙の展示コーナーが設けられているのは全国にここ一つだけではないでしょうか。

丸子北小学校には旧依田村・長瀬村の児童が通っています。旧村の人々が養蚕用具や蚕卵台紙製造用具などを学校へ提供。「新築した家には置く場所もなく、その価値も知らずに捨てていたかもしれない。学校へ寄付したからこそ、カズ叩き棒や台紙を漉く道具が残った。学校で大切にしてくれていてありがたい」という声を聞きました。

聞きなれない「カズ叩き棒」とは何でしょう。打ち棒のことで下伊那地域では「カゾ叩き棒」とも言います。楮の木から剥いだ皮を灰汁で煮て、それを叩くために使用した棒です。

このほか蚕卵台紙の寸法に合わせた紙漉き枠や「しろめ包丁」など、今では見ることのできない用具の数々。校長先生は「地域に開かれた学校です。連絡いただければ資料室を公開します」とお話してくださいました。

 

2020年4月11日号

92 蚕種の本場上田小県22 藤原田の蚕卵台紙

桑畑跡が広いぶどう畑に生まれ変わった丸子の陣馬台地、その先の藤原田集落には気抜き屋根のある蚕室造り家屋が残されています。幕末明治期には養蚕・製糸が盛んで生糸輸出をしていた村の名残でしょうか。調査すると、輸出用生糸のほかに蚕卵台紙も製造―それほど広くはない藤原田で6万3000枚を製造していたとは驚きです。

明治10年ごろ、ここは「男、農桑を業とする者70戸、商1戸、農業のかたわら紙を漉く者5戸。女は農業をなし、養蚕、生糸を製する者105人、冬春は紡績を業」の村。ちなみに近隣村の製造量は、塩川村と上丸子村は0枚、下丸子村2万8000枚、生田村(依田村)6000枚、長瀬村春用1439万枚、夏用6万枚。

長瀬は日本一の製造量ですから別格として、依田川沿いの下丸子と依田の両村で3万4000枚。藤原田村にはとても及びません。藤原田は、依田川・千曲川の台地上にある村。紙漉きに必須の清水は、どこから得ていたのでしょうか。

 

2020年4月18日号

93 蚕種の本場上田小県23 桑畑からぶどう畑へ

丸子地域藤原田集落の先に続く、陣馬台地に広がる見事なぶどう畑。ワイナリーも本格始動し、たくさんの人が訪れるようになりました。30数年前、桑畑跡の調査で訪れたころの遊休荒廃地化した風景が思い起こされます。

桑畑跡がぶどう畑になった所は陣馬台地だけではなく、東御市や小諸市など東信濃に広がりつつあります。養蚕業が衰退して桑畑がりんごなどの果樹園となった歴史があります。しかし現在は、ぶどう畑へという流れが進んでいます。

「雨が少なく水はけと日当たりがいい南向き斜面、桑栽培をしていた地質などがぶどう栽培によい」と枝を剪定している方からお聞きしました。

「桑畑からぶどう畑への流れは日本がイタリアやフランスから学んだ。とくにイタリアのぶどう畑風景は千曲川中流域とよく似ている」と教えてくださったのは故矢島好高さん。明治22年(1889)、イタリアの蚕糸事情を視察し、日本蚕業界に新風を吹き込んだ蚕業教育者・三吉米熊さんはこの変化をどう思っているでしょう。

 

2020年4月25日号

94 蚕種の本場上田小県24 蚕種を貯蔵した風穴

16年8月に別所温泉で2日間にわたって開かれた「全国風穴サミットin信州上田」大会は、北海道から九州まで全国の研究者・愛好家・一般の方々が集結。蚕種貯蔵風穴のほか穀物・種子・樹木・食物・酒類の貯蔵・構造の科学的な解明など多岐にわたる報告・討論が行われ、地元の人々の力に支えられて大盛況でした。

風穴は日本のいたる所にありますが、信州では蚕種貯蔵風穴がほとんどで、その数は全国一かと思われます。しかし養蚕の衰退とともに埋もれ、忘れ去られた風穴も多数あります。風穴の存在を知らない子どもたちが、夏の遊び場(お盆のきもだめし場など)にしている姿を見たお年寄りが、地元の風穴を再認識したという話もあります。

では風穴とは何でしょうか。山の斜面下のガラ場や岩の間などから冷風が吹き出る穴です。人々は昔から冷風の吹き出口に石室を造り、【天然の冷蔵庫】として利用してきました。したがって蚕種貯蔵以前は氷や食物などを保存しました。時代や地域によっては信仰の対象にするほど不思議な場が風穴でした。

 

2020年5月2日号

95 蚕種の本場上田小県25 風穴の歴史

江戸時代からの風穴の記録をいくつか挙げます。

@菅江真澄―天明のころ(1781)伊那の山吹に蚕種貯蔵風穴あり。
A文化7年(1810)ごろ刊『諸国里人談』―諏訪明神は風穴により甲州身延山まで通じている神様。
B『信濃蚕業沿革史料』―天保年間(1830〜1844)には上田の房山に蚕種貯蔵あり。
C天保5年(1834)刊『信濃奇勝録』―伊那風穴は「風穴明神」であり大風の神様。安曇稲核風穴は「夏の食物保存倉庫」。
D大正4年(1915)刊『北佐久郡志』―「元禄の頃、氷を貯蔵し、時の藩主に献納せしが、明治6・7年のころ春蚕種の残諸所に多くありて…一時の窮策として風穴に貯蔵し、後飼育したるに良好」。

以上の例からわかるように、信仰の対象・食物の保存・蚕種の保存などは江戸中期からと思われます。しかし、蚕種を販売用として本格的に風穴貯蔵するようになったのは幕末から明治初年です。さらに「風穴蚕種」の海外輸出が許可されたのは一般蚕種より遅く、明治7年のことでした。

 

2020年5月9日号

96 蚕種の本場上田小県26 上田小県の蚕種貯蔵風穴

江戸期に上田の房山にあったという蚕種貯蔵風穴を探しましたが全くわからず、地元の古老に聞くと「ここにはないが常田池のそばにあった」と。しかしそれも見つからず、江戸期の風穴を探す困難さを感じました。

明治期以降になると場所を特定できる記録や古老の証言などから多くの風穴が判明。以下、30ヵ所ほど見たなかから印象深かった風穴5つを紹介します。

@武石の伏見風穴―事務所なども見える写真。武石川沿い、道なくマムシ注意。
A丸子の腰越風穴―上田小県第2の大きさ。幹線道路脇で見学容易。蚊に注意。
B塩田の独鈷山風穴―日露戦後?外国人が写る写真。工藤善助ら3人の所有。
C別所の氷澤風穴―地元の人々の力で大修復。冷風を体感できる石室。
D傍陽の氷平風穴―森林風景美。多様な植物。外国人が写る写真(前号参照)。

このほか、個人所有の小さな風穴から青木村村松にある上田小県最大の風穴まで多様です。多くは山中にあるのでA以外は山登りの服装で行くことをお勧めします。

 

2020年5月16日号

97 お蚕さん あれこれ1 蚕→繭→生糸

別所温泉の北向観音には大正7年に「小県蚕友会」が奉納した大きな繭額があります。養蚕蚕種関係者は蚕の品種を改良し大粒で丈夫な品質の良い繭をつくる努力を重ね、願いが叶うように社宮や寺院へ絵馬や繭額を奉納したのです。丸子の古老は「わざわざ岩村田の鼻顔稲荷のお祭りに行き、出店で蚕具を買い、絵馬を奉納した。参道は大にぎわいで歩くのがやっとだった」と語っています。

お蚕さんは体内に絹糸腺があり、ドロドロしたたんぱく質〔フイブロイン・セリシン〕を蓄えています。口から糸を吐き出し始めてから3日ほどで繭を作り上げます。繭は1本の糸でできていますから、引き戻せば1本の繭糸になります。その長さは約1500m、蚕の品種によっては2000mにも達します。 

「あんなに小さくてかわいいお蚕さん一つのなかから2000mもの糸が出てくるなんてビックリ。繭から糸を引きながら学校から家まで引っ張って帰ってもまだ余る」―これは小学生の感想です。

10ミクロン余の極細繭糸を数本から数10本撚り合わせて処理した糸、それが生糸です。

 

2020年5月23日号

98 お蚕さん あれこれ2 繭から真綿へ

生糸として挽けない繭のひとつに「出殻繭」があります。出殻繭とは蚕蛾が外に這い出た後の繭のことです。蛾はセリシンを溶かして繭に穴をあけて外に出ます。穴があいた繭からは長い1本の糸は挽けません。では捨ててしまうのでしょうか。養蚕農家の、とくに女性が寝る間も惜しんで育てた繭です。そんなもったいないことをするはずがありません。出殻繭は真綿にします。

繭から出た蛾をほかの蛾と交尾させて良い蚕種を製造する―蚕種家の仕事です―この蚕種家(蚕種業者)が上田小県地域には数多くいました。したがって出殻繭を大量に産出します。生糸として挽けない繭はほかにもあります。成育の良くない繭、汚れた繭、潰れた繭、虫や鼠に食われた繭などなどです。これらの繭がこの地域にはたくさんあったので、大量の真綿が製造できました。

生糸用繭の仲買人はもちろん、真綿用の繭を農家から専門に買い集める中小の業者もたくさんいました。出殻繭は繭の競り市に持ち込まれ、「安く買い叩かれた」―かつて仲買をしていた人が話してくれました。

 

2020年5月30日号

99 お蚕さん あれこれ3 真綿づくりとその用途

日当たりのいい縁側でおばあちゃんが「真綿かけ」をしている―子どものころの原風景です。四角い枠に真綿をひろげる真綿かけは農家の大切な仕事でした。

昨年、100歳になった方が「真綿かけは小学校でも習った」と話していました。小県蚕業学校や上田蚕糸専門学校の大正時代の写真には、男子生徒が真綿かけ実習をしている姿が写っています。

繭をよく練ってセリシンを落し、ぬるいお湯のなかで引きのばし、四角の木枠に広げると角真綿になります。角真綿は布団を作るとき布団綿を包み、布団地との間を固定するために使われました。

さらに角真綿をそのまま肌着の背に張る、冬半纏の中に入れるなど、真綿は寒い信州に根付いた防寒衣料の一つでした。このほかに指先で袋のように広げる袋真綿もありました。

農家の女性が家で真綿を作る一方で、上田には真綿工場がいくつもありました。これは上田や更科・埴科に真綿から紡いだ糸で上田紬を織る職人さんが多かったことも一つの理由だといいます。

 

2020年6月6日号

100 お蚕さん あれこれ4 上田紬の変遷(概略)

江戸時代の庶民が着用することを許されたただ一つの絹織物は紬でした。その昔、特別な技術や道具がなくても織れたという紬は、農家の自家用として織られていました。

江戸前期には上田でも商品になりうる紬が織られるようになりました。技術や道具の進歩により、堅牢で見栄えの良い紬が織れるようになったのです。江戸中期になると三都(京都・大坂・江戸)で上田紬の名が知れわたるようになりました。堅牢で見栄えのよい上田紬は、江戸後期になると大名の贈り物としても使われています。

幕末、生糸輸出が盛んになると、上田地域では上田紬を織る人が少なくなります。それは織物にする手間が省ける、生糸は高値で売れる、などの理由からでした。しかし更科・埴科・高井・水内では上田紬が多く織られるようになっていました。

上田では衰退していった上田紬ですが、戦後、金井章次が復興運動を起こして紬が再び盛んに織られるようになり、今日に至っています。

上田紬の変遷については、いずれ詳しく述べたいと思います。

 

2020年6月13日号

101 上田小県の製糸1 糸挽きのはじまり

絹と人とのかかわりはいつからでしょう。6000年前に中国で、といわれてきましたが、最近、1万年前の中国の遺跡から絹織布発見という情報もあります。日本へは弥生時代に朝鮮半島から伝播が通説ですが、発掘調査などの進展でさらに古い時代へ遡る可能性も。お蚕さんの基である「野蚕」は自然のなかで生きる昆虫なのですから。

中国の史書『魏志倭人伝』には「日本でも養蚕機織」と記されています。これは文字で記された「日本養蚕機織」の最初の記録です。『魏志倭人伝』は卑弥呼の邪馬台国はどこに?§_争で有名ですが、『日本書紀』より400年以上も前の中国史書です。その方法は記されていません。

卑弥呼の時代、どのようにして糸を挽いていたのでしょう。江戸時代の『山繭養法秘傳抄』に描かれた絵にそのヒントがありそうです。繭から糸を挽き出し、指先で撚った糸を足元の糸入れに置いていくという原始的な方法です。

2000年ほど前、このような姿で糸挽きをしていたのかなと想像します。

 

2020年6月20日号

102 上田小県の製糸2  手挽き―うしっ子と牛首

桜や栗などの自然木の先につけた小枠に、繭から挽いた糸を巻く簡素な装置を、「うしっ子(丑っ子)」といいます。「木の幹を支える2本の枝が、牛の前足のように見える。だからうしっ子と呼ぶようになった」とか。

片手で繭から糸を挽き出し、もう一方の手で小枠を回す。そのため糸を継ぎ足すときには作業を中断、再び小枠を回し…このくり返しは熟練した技術(とくに指先)と多くの時間を要する女性の仕事でした。

時代が下ると大工さんが作った「牛首」が登場します。土台が安定しスペースを取らない、小枠を回しやすい―牛首により手挽き作業の効率がアップしました。うしっ子や牛首は座繰りが導入されてからも使用され続け、「昭和になっても、牛首で糸を挽いていた」と、何人もの上田の古老から聞きました。

 

2020年6月27日号

103 上田小県の製糸3  近代へと移行する製糸

繭から挽かれた糸は生糸と呼ばれ、挽いた糸を巻き取って整えることを製糸といいます。製糸という言葉が広く使われ始めたのは幕末です。なぜでしょうか。

古くから農家では桑を育て、蚕を飼い、繭をとり、糸を挽き、織る、という一連の作業をしていました。ところが幕末、横浜が開港し、生糸の大量輸出がはじまると、養蚕のほかに生糸を挽く作業にまで手が回らない農家が増え、養蚕と製糸が分離し始めます。そのころから「糸挽き」を「製糸」と呼び、座繰り挽きも座繰製糸と「製糸」の言葉をつけるようになりました。

幕末の横浜開港(1859年)以前から上田小県では座繰製糸が盛んでした。開港前は生糸を上州の前橋に出荷していたからです。前橋は信州、上州、奥州など、関東における生糸の一大集積地でした。前橋集荷の生糸は桐生・伊勢崎・足利などで絹織物になりました。上田の豪商〔万金〕や丸子の豪農商〔吉池〕、上田の糸商〔池新〕には座繰生糸の前橋への出荷帳が残っています。

 

2020年7月4日号

104 上田小県の製糸4 座繰製糸のはじまり

生糸の大量輸出がはじまると製糸法の主流は「手挽き」から「座繰り」へと移ります。しかしその過程は単純なものではありません。問屋制家内工業としての座繰製糸への移行という問題があります。これは日本資本主義発達論争にまでかかわりますので、ここでは座繰器はいつ登場したのかに焦点をあてます。

座繰器は、それぞれの地域で独自に発展しました。ここでは上田小県で主に使われた上州式座繰器にしぼりますが、この地域でも奥州式座繰器が使用された跡もわずかに残っています。

上州で座繰器が発生したのはいつか、それが信州へ持ち込まれたのはいつか、諸説あります。とくに上田小県へ持ち込まれた時期については、今までの説が見直されています。 ―上州で座繰器が発生したのは1800年前後、上田小県へ持ち込まれたのは1830年前後―これが現時点では有力です。器械製糸が導入されてからも、上州式座繰器はより使いやすく、より上質な生糸が挽けるようにと、改良が重ねられました。

 

2020年7月11日号

105 上田小県の製糸5  改良される座繰器@

座繰器・うしっ子・牛首は、お宅の物置や蔵の中に眠っているかもしれません。探してみてください。私は大工さんの氏名と製造年月が墨書された座繰器に出合い、小躍りしたことがあります。大工さんやその家族の顔まで浮かんできます。

絵や写真、現物、それぞれのかたちで座繰器はまだ残っています。しかし「これが天保年間に製造された座繰器だ」と言い切れる人がいるでしょうか。幕末・明治・大正・昭和の器を並べてみても難しいでしょう。同じ時代の製造でも地域や大工(指物師)さんによっての違いがあるからです。

座繰器の製造技術は、器を使う人に合わせて進歩してきました。年月が墨書されていなくとも、製造年代を推定できる器もあります。写真は、イタリアの蚕種商人が1872年(明治5)に上田を訪れた際の報告書の絵です。キャプションは「ウイーンで展示されたzaguri」。したがってこの上州式座繰器は幕末から明治5年ごろまでの製造であり、蚕種商人が上州か上田周辺で見た器と同じ型、と考えてよいでしょう。

 

2020年7月18日号

106 上田小県の製糸6  改良される座繰器A

座繰りとはどんな意味でしょう。?文字通り「人が座って繰る」?座は歯車のことで「歯車を使った糸繰り装置」の二つが考えられます。前号の絵では女性が座って繰っていますが、手元に近い側にある歯車はよく見えません。しかし本号の絵では歯車が見えます。一般には「歯車仕掛け説」が有力ですが双方ともよしとしたいものです。

前号に載せた絵は、幕末〜明治初年製造の「二つ取り」(リャンドリ)座繰器で、小枠が二つ。本号の明治31年ごろ製造の「一つ取り」の絵は小枠が一つ。技術進歩の観点からは、「逆では」と考えがちですが、この通りです。では、なぜ?

横浜開港によって生糸が飛ぶように売れた幕末から明治初年に二つ取りが活躍。計算上は同じ作業で2倍近くの生糸がとれます。しかし一つ取りでさえ熟練を要する糸繰り。二つ取り器では技術が追いつきません。「粗製濫造」―量は増えても生糸の質がガタンと落ち、外国から「買わないぞ」や多数の苦情。そこで再び「一つ取り座繰器で良質な生糸を」に戻ったのです。

 

2020年7月25日号

107 上田小県の製糸7  改良される座繰器B

明治初年、良質の糸が挽ける西洋式の器械製糸が導入されると、負けてはならじと日本の座繰器も改良を重ねます。その結果、器械製糸のように両手が使える座繰器が登場します。両手が使えると「二つ取り」でも良質の糸が挽けます。繰糸者は一人です。

小枠はどのように回したのか?―足を使うのです。「足踏座繰器」の登場です。「一つ取り足踏座繰器」も製造されましたが普及しなかったのか、私は現物を見たことがありません(写真は残っています)。

明治13年、諏訪の土橋栄助が「自轉器械」と命名した「二つ取り足踏座繰器」を発明。上田小県ではこれとよく似た二つ取り足踏座繰器が多く使われています。この種の器は以前、塩尻小学校郷土資料室や丸子郷土博物館で見ました。さらに、60年ほど前、上丸子や腰越の何軒かのお宅で見たことをなぜか鮮明に覚えています。昭和になっても使用されていたのかもしれません。

もしかすると、足踏座繰器を保存しているお宅があるかもしれません。情報をお持ちの方はお教えください。

 

2020年8月1日号

108 上田小県の器械製糸1 諏訪形村ほか五ヵ村

明治4年(1871)6月27日、上田藩士田中鼎三は女子7人を連れ前橋製糸所へ(速水堅曹日記)―この20日ほど前(6月3日)の同日記には、信州諏訪形村の宮下理兵衛と細川吉兵衛から製糸業を習いたいとの手紙が上田藩の添状とともに届いた、とあります(『速水堅曹資料集』)。ここから製糸場開設は上田藩の産業振興策の一環であり、藩士が女子を引率していったことがわかります。

しかし上田藩は、わずか1ヵ月後の7月14日に廃藩置県のため消滅。前橋製糸所は明治3年に速水堅曹らが前橋に開設した藩営製糸場(官営富岡製糸場より2年早い開場)で、速水はその後、明治12年に富岡製糸所長に就いています。

『大日本蚕史』には「明治四年六月小県郡諏訪形ほか五ケ村は製糸機械所建設のため同地宮下理兵衛女子七人を率い上田藩より前橋製糸所に」と。しかし速水堅曹日記から、引率したのは宮下理兵衛ではなく藩士田中鼎三だったことがわかります。

前橋で技術を習得した女子7人は8月12日に上田へ帰ってきました。彼女らは地元製糸場で器械繰糸技術を発揮できたのでしょうか。

 

2020年8月8日号

109 上田小県の器械製糸2 初の器械製糸場は?

『大日本蚕糸』には(女子は技術を習得し帰村した)が「此の業、遂に成らず」とあります。諏訪形村ほか五ヵ村の器械製糸場は開設しなかったということです。

「そんなことはない。明治6年に諏訪形村器械製糸場が開かれた」という話も伝わっています。そうであればその場所はどこだろう、と諏訪形の人々の案内で現地調査をしました。製糸用水車が設置可能な場を堰沿いに探索。候補地はいくつか上がりましたが「ここだ」といえる跡はわからず。村の古文書からも確定できませんでした。

『信濃蚕糸業史』には上田藩の行動は「信州より機械製糸伝習のため他府県に工女を送れる始めならん」とあります。

―上田小県は信州から初めて他府県に伝習生を送った地―これは明治6年に和田英らが松代から富岡製糸場へ行った2年前のことです。上田の伝習生7人は和田英らのように、その技術を発揮することができなかった? なお、7人の女子を引率した田中鼎三は、上田に最初の写真館を開業した人です。「キカイ」好きだったのでしょう。

 

2020年8月15日号

110 上田小県の器械製糸3 上田原町と長瀬村

諏訪形村でないとすると、明治6年(1873)に上田原町の岩崎正義宅を借りた小野組の製糸所、あるいは同年小県郡長瀬村に開かれた小野組系列の金井製糸所ということになります(小野組とは明治初期の政府御用商人)。

原町の製糸所については、「中根久助帳簿」に「上田出店、同所製糸所」とありますが詳しいことは不明です。しかし長瀬村の金井製糸所については、創業者金井十朗の「履歴書」や『信濃蚕糸業史』から確かなことがわかります。

金井十朗は幕末に長瀬村の名主になり、明治5年には第16区副区長(名主より上格)となりました。製糸所は上長瀬の堰沿いに開設。水車で糸枠を回した器械製糸です。しかし、ボイラーではなく「焚火」で湯を沸かし繭の解舒―男1人、女14人で操業。小さな町工場というイメージです。小規模製糸所でも村長(明治初年、名主より上位の)クラスでないと開設できなかったことがわかります。建築費・原料費・人件費・運営資金など多額な費用を要したからです。

なお、小野組から融資や技術指導を受けたのかなどについては不明です。

 

2020年8月22日号

111 上田小県の器械製糸4 長瀬村の金井製糸

上田小県初の器械製糸と思われる上田原町製糸と長瀬村金井製糸は、明治政府の政商小野組系列(イタリア式器械)でした。ところが小野組は明治7年、政府の圧力により閉店(台湾出兵問題にからんで)。そのあおりを受け、上田の原町製糸は1年足らずで終わりますが、長瀬の金井製糸は存続します。なぜでしょう。

原町製糸は小野組直営、金井製糸は系列ながら資金の大半は金井十朗が出し、イタリア式器械製糸の技術指導を受けることが主だったのではないでしょうか。とはいっても「製糸業」は「生死業」―何年まで操業できたのでしょうか。
『長野県下10人繰以上器械製糸所一覧・明治12年2月現在』には「小県郡長瀬村・金井十郎創立年月明治6年6月」と掲載されています。この年までは操業していたのでしょうか。

明治初期、長野県には小野組のイタリア式を導入し開設する製糸場が主流でした。

したがって諏訪郡の深山田製糸や高井郡の雁田製糸などの中規模製糸場も、明治7年の小野組閉店による大打撃を受けています。

 

2020年8月29日号

112 上田小県の器械製糸5 鹿教湯の旺業社@

明治6年以降、上田小県ではその名がわかるだけで実態は不明、という器械製糸場がいくつか開かれています。

そんななか、丸子鹿教湯温泉の旺業社の史料は、初期器械製糸の実態を知らせてくれます。齋藤兵治さん宅の蔵で「旺業社」と記された帳簿を発見。鹿教湯温泉のある高梨村の小さな金融機関の帳簿かなと思いつつページをめくり…ビックリ。繭の買上、糸の売上、器械製糸関係諸費用などが記されているではありませんか。

蔵の中をさらに探すと製糸場創業当時の様子がわかる史料が数点。創業者は齋藤弥惣太。弥惣太家は江戸時代から旅館業を営み、村名主兼幕府領の小県郡長的な仕事をしていました。

明治になると、弥惣太は長野県代表の一人として、東京の地方官会議に出席しています(本連載19回と20回で紹介)。

横浜を訪れた際、生糸輸出の激増を目の当たりにし、地域産業振興策は「これだ」と思い、鹿教湯に器械製糸場、横浜に事務所を開設。繭の仲買人だった齋藤源三を横浜事務所に常駐させ、渋沢喜作(渋沢栄一の従兄弟)商店から鹿教湯産の生糸を輸出しました。

 

2020年9月5日号

113 上田小県の器械製糸6 鹿教湯の旺業社A

今回は、旺業社についてくわしく見ていきましょう。器械製糸用器は諏訪郡永明村上原の土橋栄助から購入しています。@蒸気釜―汽罐(ボイラー)のことで煮繭用。A烟筒―(ボイラーの)煙突。B気吹銅樋―蒸気用のパイプ。このほか糸の接合装置など細かい器具も購入しています。

@やAの大きく重い荷物は三才山峠か和田峠越え(いずれにしても険しい峠道)、明治10年代前半の長野県の山岳道路・交通事情がしのばれます。

製糸場の建築諸費は530円余、繭の購入費は1463円余、工女さん等の賃金は433円余、生糸売上代金は1792円余。繭購入費は桁違いで、繭代金高低が製糸場の経営を左右したことがわかります。製糸場には工女さん工男さんらが集まり、高梨村(含む鹿教湯)や周辺の村々では繭を増産。蚕種屋(永井条右衛門家など)も繁盛しました。

村の製糸場の汽罐音が初めて響いた朝、人々は「峠の向こうから新しい文化がやってくる」ことを実感したことでしょう。横浜みやげの絵図を見ながら。

 

2020年9月12日号

114 上田小県の器械製糸7 鹿教湯の旺業社B

横浜に事務所まで開設した明治14年創業の旺業社製糸場。『明治16年12月現在・10人以上器械製糸場調』には、経費1902円、純益0円、職工数男1・女21とあります。純益0円、厳しい経営状況がわかります。

また、同18年『器械優等工女取調書』には工女20人中の優等工女は15歳・17歳・18歳・23歳の4人。17歳の「はる」は、7月21日の開場日から無欠勤で67日旺業社に通い、総計で1貫799匁の生糸を採っています。

ところで、旺業社はいつまで操業できたのでしょう。「明治19年横浜渋沢商店仕切書」が残っています。しかし『明治21年製糸工場調』には旺業社の名はなく以後の県統計等にも登場しません。ということは、19年か20年に閉業したと考えてよさそうです。松方デフレの波に呑まれたのでしょうか。

その2年後の明治22年、上丸子に昭和前期まで続いた「依田社」の器械製糸場が創業。旺業社の技術や経営法を参考にしたかどうか、同じ丸子地域に上田小県最大の製糸結社が誕生したのです。

 

2020年9月19日号

115 依田社@ 亀三郎と諭吉

「依田社」製糸が丸子に誕生した明治22年(1889)、政府は明治憲法などを公布し中央集権国家体制を固めつつありました。明治19年まで東京の慶應義塾で学んでいた創業者の下村亀三郎は、この頃の政治と経済の動向をつかんでいました。

福沢諭吉に「信州の地に適した産業を起こせ」と励まされて丸子へ帰ってきた亀三郎。教師志望であった彼に諭吉は「信州は全国的に見て養蚕の盛んなところ。また製糸業の先進地である。よく研究して製糸業などに注目せよ。これから日本は海外貿易を盛んにし…」と諭したとも。帰丸し生活のために丸子学校の教師となった亀三郎は、夜は村の青年らと「これからは製糸か蚕種か」を討論。起業について2年間の調査研究をしています。

和田峠を越え、諏訪(岡谷)の製糸場に通ったことはよく知られていますが、ごく近くの武石の製糸場でも学び、鹿教湯の旺業社製糸場からも得るものがあったようです。これらは後に「諏訪式」と呼ばれた器械製糸です。なお当時の丸子は、蚕種業の全盛期でした。

 

2020年9月26日号

116 依田社A 起業

「水車建築願・明治22年6月24日・小県郡長関口友愛殿」―これは依田社建築時の願書の一部です。絵図も添えられ、「大字上丸子字川原・民有地・田」と記されています。

したがって「依田社」は、依田川沿いの田んぼの用水堰に水車を設置して製糸場を建てたことがわかります。現在、丸子文化会館の建つ地が「依田社」の本社だったのです。

『依田社設立趣意書』には「我が国の蚕糸はイタリアやフランスのそれよりはるかにすぐれている。しかし欧米の市場においては評判がよくない。これは旧来からの座繰製糸による粗製濫造によって均一の生糸が製造されないからである。今、理学を応用した器械製糸を導入して生糸の改良をしていかないと以後欧米市場で日本の生糸は勝つことができない」とあります。

明治22年7月10日、20人繰りの製糸場が操業開始。女工さんは親戚や近所の女性でした。この年は純益800円と好調。次年度は70繰りに拡大しました。しかし生糸市場の不況に遭い、300円の欠損…明治27年まで赤字が続きます。

 

2020年10月3日号

117 依田社B 社員は経営者

『依田社社則』では「蒸汽製造ニアラザル生糸ヲ本社製造ノ生糸ト合スル」ことを固く禁じています。アメリカ出荷の器械糸に座繰糸を混ぜないことを、依田社の社員(各製糸場経営者)が約束し合っています。

明治中期になっても日本の生糸業者のなかには器械糸・座繰糸を曖昧にして出荷する例があり、アメリカでは不評でした。依田社では器械糸を徹底し、徐々にアメリカ絹糸業界の信頼を得ていきます。

ところで、依田社の社員は各製糸場の経営者と述べましたが、どういうことでしょう。依田社は、一つひとつの製糸場が集まった製糸結社だったのです。下村亀三郎の製糸場は一(カネイチ)、五(カネゴ)は中山勘次、九(カネク)は齋藤繁之助の製糸場というように。大正時代の全盛期には30近くの製糸場が結社してアメリカへ生糸を輸出していました。なお、十の倉島龍之助以後は数字ではなく、イ、ロ、…ワのようにイロハ順としています。

結社することのメリットは何でしょう。

 

2020年10月10日号

118 依田社C 各製糸場が結社する良さ

「依田社の製糸場、倒産の8割近くは、生糸相場が読み切れなかったもの」(故小林文平氏談)でした。

明治23年から41年の18年間に起業した製糸場は25、倒産・場主交代・休業した製糸場は23、まさに「製糸業」は「生死業」でした。

依田社はこの状況を受けて明治43年から生糸検査部、生糸試験所、模範工女養成所(再繰所は明治23年)などを設置、共同の度合いを深め、倒産防止に努めました。個々の製糸場が共同する良さは何でしょうか。

@繭の共同購入―依田社本社が一括して繭を購入することで各製糸場はよい繭を格安に入手できる。
A共同再繰所―各製糸場の生糸が本社の再繰所で「依田社格」に統一でき輸出に有利となる。
B共同検査所―検査員や検査装置の共同活用により低コストで生糸の品質を向上できる。
C大量出荷により横浜・アメリカまでの生糸運搬費が軽減できる。D生糸相場や為替相場を依田社本社雇いの専門家が読み各製糸場に情報を提供できる。
(依田社諸史料から考察)

 

2020年10月17日号

119 依田社D 日本の依田社

各製糸場が結社し事業を軌道にのせた依田社は、明治40年代「日本の依田社」の地位を獲得していました。明治30年代にはすでに全国4位(片倉、山十、小口組に次いで)の生糸出荷量となっていたといいます(横浜シルク博物館元部長・小泉勝夫氏)。

また「明治四十四年横浜生糸入荷個数相撲番付」の依田社は「関脇」です。ちなみに「横綱」は岡谷の片倉製糸、現在も「グンゼ」として繊維業界で活躍している京都の郡是製糸は「前頭五枚目」です。

日露戦後の製糸業界低迷のなか、依田社はアメリカからの要請に応じ、糸質の改良に努めるなどして安定、倒産件数も激減しました(明治37年は22工場770釜でしたが大正3年には32工場3145釜に)。この頃から依田社は全盛期に入り、昭和元年(1926)まで出荷量は伸び続けます。

大正元年(1912)、丸子は村から町になり、社長・下村亀三郎は初代町長となりました。

「糸の町丸子」と呼ばれるようになった大正2年、亀三郎急逝。40代半ばの働き盛りでしたが社長と町長の重責、体力の限界だったのでしょう。

 

2020年10月24日号

120 依田社E 亀三郎から善助へ

亀三郎急逝のあと第2代依田社社長に推されたのは工藤善助です。

彼は蚕種業界の重鎮で衆議院議員でしたが、明治40年(1907)カネ三製糸場を再興し、依田社社員(製糸場主)となっていました。社員の総意を受けて社長となった善助は事業の維持拡大に努めます。

製糸業界を代表して再び衆議院議員となった善助は、日本製糸業界のためにも力を注ぎます。大正3年(1914)と大正9年の世界的な糸価大暴落の際は政府と救済方法を相談、第1次、第2次帝国蚕糸株式会社を設立します。

特筆すべきは、大正12年の関東大震災直後からの仕事です。直ちに上京、京浜地域在庫の生糸焼失(横浜港の倉庫にあった輸出前生糸全焼は最大の被害)や製糸経営者の被害などの救済について尽力、彼のスピーディーな行動により日本製糸業界は復活を遂げることができました。この間一ヵ月余、東京の旅館「上総屋」に常駐、ここから政府の諸機関に出向き官僚と交渉を重ねていますが、その折に急いで書いたと思われるメモの紙片が残っています。

 

2020年10月31日号

121 依田社F 世界の依田社

大正8年(1919)、アメリカのワシントンで開かれた国際労働会議に日本の資本家代表と出席した善助は、帰国後「幸に英国の労働大臣バーンス氏の応援もあり、不満ながらこの結果(1日10時間労働)を得たのである。希望としては11時間を得たかったのだが、労働問題大勢の向こう所、先づこの辺で我慢せねばなるまい」(「信濃毎日新聞」大正9年1月26日)と話しています。

日本の製糸場では1日の労働時間が13時間を超えていましたから、交渉結果に不満を持つ国内の資本家への牽制球だったのでしょう。

大正11年、善助はアメリカ絹業実地調査視察団の団長として日本の製糸会社社長21人を引き連れ渡米し、ニューヨークでの国際絹織物展覧会も視察。帰途、フランスとイタリアへ寄り業界を視察し関係者と懇談しています。

翌12年4月(関東大震災より前)、アメリカ絹業協会派遣のゴールド・スミス一行が依田社を視察するなど、以後もアメリカとの交流が続きます。

 

2020年11月7日号

122 依田社G 丸子鉄道敷設

大正7年(1918)、善助は丸子鉄道(旧上田丸子電鉄の前身)を敷設しました。製糸関連物資の輸送のためでしたが、鉄道敷設は上田小県地域の鉄道ブームを巻き起こしました。敷設金出資者の一人に上田町常田の小島大治郎がいたのです。

彼は以後、別所線、北東線、青木線、西丸子線と地方鉄道を敷設し続けました。出資者は依田社社員が中心ですが、上田小県全域(依田窪が多い)の資産家も出資しています。しかし、出資金トップは横浜の小野商店です。最盛期の依田社と小野商店は丸子と横浜を直接結びつける鉄道を一日も早く敷設したかったのです。

前社長の亀三郎とともに敷設計画を立てていたので、10年越しの夢が実現したわけです。善助が衆議院議員だったことも鉄道院を説得する力になったでしょう。彼は鉄道院へしばしば顔を出し認可を受けるための交渉を重ねています。敷設工事は急ピッチで進められ、大正6年には千曲川に鉄橋が架けられ、信越線の大屋駅と結ばれます。鉄道で運ばれた物資は生糸、繭、桑、石炭などですが、客車も連結され大切な女工さんや一般客も利用しました。

 

2020年11月14日号

123 依田社H  女工さんの出身地

ところで製糸場で働く女工さんの出身地はどこだったのでしょう。信越線と丸子鉄道を利用して県内はもちろん北越、関東からも来ましたが、ここでは鉄道敷設以前の様子を見てみます。

事業を拡大していた明治43年(1910)の依田社・カネ一製糸場「工女動静調」と「運動日誌」から、次のことがわかります。

この年、カネ一の女工さんは342人。最多が更級郡からの72人、上田町と丸子村を合わせた小県郡(68人)より多いのです。理由は確定できませんでしたが、昭和60年代の聞き取り体験からも更科郡出身者の多さが証明できました。小諸町を含めた北佐久郡出身者が第3位で47人。地元の丸子村からはたったの8人です。なぜでしょう。別の機会に触れたいと思います。

なお、越後(新潟県)からはたった4人でしたが、丸子鉄道開通後には越中(富山県)とともにその数が増大します。

 

2020年11月21日号

124 依田社I 女工さん募集

飛騨(岐阜県)からは18人の女工さんが来ていますが、「運動日誌」にその募集状況がメモされています。カネ一製糸場の運動員(女工さんを募集する人)は、明治43年1月2日から14日まで飛騨地域の農家110軒を訪ねています。

3日、桐屋(宿屋)朝6時発、8軒まわる。1軒は談判進行中であるが契約成立件数なく「雪降り道路悪し」なか、夜11時に宿屋へ戻り、報告書を直ちに発送。他社の動静について「各社イヅレモ熱心ニ遊説ス」とあり、他史料と合わせると諏訪地域の運動員が大勢入っていたことがわかります。

110軒を回って契約が成立したのはたったの2件。女工さん一人を雇用するのに大変な苦労をしていることがわかります。

他史料には、諏訪地域が競争相手として書かれていますが、40年ほど前の聞き取り調査で「岡谷の製糸場より楽そうだから丸子へ来た」と証言したおばあちゃんがいました。岡谷の実態は東條由紀彦氏が『製糸同盟の女工登録制度』で解明していますが、おばあちゃんの言うとおりだったかどうかは難しい問題です。

 

2020年11月28日号

125 女工さんの生活

依田社・カネツで働いていた「きよの」さん(明治25年生・当時93歳)が昭和60年に語った話から、女工さんの生活にふれてみましょう。

〇14歳(明治38年)で姉とともに更科から丸子へ来た。親は「行くな」と言ったが、家にいるより白いご飯が食べられる、おいしいものが食べられそうだ、と聞いたので来た。親も強くは反対しなかった。

〇器械での糸挽きに慣れるまでは大変だったが、先輩の姉さんたちがよく教えてくれた。苦労したが、いやだとは思わなかった。

〇なぜか寮には入らず、母さん(製糸場主の妻)の家で寝泊まりした。夜になると母さんがお裁縫やお料理、お花を教えてくれた。それが楽しくて今でもよく思い出す。行事などがあると、お赤飯を炊いてくれた―おいしかった。

〇16、17歳のころから友だちと夕飯後に丸子の街へ出かけて買い物を楽しんだ。お菓子、小間物、化粧品を買った。

同じころ、誕生日にお母さんがきれいな下駄を買ってくれたのは、昨日のことのように覚えている。浴衣も縫ってくれた。 

 

2020年12月5日号

126 女工さんは大変

女工さんになってうれしかったことを話してくれた方が多かったのですが、話には出しにくい「大変だった」ことはたくさんありました。

「明治四十五年工女前貸金請求簿」から拾ってみます。女工さんがカネ一製糸場からお金を借りた件数は約2ヵ月で134件。内訳は、実家の家計費・弟学費・弟調衣費・弟開店に付き資金・兄弟三人小遣い・母病気帰宅費・善光寺開帳帰宅旅費・買物費・小遣などです。

実家に家計費を送金する例が最多で金額は5円から20円(大正12年、丸子町の女工さんの平均賃金は1日1円38銭)。

兄弟への援助金、母病気帰宅費など、家族のための出費が多いのです。零細農家出身の女工さんが一家を支えている事実が垣間見えます。

明治32年『長野県統計書』によると、1日の就業時間が県平均で15時間から16時間でしたが、大正6年の依田社各製糸場では12時間から13時間に改善されています。大正期になってからの社会運動の展開や女工さん不足などにより、労働改善が進んだ結果といえましょう。しかし「残業で稼いだ」という話も多く聞きました。

 

2020年12月12日号

127 女工さんの娯楽

お菓子や小間物、下駄などを買う女工さんに楽しみが一つ増えました。

大正6年、丸子劇場が開業したのです。こけら落としの一環でしょうか、10月4日には松井須磨子一座が「復活」を公演し、「カチューシャの唄」も披露したようです。入場料は特等1円、一等80銭、二等50銭、三等30銭でした。「休日には劇場へ通い演劇や映画を楽しんだ」という女工さんたち。丸子劇場は後に丸子映画劇場と改名。昭和2年になると映画専門の丸子興藝館も開業、娯楽の中心は映画に移っていきます。

大正11年創刊「丸子タイムス」の記事から公演内容を紹介します。同年9月「丸子劇場は盆興行として14日より菊田一座乗り込み、佐倉宗五郎其他連鎖劇で開演。大人29銭、小人15銭」。昭和3年の興藝館では6月22日から、大河内伝次郎・沢村春子共演幕末時代純情史「断魔閃刃」、現代劇「凱旋の少年」、「復讐と女」の3本を上映。

丸子劇場はモダンな建物としても注目され、依田窪全域や佐久からも客が押し寄せ満員御礼。女工さんたちは、後ろの立見席で観ていたという話です。

 

2020年12月19日号

128 依田社カネタ製糸場

今回から依田社の製糸場をいくつか紹介します。

「カネタは「タとも書くが提出諸書類には【金太】と記してある」とご当主の土屋勲彦さんが教えてくださいました。

「タは明治20年代前半に依田社に加盟。昭和5年の『依田社業務要覧』には「組合員(工場主)・「タ株式合資會社金太製絲場・無限責任社員・土屋光治」とあります。ここから依田社の社員とは製糸場の経営者であること、タは株式合資会社組織だったことがわかります。

依田社で一、二を争う大きな製糸場であったタは昭和20年まで操業。戦争中は生糸でパラシュートも製造したといいます。

「タで働いていた女工さんは「終戦時、パラシュート用の絹布が支給された。その絹布が白く美しかったので戦後しばらくたって、子どものドレスに仕立てた。ところが生地が厚くて重く、子どもは着るのを嫌がった」と語ってくれました。

終戦直前の昭和20年3月、軍需工場が疎開、製糸関連装置はすべて撤去されました。したがって戦後、製糸場とし再起したくても不可能でした。しかし現在、「タの敷地内には有形文化財が残されています。

 

2020年12月26日号

129 有形文化財「タの煙突

高さ36mの赤レンガ煙突が旧丸子町の中央に立っていました。それは町のシンボル。「この煎餅は「タの煙突から小学校の方へ少し行ったお菓子屋さんで買ったよ」と言えば、お互いに店の名前は知らなくても「ああ、あそこか」と頷いてくれた子どものころ。

「タの煙突は大正9年(1920)に岡谷の「増澤商店」が建てました。今年はそれからちょうど100年。全国でも珍しい赤レンガ造りの丸い煙突は赤レンガ約10万個を小口積みして建てられ、地下部分も含めると38・16mにも及びます。

しかし、平成を迎える1990年ごろから煙突上部に亀裂が走るようになりました。危険なので壊そうか…「製糸の町の象徴をこの長さで残したい」と保存運動が起こり、専門家が調査。議会でも検討しましたが「地震でも心配がない11mの高さで保存」と決定しました。

1995年7月に上部3分の2を取り壊し、8月に町の文化財に指定。

2013年、東京本社から取材に来た新聞記者が「数字以上に大きく見える」と全国紙で紹介…。高さ38mに戻して修復保存ができないかと思うこの頃です。

 

2021年1月1日号

130 九州に丸子の製糸場

中丸子にある丸子修学館高校の下の段(現在は一部が高校の農場)に広い敷地を所有していた依田社の「四製糸場は大正6年、空前の製糸大好況時に絶頂期を迎え、規模を拡大しつつありました。

そんなとき「四は福岡県境に近い佐賀県基山町に分工場を建てました。大正15年のことです。生糸の原料となる中国繭の搬入運賃が軽減することが大きな要因でした(この頃すでに諏訪の片倉製糸は九州に進出していただけでなく、中国上海に500釜の工場を経営しています)。

『基山町史』には「金四製糸場は長野県小県郡丸子町に本拠地を置き、信州の生糸業者の中でも五指に入るとされた共同販売組合の依田社の属する製糸工場の一つである。金四の代表社員は小井土周造と中山久吉」とあります。小井土周造は「四の創業者、中山久吉は九州工場主です。

小井土周造のご子息一家はその頃九州に住み、博多の街へ行って映画や買い物を楽しんだそうです。しかし昭和恐慌の後から経営難に陥り、同9年、工場を閉鎖し「鐘紡」に売却しました。鐘紡はその2年後、中丸子の広大な桑園を取得し「鐘紡丸子工場」を建てます。

 

2021年1月9日号

131 信濃絹糸紡績@ 創業、資料館

鐘紡と同じく絹糸を製造した信濃絹糸紡績株式会社(現シナノケンシ・小型精密モーターなどを製造)は依田社本社の一つの工場でした。

明治42年(1909)、依田社本社に繭から生糸を繰る過程で出る屑を晒練加工して絹糸紡績原料を製造する「屑物晒練所」を設置。できた原料を販売していましたが、依田社内で絹糸を製造する方が得策と考え、大正7年(1918)に信濃絹糸紡績会社を創業。したがって社長は工藤善助でしたが、彼の懐刀といわれた金子行徳が運営を任されました。

その後独立した会社は金子行徳が社長となり、金子八郎・金子元昭氏と続き、現在に至っています。なお、昭和3年から同18年まで製糸業も兼営しています。

信濃絹糸は日本で最後まで絹糸紡績を続けた会社としても知られています。敷地内には「絹糸紡績資料館」があり、生糸と絹糸の違いやその製造過程を具体物から学べます。また、同社の歴史だけでなく、明治10年(1877)の官営新町紡績所(群馬県)創業時からの日本絹糸紡績史を俯瞰できます。

 

2021年1月16日号

132 信濃絹糸紡績A 戦争と従業員

シナノケンシの絹糸紡績資料館には、創業当時からの「日誌」が保管されています。操業の模様がわかるのは当然ですが、繊維産業と戦争とのかかわりもわかる貴重な資料です。

昭和10年、社内に私立信濃絹糸紡績青年学校が開校し、憲兵である岩田栄助少佐が入社。学校には20丁の小銃が支給され、生徒は実弾での射撃訓練、地区での合同演習―軍事教練後の集合写真が当時の雰囲気を伝えています。太平洋戦争開始とともに、社内の産業報国隊に青年隊・女子青年隊を結成。

従業員は産業戦士と呼ばれ防空消火・避難訓練を行い、八幡宮へ社員全員で戦勝祈願。600人余いた従業員は日中戦争がはじまると召集や帰農(招集による農業従事者不足や電力統制による操業停止など)により激減。従業員不足補填のため丸子高等女学校生46人を女子挺身隊として受け入れ、「米英撃滅決戦増産貫徹」。

昭和20年4月、軍の命令により軍需工場化。金子行徳社長は命令に抵抗して紡績機械を倉庫内に保管。戦後、他工場より早く紡績事業を再開できたのは社長のこの決断があったからでした。

 

2021年1月23日号

133 信濃絹糸紡績B 敗戦と操業再開

昭和20年8月15日終戦、工場を貸与していた三菱重工業丸子工場(皇国一三七七梅工場)は午後から兵器生産を停止。4月に43人が増員され89人となっていた丸子高等女学校生徒の挺身隊も解散、ようやく学校教育の場へ復帰しました。

翌21年4月から本格的な絹糸紡績工場再建に着手。5月には倉庫内から紡績機械を搬出し場内に設置、これが大変な作業でした(戦争直後のことで若者は少なく、主力になっていた女性が重い機械を運ぶのですから)。

22年1月には男性工員34人、女性工員48人となり、ようやく紡績工場らしい姿が見えてきました。工場復興の厳しさが日誌からにじみ出ています。

このほか戦時中から戦後にかけての食糧難について、「午後3時に出たジャガイモの味が忘れられない」「夕食は会社から特配された米一合」「酒は自家製のどぶろく」など、工場と戦争についてだけでなく、生活の大変さを知ることができます。この日誌、生涯学習はもちろん学校教育の生々しい教材としても貴重です。

 

2021年1月30日号

134 鐘ヶ淵紡績@ 鐘紡誘致に関する新事実

信濃絹糸に続いて鐘ヶ淵紡績(以後「鐘紡」と表記)について、新発見資料を交えながら見ていきましょう。

昭和恐慌以降、製糸業が衰退。長野県は「蚕」で生きる道を模索します。その一つが鐘紡の工場を誘致することでした。

県下では長野、上田、丸子、佐久、岡谷、上下伊那で活発な誘致運動を展開。その結果は「待望の鐘紡工場・長野、上田、丸子に建設・津田、小坂両社長会見の結果電力料の協定成立」(信濃毎日新聞昭和9年9月22日の見出し)です。この時代の「工場設置」では、電力料問題が最後まで残るほど重要で、社会問題でもありました。

誘致を逃した地からは、「長野、上田はわかるが、上田に隣接する丸子とは、なぜか」の声が。丸子決定には新聞報道されなかった事実が隠されていたのです。その事実は製糸組合依田社社長を引退した工藤善助と中丸子の資料から判明しました。

2018年、丸子図書館蔵「工藤善助資料」の目録作成中に、新聞報道されなかった事実を示す資料を発見。時を同じくして中丸子歴史研究会がこれを裏付ける資料を見つけ、古老や元従業員の話を採取しました。

 

2021年2月6日号

135 鐘ヶ淵紡績A 鐘紡誘致と丸子

工藤善助は昭和8年初頭には「鐘紡が工場拡大を検討中」の情報を得ていました。なぜでしょう。

善助の甥の箕輪益夫が兵庫県芦屋に居住。益夫は鐘紡社長津田信吾とは昵懇の仲で、信吾から得た情報を善助に細大漏らさず伝えていたからです。

鐘紡本社は「工場拡大検討中」の情報が全国に洩れる前に長野、上田、丸子、岡谷、上下伊那、甲府を候補地として検討。丸子へは箕輪益夫の案内で津田社長と役員が視察に訪れ、町助役の小井土貞造(禎蔵)が建設適地を案内。貞造は軍隊で工兵隊に所属し河川工学を学んだといわれ、工場建設予定地の西脇を流れる依田川の護岸整備に尽力。視察団はこの事実も重視したといわれています。

鐘紡本社役員が中丸子は工場を建設する適地であると判断したことを受け、町長の金子金平は、工藤善助からの助言を参考に、町を挙げての誘致運動を展開。津田社長は丸子を訪問して計画を確認しました。

善助は鐘紡と丸子をつなぐ強力なパイプだったのです。なお、元衆議院議員の工藤善助と上田誘致に尽力していた地元選出の衆議院議員・鷲沢与四二らは連絡をとり合っています。

 

2021年2月13日号

136 鐘ヶ淵紡績B 保存された工場資料

なぜ上田工場ではなく丸子工場を取上げるのか。

―上田は戦争直後から従業員や機材、資料を丸子に移し始めたこと。丸子には上田以外(京都からも)の工場から資料が移されたこと。丸子は平成中期まで操業していたこと?さらに旧丸子町の職員が廃棄される運命にあった膨大な資料を保存したこと、がその理由です。
 
工場建設当初から操業停止までの膨大な資料を、中丸子歴史研究会と上田歴史研究会の会員が目録作成する過程で、自分たちの力だけでは「全容解明」が困難と痛感。そこで資料保管を厳密にし、他に応援を求めることとしました。

資料の価値を知った東北大学の研究者をはじめ3つの大学が手を挙げ、調査のため丸子を訪問。本格的に調査研究を始めた矢先のコロナ禍で、来年度から続行できるか心配になります。しかし中丸子歴史研究会では資料保管をしつつ、今までにわかったこと(周辺資料の収集や従業員と古老からの聞き取り)を文章にまとめています。

また信濃毎日新聞は、終戦直後の工場教育や中丸子歴史研究会の活動を報道。一万点近くに及ぶと推定される資料整理と調査は確実に進んでいます。

 

2021年2月20日号

137 鐘紡丸子工場@  工場建設用地の確保

江戸初期、信州初の桑園が開発された依田河畔に80余年間操業し続けた鐘紡丸子工場があります。現在はベルパークと呼ばれている中丸子地籍です。昭和9年10月20日付「丸子タイムス」の見出しには、「土地買収も順調に・鐘紡工場建設へ」とあります。はたして順調だったのでしょうか。

「家の近くで歩桑(蚕種用)も採れる良い桑畑を手放す。代替地は佐久に隣接する山の斜面。桑を背負っての上り下りは重労働―簡単には承諾できない―反対したものの町の発展のためと言われれば…仕方なかった」「これを機に養蚕をやめた」「縮小した」などなど。古老のみなさんが、反対した理由を私に語ってくれました。

2万8千坪に及ぶ敷地の地均しと工場用水路埋設(用水取り入れ口は敷地から上流1.5q)。

「丸子町当局は金子町長を中心に町内有力者を以て鐘紡工場誘致委員会を設置、用地買収或は地ならし工事に献身的な努力が続けられ…正式招致運動開始以来わずか3ケ月間にして此の大事業を成し遂げた熱意は今日も輝く功績」と「社史編纂資料」(半紙4枚綴り)にあります。

 

2021年2月27日号

138 鐘紡丸子工場A  工場建設と資料

大桑園の桑木を引き抜き、地ならしされた敷地に工場建設が始まったのは昭和10年7月です。

「近代建築として名実ともに充実した丸子工場」は1ヵ年の歳月を費やし、11年7月竣工。8月には精紡機1万錘が据付けられ「絹糸紡績工場」として操業を開始。

丸子には建設時からの膨大な資料があり、広げるとテーブルをはみ出す精緻な工場建物の設計図、微細な器具の説明及び取り付け図、敷地全体図、航空写真…胸がわくわくします。建設関係の専門家が見たらどのように感ずるのでしょうか。文書資料とともに分析されるのが楽しみです。

地ならしや堤防工事には重機やトラックが活躍しましたが、人力も頼りにされました。「石運びをした―石の大きさによって値段が決められていた。大人も子どもも運んだ」―ささやかな小遣い稼ぎになったようです。

「大変なことが起こった!と工事責任者が道を駆けていった」という話も聞きました?「帝都未曽有の反乱、日本の戦慄!二・二六事件」などと報じられた事件が起きたのは昭和11年の工場建設終盤のことでした。

 

2021年3月6日号

139 鐘紡丸子工場B  工場を支える人々


 不況で就職口が激減していた昭和11年。信濃毎日新聞の同年3月の鐘紡丸子工場記事には「職工採用男100名・女500名」。「丸子タイムス」の募集案内には「男子80名、女子500名」。

操業開始当初の鐘紡資料には「従業員男子67名、女子399名、計466名」とあります。この人数の違いはともかく、鐘紡資料中の従業員のほかに工場長や役員・紡績技術指導者・機械技術指導者、工務主任・電気技術者・営業社員などを含めると、600人余で工場が発足したと思われます。

しかし、元従業員の皆さんは「700人以上はいたと」と話しています。地元企業(綿谷製作所など)も含めた人数でしょうか。

工場や社宅、寮などの増改築・機器整備・金属加工・特別物清掃・付属病院の医師・看護婦・付属校教育の教師・庭師、これらの仕事の助手…。 

地元と本社・神戸・京都などからの人々の力が大工場を稼働させたことが、よくわかります(戦後は2千人規模に拡大)。

―紡績工場のイメージは「絹糸と向きあう女性」ですが、工場を支える人々のなんと多いことか!

 

2021年3月13日号

140 鐘紡丸子工場 C  女子従業員―年齢と待遇

「丸子タイムス」に掲載された募集要項には「男子16歳より満20歳まで、女子満12歳より満20歳まで。程度女子尋卒以上、男子高卒以上」とあります。女子は尋常小学校卒業、男子は高等小学校卒業以上程度ということです。

この「程度」があることにより、12歳以上なら卒業していなくても就業可能というわけです。戦前、鐘紡で働いたおばあちゃんは「尋常小学校を卒業していない12歳の女の子もいた」と話していました。その頃の教室内の写真には、幼さの残る女子の後ろ姿が見えます。

「あの時代、大会社の鐘紡に12歳で就職できたことは幸せ、家の助けになった」と語ってくれたおばあちゃんは、ご存命なら今年96歳。

 丸子タイムスの募集要項に示された待遇の欄には「鐘紡 女子初任、日給34銭」。ということは21日勤務すると月に7円14銭。同年代男子の小売店員としての初任月給3円と比較すると高い給金でした。なお同欄の求人女子は、鐘紡のほかには2人のみ(男子は21人)。アンパンとまんじゅうが1個5銭、おしろいは1個70銭という時代でした。

 

2021年3月20日号

141 鐘紡丸子工場 D  鐘紡丸子工場青年学校

戦後、鐘紡に「丸子高等文化学院」が誕生。それは昭和21〜23年の間で、確定できる資料がありません。証言する人によって違うのです。

―これはなぜなのか。原因がわかりました。青年学校の存在です。教室や教員の一部が戦前・戦後とも同じだったからです。

青年学校令によって、学校の設置が義務付けられた昭和10年4月。「信濃絹糸紡績」では、このとき社内に学校を設置。

鐘紡丸子工場の開業は11年。青年学校も同時に置かれたようです。12年の「青年学校教練」写真が鐘紡青年学校の設置を裏付けています。

「昭和18年度長野県学事関係職員録」の小県郡の最初には、丸子国民学校―校長岸田英七以下40人の教諭。続いて「青年学校」―校長岸田英七以下8人の助教諭と指導員が。 

この形式で小県郡の学校が列挙された後、「鐘紡丸子工場青年学校」―校長伊藤信親、教諭3人、指導員16人とあります。

以下「信濃絹紡青年学校」、「神栄生糸田中青年学校」、「綿谷工業青年学校」―校長は陸軍少尉、「丸子航器青年学校」と続き、小県郡の項が終わっています。

 

2021年3月27日号

142 鐘紡丸子工場 E  丸子高等文化学院

戦前の青年学校では女子に修身・公民、普通学科、職業科、体操、家事・裁縫、男子は体操にかえて軍事教練を課しました。

戦後民主教育が始まり、鐘紡には「丸子高等文化学院」が設置されました。学院の資料には「昭和23年5月10日設立」と書かれていますが、実際には22年(1947)から授業開始(次の記事からも)。

「もろさわさんが学院の教師として在籍したのは48年10月までのわずか1年半だが、教え子に与えた影響は大きい」(信濃毎日新聞「夢に飛ぶ、もろさわようこ94才の青春」)。

昭和25年の教職員名簿には、後に日本女子大学教授となる一番ケ瀬康子さんの名前も。「青年学校を廃した新しい高等文化学院で充実した教育を受けた」という証言もあり、実力ある教師陣が民主教育を始めたことがうかがえます。

学院の中心は白菊寮で寝食を共にする16歳以上の女性でしたが通勤者も学べました。「休日には通勤の〇〇さん家や慶応ボーイ先生の下宿に遊びに行ったことが授業よりいい思い出」と、元寮生のおばあちゃんが語っています。

 

2021年4月3日号

143 鐘紡丸子工場 F  戦後民主教育の発足

鐘紡本社教育関係資料には「丸子高等文化学院」のような事例は見当たりません。類するものは「定時制鐘紡長浜高等学校」(昭和24年・滋賀県の長浜絹布工場内)と「鐘紡講座」(27年)です。

これより先、22年に発足した「学院」。したがって24年頃までは「学院」独自で教育課程を組んでいたと思われます(生徒の日記から推測)。22年から24年までの民主教育の内容は貴重ですが、資料は見当たりません。

昭和25年5月、体系的な教育課程を編成(ガリ版刷りの冊子「我が校の教育に就いて」)。ここには鐘紡本社からの意思が強く働いています。

25年以前の初期民主教育を知ることのできる資料は「生徒会会則」(25年3月以前作成)のみです。これは一番ケ瀬康子さんの影響を受けているかもしれません。「目的」のみ次に記します。

「此の会は私達の自治能力を養成し学術技能を磨き人格を向上しお互いの親睦により明るい学院を築き立派な勤労人としての教養を身につけることを目的とします」。

一番ケ瀬さんが退職するのは25年、鐘紡幹部と意見の対立が原因だったといわれています。

 

2021年4月10日号

144 鐘紡丸子工場 G 学院教育

昭和25年の丸子高等文化学院を見てみましょう。

生徒は1・2・3年と研究科に在籍。教科は社会、国語、体育、家政、家事、被服、文芸、音楽、文化史、珠算、算術、習字、英語。生徒会が組織され、総務部・ニュース部・図書部・学芸部・厚生部・整理部を設置。

図書館も併設され、蔵書は教科書・参考書のほか哲学・社会科学・自然科学・小説・詩歌・随筆・美術・雑誌など。

教師陣18人の卒業校は、慶応大、長野師範、長崎師範、日本女子大、上田蚕糸、上田中学、丸子農商、上田高女、東京文化服装学院。ほか地元の実技講師がおり、慶応大卒が最多で5人。

目を引くのは社会・文芸・音楽鑑賞担当の一番ケ瀬康子さんと文化史担当の伊藤淳二さん。一番ケ瀬さんは伊藤さんと意見が合わず退職、その後日本女子大学教授・人間社会部長となります。伊藤さんは鐘紡社長・会長、日本航空会長となります。

現在の旧丸子鐘紡の広大な敷地跡には、図書館、学校給食センター、保育園、病院、老人介護施設、商業施設、工場などが立ち並び、街の賑わいの中心となっています。

 

2021年4月17日号

145 カネ五と丸子鐘紡

カネ五製糸は金五、「五(かねご)とも表記、製糸組合依田社の傘下にありました。

この製糸場は中丸子の丸子鐘紡正門を出た左にあり、鐘紡と意外なところでつながっていました。

昭和恐慌以降の製糸の衰退で女工さんは激減。そんな中、鐘紡が操業を開始。鐘紡女子寮の建設は進んでいましたが、宿泊施設が足りず、五製糸の女子宿泊棟が利用されたのです。五では20数人を引き受けています。該当建物は、明治時代に蚕種製造棟として建てられ、蚕具倉庫としても利用されてきました。

調査を重ねると、北側には座繰製糸場もありました。したがって、「五は養蚕・蚕種・座繰・器械・紡績にかかわっていたわけです。

江戸後期から養蚕・蚕種業、明治初期からは「中(かねなか)の屋号で座繰製糸、中期からは依田社の「五で器械製糸、かかわり方は異なりますが、昭和前期には絹糸紡績。しかも座繰製糸と器械製糸は同時に操業、昭和前期まで生糸製造を続けていました。中規模だからこそ可能だったと考えられます。

このような例は、全国を見渡してもそう多くはないでしょう。

 

2021年4月24日号

146 常田館製糸場@ 諏訪(岡谷)から上田へ

上田駅お城口の近くに建つ常田館。上田随一の製糸場として明治・大正・昭和とこの地域の蚕糸業を牽引、昭和59年に製糸業を休止しました。現在は「笠原工業常田館製糸場」として国の重要文化財に指定され、研究者や多くの観光客が訪れています。

明治11年(1878)、笠原製糸は諏訪郡平野村で産声を上げました。諏訪湖畔の平野村からは、後に日本を代表する製糸会社が続々と誕生、諏訪製糸の黎明期です。

明治中期になるとこれらの製糸場は諏訪地域以外に発展の地を求めます。

笠原製糸も例外ではありません。中でも上田小県は重要な進出地域の一つでした。なぜか、それを知るためにその頃の上田小県地域の製糸事情を見てみましょう。

明治6年に器械製糸が導入されましたが、改良座繰が主流。器械に光が見えはじめたのは明治14年、鹿教湯に創業した旺業社からです。明治22年には上丸子に依田社が誕生。依田社にならって大小の器械製糸場が操業しましたが、生まれては消えという状況でした。ところが諏訪の笠原房吉はこの地に目を向けたのです。

 

2021年5月1日号

147 常田館製糸場A 工場用地の取得

笠原製糸がこの地域への進出を考えていたころ、信越線大屋そのほかの駅から横浜への生糸出荷量は約9万8千5百sで、長野県内総出荷量の半分を占めていました。しかしこの地域では、これほど大量の生糸は製造していません。では、なぜなのか。

和田峠を越えて、諏訪や伊那で製造された大量の生糸が信越線の田中や大屋駅に運ばれていたからです。中継地である上丸子の内国通運の帳簿がこれを証明しています。

依田川の水質の良さと運送の有利さに着目した笠原房吉は、依田社から6q下流の長瀬村の川沿いに用地を取得。信越線大屋駅は千曲川の対岸、繭の集荷にも有利な地でした。

しかし「上田町に笠原製糸を」と、常田からの強力な誘致活動。繭糸商小宮山茂衛門が提示した工場建設の好条件や信越線が上野駅までつながり上田駅の価値が高まったなどで「長瀬より常田」と判断し、明治33年(1900)竣工。創業当時から「常田館とてその下に/烟突高き製糸場/いらかは數多打ちつづき/盛りのほどぞ知られける」(明治36年刊『上田唱歌』33番)と唄われるほどの製糸場だったのです。

 

2021年5月8日号

148 常田館製糸場B 上田随一の製糸場

上田駅の近くに開業したことは物資の輸送に大変有利でした。ボイラー燃料である石炭、繭、桑などの搬入。できあがった生糸は上野駅を経て横浜港へ。大正期の工場敷地図を見ると、軌道が上田駅から製糸場構内へ延び、2つのボイラー室と倉庫へ入っています。軌道上を貨物車が走っている姿が目に浮かびます。

しかし水には大変な苦労をしたと、笠原正已社長の『思い出』(昭和45年)にあります。「千曲川の水を使用するわけにはいかず、それよりむしろ染屋、神川の高台から太陽にさらされつつ流れる小川の水の方が良かった。工場の高台に5個程の大きな貯水池を設け、その水を木管で引き使用〜数個の池は汚物を沈殿させるため〜濾過のための灰やバラスを洗浄するのは大変な仕事〜渇水期には常田池からずっと上の方まで水みちを付けに行った」(部分略記)。文章のすべては紹介できませんが、水確保のため大きな努力が必要だったことがわかります。

『思い出』を読みながら、笠原製糸がはじめは依田川沿いの長瀬村に用地を求めたわけを思い起こし、製糸にとって「水は命」を実感しました。

 

2021年5月15日号

149 常田館製糸場C 技術・研究者の育成


「創設当時、上田駅前には、家がほんの数軒あった程度で、上田駅から当工場に至る地域は一面田畑でありました」(『思い出の数々』)の通り、当時の上田地図を見ると周辺はすべて桑畑。その中で目立ったのが常田館です。

「上田唱歌」33番に「常田館とてその下に」とありましたが、何の下か。32番「権現坂に来てみれば/蚕業学校いやひろし」に続く歌詞であり、小県蚕業学校(上田東高校)の下だとわかります。

この学校が権現坂上の新校舎に移ったのも常田館創業と同じ明治33年。さらにその10年後には上田蚕糸専門学校(信州大学繊維学部)創立。常田館はこれら学校の卒業生を受け入れています。「(上田蚕糸専門学校の)第一回卒業生の伊藤競氏は当工場に入社され、長く勤続した。当時学問の教育と共に実習に重きを置かれ、製糸科の学生は数名毎年当工場に派遣され」(『思い出の数々』)と、卒業生の受け入れだけでなく蚕業教育にも貢献していたことがわかります。

実業教育は三吉米熊・針塚長太郎両校長の方針であり、丸子の依田社でも生徒の実習を受け入れていました。

 

2021年5月22日号

150 常田館製糸場D 従業員募集と繭集荷

昭和3年の従業員1248人。これは独立した製糸場としては上田小県最多の従業員数です(依田社は20余の工場を合わせて約6000人)。

県内の南・北佐久、更埴、上・下水内、県外の北上州、越後、越中富山などから働きに来ました。そのため工場内には宿舎5ヵ所、食堂、米・漬物蔵、味噌蔵がありました。

「年末閉業と同時に募集戦が行われ、正月も、元日以外休みなく、皆、各担当方面に出勤した。これは中々の大仕事であり、若し予定通り募集が出来ぬという様な事であれば操業に重大な支障を来たすので本当に真剣であった」(『思い出』)。年末年始は製糸場間の募集「戦」、募集過程の記録簿は製糸場の宝でした。

繭をいかに集荷するかも大問題。@養蚕農家を廻ってA地元の繭市場からB他地域の繭問屋やC出張取引所からD契約養蚕農家から(これが一番質の良い繭が得られる)などがあり、大量の繭を必要とする常田館では@〜Dをしました。Bでは藤岡、深谷、伊豆にまで出向き、Cでは明治40年に茨城県友部、昭和11年に群馬県新町に出張所を開設しています。

 

2021年5月29日号

151 常田館製糸場E 

繭の購入や従業員の募集などのほか、新技術を早期から導入したことも見逃せません。

大正初年の大ボイラーや新乾燥機の導入。大正6年春に12条操糸機、同年夏には20条と多条操糸機時代に素早く対応。戦後は県下のトップを切り、プリンス自動車工業の自動操糸機を導入しました。

昭和中期、上田小県地域の製糸場が消えていくなかで唯一残ったのが常田館です。昭和37年、社名を笠原工業と変更してからも製糸部門は稼働し続け、昭和天皇皇后両陛下の行幸啓。電子部・合成部・ポリッシュ部などの新事業を開始しました。

このように変化しつつある昭和59年、85年間におよぶ上田工場の製糸業はついに休止しました。

平成元年、製糸業の歴史を学ぶことができる常田館「絹の文化資料室」が開設されました。現在はこの資料室を中心に、地域の養蚕・蚕種・製糸・織物関連の実習や展示、学習活動などを幅広く展開しています。友人らとはもちろん、祖父母・父母・子の3代で訪れると話に花が咲くでしょう。世代間の交流もできるのではないでしょうか。

 

2021年6月5日号

152 小県蚕業学校 設立以前

小県蚕業学校(現上田東高校)は日本で初めての蚕業専門の中等教育機関です。明治25年に同校が開校した後、同29年から福島県、山梨県、静岡県、兵庫県、宮城県、群馬県、岩手県、京都府と次々に蚕業学校が設立されていきます。

それまでも各地に独自の蚕業教育組織はありました。長野県では蚕糸業組合が講習会を開いて蚕業教育をしていましたが、農閑期を利用し短期間で終了したため、蚕業全体について根本から学ぶことはできませんでした。たとえば蚕の大敵「微粒子病」に限定された講習会のようなものでした。

養蚕農家の後継ぎは、親からの技術習得が中心だったのです。

このような状況下、小県郡では年間を通して本格的に蚕業を学ぶ場としての学校を設立したいという機運が養蚕農家や蚕種業者らから盛り上がりました。学校設立運動の中心になったのは、秋和の蚕種業者で小県郡長になったばかりの中島精一です。郡会では関連費用をめぐり反対意見が多数を占めていましたが、塩尻の馬場歳次や丸子の工藤善助らが設立案を強く後押ししました。

 

2021年6月12日号

153 小県蚕業学校の開校

小県郡会は信濃蚕種組合(工藤善助や南條吉左衛門、佐藤群三ら)の要望も勘案し、小県蚕業学校設立案を可決。関連規則や予算案も承認、明治25年4月27日に認可されました。中島郡長が構想してから3年、校長候補も4人に絞られました。

そのうちのひとり、長野県職員である三吉米熊がヨーロッパ留学から帰朝。学校創立にあたっては校長に、と懇願された三吉は承諾。明治25年5月、上田町丸堀の民家と桑畑用地を借り、小県蚕業学校が開校しました。

「壁のおちたところを塗ったり、床を厚板で張替へたりして、一通りの修理はしたけれども普通の住宅であるから間取りも不都合」な教室でした。

当初の教職員は三吉を含めて3人、養蚕実習期間のみの実業教師が2人。生徒総数は76人で、小県出身者は20人(長野県出身者38人)と思ったより少なく、鹿児島、宮崎、福岡、佐賀、島根、広島、岡山、高知、山形、茨城などの17県から来ています。ここに「蚕都上田」の名が全国に広がるもとがあったのかもしれません。

 

2021年6月19日号

154 三吉米熊、長野県へ

「一分刈りにした坊主頭の鼻下の髯のある先生が入ってきて、いきなり『君等ァねェ、明日から硯と筆記する紙を持って来たまへ』…年長の生徒から『あれが三吉先生だ』といふ言葉がもれたので私は驚いた、何でも校長といふものは職員室の奥に納まり返って…」(百樹・花岡茂三郎『蚕業評論』三吉校長追悼号)

初代校長となり、没するまで小県蚕業学校で勤め通した三吉米熊。

父は幕末の長州長府藩士三吉愼藏。彼は鎗術の師範で乃木希典も門弟の一人でした。廃藩置県により藩主は東京住まいとなり、三吉家も藩主に随行して東京へ。米熊は駒場の勧農局農学校で学びました。明治14年に長野県勧業課へ就職、農芸化学士という立場でさっそく製糸用水の水質分析検査をしています。専門が農芸化学ですから、蚕業は学んでいませんでした。

これでは信州では通用しないと実感させられた米熊は、「小県郡塩尻村藤本善右衛門氏のもとへ毎週土曜と日曜を利用して、長野から馬車で通って蚕を習った」といわれています。その上に東京西ヶ原の伝習所でも学び直しています。

 

2021年6月26日号

155 三吉米熊の原紙検査

「小県郡長瀬村で漉いた蚕種原紙(産卵台紙)は有毒」と群馬県の勧業報告に載せられました。いわゆる「明治17年、原紙有毒事件」の始まりです。

これが事実であれば蚕種業界は大打撃を受けます。長野県は三吉米熊を長瀬村に赴かせ、検査をしました。米熊は慎重に検査を重ね、「群馬県の報告は間違いである」と結論付けました。この結果を受け国も3回の検査を行い、有毒ではないことを通達。長野県蚕糸業界は胸をなでおろしました。と同時にこの事件が長瀬村の蚕種原紙の品質の良さを全国に知らしめることとなったのです。

「三吉先生は長瀬の恩人、と古老が語っていた」と話してくださったのは信大繊維学部教授だった白井美明先生。40年前、筆者は『製糸装置工学』を著した白井先生から「製糸の機械装置と繭糸の対話」を学びました。

その折に米熊が長瀬の蚕種原紙、依田社の興隆、農商学校(現丸子修学館高校)創立に関与したことも教えていただきました。さらに「地元の恩人三吉先生に続けの思いもあって蚕業研究の道に進んだ」と。

 

2021年7月3日号

156 三吉米熊の欧州留学

「伊国…地方ニ依リ日本種ノ実蒔キ桑…栽培」。

これは米熊が政府へ提出した『伊仏両国蚕糸業取調報告書』の一節です。明治初年、蚕種だけでなく、桑木もイタリアへ渡っていますが、米熊が政府視察団の一員としてイタリア・フランスを訪れた明治22年になっても日本産の桑木が栽培されていたことがわかります。

米熊はイタリアのミラノ、トリノ、ベネチア、ローマなどの蚕糸業施設を訪れています。それぞれの地で蚕業講究所や蚕業学校に関心を示しており、帰国後に蚕業学校長を引き受ける伏線だったのかもしれません。

米熊は視察後も一人残り、留学生として両国で蚕業研究を続行。フランスのモンペリエ蚕業講究所では養蚕と経済について学び、所長とカイコノウジバエなどの検査研究を行っています。さらにリヨンの生糸検査所長からも学んでいます。

私費での2年間におよぶ留学ができたのは父愼藏からの援助があったからです。『愼藏日記』には900円にも及ぶ大金を送ったことが記されています。息子にかける父の期待の大きさがうかがえます。

 

2021年7月10日号

157 三吉米熊の帰国

「只今三吉米熊氏は工藤善助氏と共に、上り2番列車にて当停車場(上田駅)に着、出迎の有志群衆し、轟然一発祝ひの響なる煙火を打揚げ、続いて繭形2個を打揚げ」と、明治25年3月3日の『信濃毎日新聞』が報じています。

長野城山館での演説・宴会の3日後、上田に到着した米熊への歓迎ぶりがわかります。「繭形の煙火」とは愉快。歓迎講演会場の大輪寺には「祝三吉米熊君の帰国」「祈帝国蚕業之隆盛」の大幟が掲げられ、講演内容の中心は「桑の仕立方」でした(『三吉米熊先生』)。

その後も米熊は屋代、坂城、神川など「南信北信の各地に招聘され、欧州の蚕糸事情を説いて歩い」ています。講演は欧州蚕種を踏まえて日本でいかに良い蚕種を産出するか、顕微鏡での蚕病検出、の2点が中心でした。「先生を山師と罵り、顕微鏡で蚕の病気が見へる位なら、馬の顔は何の位に見へる」の罵声もあったとか。

洋行帰りの歓迎講演で常に話題に上がったのは、米熊の今後の動向でした。 県や国からの誘いもあったようですが、小県郡や周辺の郡からの強力な要請を受け、米熊は蚕業学校長となったのです。

 

2021年7月17日号

158 米熊エピソード

『三吉米熊先生』には校長と生徒の間の心温まる話が載っています。

☆蚕具消毒用の押入で松葉燻蒸しているとき。
「おい〇〇君、一寸この押入の中にある古新聞を少し出してくれ給へ」と。生徒はかしこまって押入の戸を開けると、先生は矢庭に押入の中へ押込め、戸を締切り、中で悲鳴を上げるのを面白がった。

☆実習中は学校に泊まらなければならない。佐藤君と私の番には、いつも「オイ佐藤君、花岡君と二人で柏餅を買ひに行って来給へ」と十銭銀貨を二つ渡された。実際私達は養蚕法を収めやうと思ふよりは、柏餅に釣られて居たのだった。この柏餅は初期の生徒は皆時々御馳走に預かったやうである。

以下、項目のみ紹介します。

☆子煩悩 ☆動物好き ☆銭湯道徳 ☆趣味は囲碁 ☆選挙嫌ひの先生☆書生に対する温情

☆蒐集物(盆栽・煙草パイプ・瓢箪など)

猪坂直一は「先生は天性磊落で上にゐて高ぶるといふやうなことのない性であったから、職員や生徒との間は和気藹々、時には兄弟の如く、朋友のごとくさへ見へた」と記しています。

 

2021年7月24日号

159 校舎移転―実績を上げる学校

入校する生徒の増大もあり、丸堀→新参町→権現坂→常田と校舎移転を繰り返した小県蚕業学校。

丸堀時代は民家、新参町時代は上田藩主館跡、権現坂時代は常田館製糸場の段丘上、常田時代は現上田東高校の地…。

丸堀時代のことは先に述べましたので、ここでは新参町と権現坂時代にふれます。新参町時代には帝国大学と並走して微粒子病毒の影響の研究を行っています。この研究成果により、蚕業界は大きな恩恵を受けたことはいうまでもありません。

明治33年、上田町常入権現坂上に念願の新校舎が建ちました。学校と農場を合わせた敷地は4440坪、校舎や寄宿舎ほかの建坪は1152坪。設備の整った蚕業学校で、独自の「養蚕飼育標準表」を完成させたのです。この表は、上田小県地域ではもちろん、県内外の養蚕教師や養蚕農家の手引書として後々まで利用されました。

※三吉米熊の小県蚕業学校と次回から掲載する上田蚕糸専門学校に関しては、三吉家ご当主の三吉治敬氏にご教示いただいたことがベースになっています。ありがとうございました。

 

2021年7月31日号

160 上田蚕糸専門学校設立の要望

長野県会は高等工業学校誘致を明治39年に可決。翌40年、大山知事が小県蚕業学校長・三吉米熊と県視学・与良熊太郎に設立調査を命じました。

2人は県下に電気・器械・染織・製糸に関する学校設立のための調査と実地視察を行って設立理由書を作成し、松本出身の文部次官・沢柳政太郎に打診。沢柳次官は「一見して、僕(与良)等の前にその書面を突き出し『これでは駄目である』。電気・器械の如きは長野県に限るにあらず、染織の如きは新潟・群馬に及ばず、ただ長野県に望むとしては製糸に関するものである。…世界においても未だ製糸に関する学校の設くるあるを聞かず」と話したといいます(与良熊太郎『昔の事と今の言』)。2人はこの提言を検討・再調査し成案を提出。国はこれを受け、長野県に決定しました。

創立委員は三吉米熊と文部省視学官・針塚長太郎、在京の理学博士2人。
 
委員は設立を希望する上田・松本・諏訪・長野・飯田の5候補地を調査。各地の誘致活動が盛り上がるなか、上田小県では建築費のうち10万円、経常費のうち5万円を負担することを決定します。

 

2021年8月7日号

161 上田蚕糸専門学校の設立

小県郡と上田町の費用負担の上に上田商工会議所も加わった強力な誘致活動をした結果、明治41年5月に上田町への蚕糸専門学校設立が決定しました。場所は踏入裏の現在信州大学繊維学部が建つ地に、と指定されました。報を受けた地元では用地取得が急務に。このとき小県蚕業学校長の三吉米熊や蚕種業界トップの工藤善助らが奔走し、交渉に尽力したと伝わっています。

翌年9月起工式、工費35万円で着工され、校地整備や校舎および付属施設の建設が3年継続事業と決定。

初代校長には、文部省視学官(群馬県出身)の針塚長太郎が任命されました。針塚らは急ピッチで学校の経営計画などを立案。

第1回生徒募集は明治43年12月の官報に告示され、試験は翌44年3月から4月にかけて小県蚕業学校と東京高等師範学校で実施されました。

明治44年12月の『上田蚕糸専門学校一覧』の規則に「本校本科ノ学科ヲ分チテ養蚕科、製糸科トス」とあるように、この官立学校は養蚕、製糸の2学科からスタートしたのです。

 

2021年8月14日号

162 上田蚕糸専門学校の生徒と教育内容

第一回の試験結果を見ましょう。養蚕科志願者188人中合格者47人、製糸科志願者213人中合格者43人、両科合わせて90人、うち長野県出身者は37人。官立学校ですから、全国からの生徒の方が多かったのは当然かもしれません。

「学科課程」によると両科とも「講義ノ部」と「実習ノ部」に分かれ学理と実技のそれぞれが充実した内容。たとえば養蚕科の講義は動植物・物理・気象などから養蚕・蚕種・桑樹などまでの25科目、実習は蚕児飼育・顕微鏡使用法・桑樹栽培・消毒法などから蚕具製造などまでの13科目です。

大正3年、第一回卒業生の就職先は養蚕科が学校や地方官庁、製糸科が製糸会社などでした。

大正8年には、開校当初から構想されていた絹糸紡績科が誕生して10人が入学し、昭和6年には教婦養成科を増設。今から38年前、教婦養成科を卒業した女性が「他県まで行って養蚕や製糸の指導をした」とていねいに語ってくれたことを思い出します。

昭和15年、化学繊維製造推進のため繊維化学科を設置。各科とも専門教員の確保が大変でした。

 

2021年8月21日号

163 戦時中の上田蚕糸専門学校生徒の手紙から

「…我々の蚕糸科は徴兵延期はありません故年齢に達した者はどんどん軍隊に入隊しております。我々の科からすでに八人の者を送りました。又今年徴兵検査の者が大部分であります。私は十二月四日生なので一年皆より遅れました。〇君や〇君は今年であります。〇君も確かそうであると思ひます。皆元気でやっています故、ご安心下さい。

我々も来る一月一五日より二一日までの一週間、寒稽古が始まります。又二五日より二七日間までの三日間は菅平スキー場に於いてスキー訓練があります。此の期間、心身共に鍛えて、一朝有事の際お役に立つ考えであります。私も此の一月十日を以って帝国在郷軍人になりました。国土防衛の為何時お召が来るかわかりません。大いに張り切っております。…

上田繊維専門学校蚕糸科一年、〇〇、昭和二十年一月十四日、〇〇先生」(〇印には実名が)。

これは上田蚕糸専門学校の生徒が小学校の恩師に宛てた手紙です。

昭和20年初頭の学校と社会の様子が生々しく伝わってきますので中間部を省略せず載せました(前後は略)。解説は次回に。

 

2021年8月28日号

164 戦時中の上田蚕糸専門学校生徒の手紙を解説

前回紹介した手紙で、校名が〔上田繊維専門学校〕となったことにお気づきでしょうか。これは昭和19年3月の文部省直轄学校官制改正に合わせ、就職率を上げるための校名変更だったといわれています。戦時下です。〔蚕糸〕から〔繊維〕への名称変更で就職率は上がったのでしょうか。

改正にともない同年4月、養蚕科・製糸科を統合して〔蚕糸科〕としました。これが手紙にある蚕糸科です。官立学校でも「どんどん軍隊」へとられていきます。軍事鍛錬のための寒稽古(手紙の主は剣道)や菅平高原でのスキー合宿。これは昭和14年に満州などに生徒の一部が派遣された経験から考えられた鍛錬だったのでしょう。厳寒地帯での戦闘に備えるための「菅平」です。

激化する戦争にともなう学徒戦時動員体制が強化されるなかでの生徒の「国土防衛の為何時お召が来るかわかりません。大いに張り切っております」に心が痛みます。

戦時中の「蚕専」について話してくださった故Y氏は「学校でもっと勉強したかった」とつぶやいていました。

 

2021年9月4日号

165  「蚕専」卒業生の戦後

新学制がはじまり「蚕専」は単科大学への道を探りますが昭和24年5月の大学設置委員会において総合大学の一学部となることが妥当とされ「信州大学繊維学部」となりました。戦中戦後にかけての卒業生はどんな道をたどったのでしょう。

A氏は名古屋の繊維関連企業へ。B氏は長野県で高校の教師に。C氏は神奈川県の蚕業試験場へ、D氏は地元上田で行政書士に、E氏は東京で起業し商事会社を(以上は故B氏からの情報)。養蚕繊維関係だけでなく一人ひとりがさまざまな道を歩んだことにびっくり。

B氏は次のように語っていました。

「蚕糸科を卒業。思わしい就職先がなく、実家で養蚕をした。一時繭の値が高騰、これでやっていけるかと思ったが、中国繭などに押されて先が見通せなくなり養蚕を断念。そんなとき友だちから誘われ教員採用試験を受験して合格し、県内の高校に勤務。理科の教師として定年まで勤めた。蚕専が懐かしい」。

採話中、B氏に「阿部さんは繊維学部出かい」と尋ねられ「違います」と答えると、「もっと養蚕製糸を学べよ」と励まされました。

 

2021年9月11日号

166 澁澤栄一と小県を結んだ藍と蚕@

「製藍養蚕」という言葉が澁澤栄一の『青淵百話』にあります。藍作と養蚕をすることです。

これは栄一の生まれた武州血洗島だけのことではなく、幕末明治期の上田小県の村々でも「製藍養蚕」をしていました。

上丸子の高名な俳人伊藤松宇家は古くから養蚕のほかに染料に使う藍の栽培と藍玉の集荷をしていました。澁澤栄一家は「上田小県に50軒ほどの藍玉の取引先を持っていた」といいますから、この地域には伊藤家のような農家が点在していたと思われます。

では、澁澤家の得意先50余軒はどの村にあったのでしょう。

小泉・神畑・上丸子・飯沼・尾野山・房山・矢澤村の家では確認。上田城下の紺屋町ではどうだったのでしょう。同町の数軒を調査、どの家も「幕末明治期に紺屋をやめ、蚕種屋になったころに紺屋の史料は処分した」とのこと。しかし、幕末明治期の上田小県の村々や紺屋町には多くの紺屋や藍玉商があったわけですから、悉皆調査をすると前述した家々以外からも澁澤家と藍取引していた史料が見つかるかもしれません。

 

2021年9月18日号

167 澁澤栄一と小県を結んだ藍と蚕A

信州国際音楽村がある丸子尾野山発刊の『尾野山の歩み』を見ましょう。 安政5年(1858)、「此年より4か年、澁澤栄一アユ(藍)玉を小県地方に駄馬で運び売りに来た。この時の通帳、矢澤・丸子・神畑・中之条等に残る。当地の滝澤茂重方にも来た」とあります。滝澤茂重家には現在も万延元年の「藍玉通」が。さらに尾野山段丘下の飯沼にも栄一が来たと伝わっています。

上丸子の伊藤家などと佐久での情報を合わせると、栄一が通ったと思われる一つのルートが浮かび上がります。

佐久の芦田→小県の長窪古町→腰越→上丸子→飯沼→尾野山→須川→神畑→中之条…依田川を腰越上方の浅瀬で渡ると千曲川を渡らなくてすむので、藍玉を積んだ駄馬を引きやすくなります。

ほかに、幕末も利用されていた旧鎌倉街道=御岳堂から砂原峠を越えて塩田平へ、の道もあったのでしょう。

では、千曲川右岸の矢澤や上田町へはどの道を通ったのでしょう。皆さんが調査すると「我家の前を栄一が通った」ことを発見できるかもしれません。

 
 
 
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