2005年10月15日号
1 はじめに―連載をスタートするにあたって
 何年か前に『鐵(くろがね)』や『信濃の名刀探訪』を著した、元長野県県会議員の大谷秀志さんから『鐵』の続きを是非やってほしいと言われた。『鐵』の内容は郷土への回想と鉄文化の探求であるが、興味を引くことは、天狗や鬼は産鉄民と深い関わりがあると言及されていることである。そして、古代の鉄の文化を求めるとき、日本語だけに固執していては自ずと見えてくるものに限界があると感じておられた。大谷さんは今年の夏、病を得て9月末に亡くなられた。本稿を一度も見ていただくことのなかったことはとても残念である。ご冥福をお祈りする。
 さて、長野市には「渡来の文化を知る会」がある。会長は工学博士でもあり善光寺玄証院の住職でもある福島貴和さんである。福島さんは、平成14年に善光寺仏を造られ、韓国の扶余市内にある朝王様寺に納めるという活動もなさっている。また最近は「地名と鉄」の関係を追求され、県内に残る渡来の足跡を辿ったりもする。そうした福島さんの姿に感動するのは、小諸市在住の今井泰男さん。『信濃の鉄』の著者でもある。今井さんは筆者に「渡来の文化を知る会」を見守ってほしいと言われたが、筆者にできることといったら、
渡来人の足跡を求めご一緒することぐらいであろう。
 さて、「信濃の鉄ものがたり」の連載中、「おはなしの解説」には必ず古代の韓国語が登場するが、それらは韓国在住の文学者、李寧熙(イヨンヒ)先生の研究によるものであることを記しておきたい。李先生は古代韓国の方言にも詳しく、古代韓国語が日本語に成り変る時の法則も見つけられた。その法則が語源をたどる時に発揮される。長いこと意味不明とされる言葉が、真の意味をもって目前に表れた時の感激をご一緒できれば幸せである。
 
2005年10月22日号
2 「クワバラ・桑原」
 昔、桑原の街道端の天神さまの境内に白梅の古木があった。春も浅いうちから、あっちの枝に一輪、こっちの枝に一輪咲いてくれるもので、旅人や村人の目を楽しませてくれていた。
 ある年の夏のこと、大夕立があったんだと。ちょうどそのとき、桑原の近郷近在を治めている桑原左近将監さまというお方が、天神さまのお宮の軒を借りて雨やどりをしていたそうな。
 将監さまの目の前にある梅の木に、ビリビリーンとすごい音をたて雷が落ちたそうな。剣術にたけた将監さまでも思わず耳をおおい目をつぶってしもうた。ふっとわれにかえって梅の木を見ると木はまっぷたつにさけ痛々しかったと。「ほーっ」と大きいため息をつき木の根元を見ると、なんと、雷の子どもがちょこんと立っておったと。頭には角を一本生やし、腰にはトラの毛皮を巻いていた。
「ややっ。雷の子めっ。天神さまのだいじな梅の木にふらちをはたらいたな。もうゆるせん」
と、別の梅の木に雷の子どもをしばりつけてしまった。
 天神さまの境内に、雷の子どもが生け捕りにされたことはすぐに街道中に広まり、大ぜいの村の衆が見物にやってきたと。
「へぇっ。子どもなのに、龍のようなひげがあるんだ」
「毛皮の腰みのなんかしちゃってさ」
などと言われじろじろ見られるもんで雷の子はせつなくなって
「もう、桑原へはけっして落ちないのでお許しください。どうか、お許しを」
涙をためて言うもんで、将監さまはもうらしく思い雷の子どもの縄をといてやったそうな。
 それからというもの雷が鳴るたび「ここは桑原、桑原じゃ」「クワバラ、クワバラ」と、まじないのようにとなえると、不思議にも雷は落ちなかったという。
 
2005年10月29日号
3 「クワバラ・桑原」 おはなしの解説@
 かつて、雷がゴロピカ鳴り始めると田畑にいる人々は一斉に鎌や鍬を草むらにしまい「クワバラ、クワバラ」と唱えながら、家路を急いだものであった。「クワバラ、クワバラ」は落雷除けの呪いとされているが、利き目はあるのか無いのかわからないが、とにもかくにも、この呪文を唱えた。
 この呪文、韓国語の「グバ・バァラ」から生れたと『フシギナ日本語』の著者李寧熙さんは言う。「グバ」は(お察し)、バァラは(下され)で「どうかお許し下され、お察し下され」と命乞いの意味が桑原の字の意に結びつけて生れたという。
 さて、桑原にはもうひとつの意味がある。「(鉄を)焼く野原」を指すそうだ。
なるほど、旧更埴市遺跡分布図を見ていたら、桑原大田原の高地に奈良時代の須恵器窯址と製鉄址があった。強粘土地区だけに須恵器製作は可能だ。近くでは山鉄も採れた。そこで、桑原=(鉄を)焼く野原、になるのか考察してみようと思う。
 なぜ天神さまと雷は関係があるのだろうか。天神さまは今日学問の神さまとして崇められているが、菅原道真公の出自は製鉄関係の家系ではなかったか、と言われている。漢字の音・訓から生じる音声を借り語源をたどると、スガ=鉄磨ぎ、ワラ=野原とすると、菅原=鉄磨ぎの野原となる。
 雷が鳴り響けば、必ずといっていいほど大雨となる。地質のもろい山は崩れ、土砂が押し流される。その土砂の中には鉄の材料が含まれている。そうなれば川下で天神さまの一族が土砂の中から恵の鉄を拾い、鉄を吹いたのではないかと推理する。表題の伝承地、桑原の背後には佐野山が伏す。この佐野山こそ鉄の山で、古いカーナビにはちゃんと「たたら山」の表示が出る。そのことを実証するかのように、佐野川の川床は赤褐色である。
 
2005年11月5日号
4 「クワバラ・桑原」 おはなしの解説A
 佐野川は魚の棲(す)まない酸性の川で微(かす)かにしぶい味がする(上流ではサンショウウオが棲むそうである)。かつてこの地は褐鉄鉱による鉱毒汚染との戦いがあった。水田の耕土の下には黒褐色の砂層があり、その中に高師小僧という太さ1〜2cm、長さ2〜10cmほどのもろい同筒状の固まりがあり稲の生育に障害を与えた。今は工夫により鉱毒の心配はないが、この高師小僧こそ古代の製鉄の原料なのである。この高師小僧は質のあまりよくない褐鉄鉱で、形が現在まで残らない露天たたらで製鉄し、吹子(ふいご)はおそらく自然の谷風であったやもしれない。
 石のナイフや木の鍬を使って稲作をしていた時代のある時、鉄器の鎌や鍬が出現し、稲作をより急速に進歩させていった。
「鉄を制する者は天下をも制する」と言われた時代もある。多くの古墳で、主の眠るかたわらの副葬品の中に刀や刀子(とうす)、馬具類の鉄器があるが、それらは古墳主の権力の象徴でもある。
 また、桑原には治田(はたの)神社がある。保食神、建南方命、八坂斗売命と、製鉄の神々が並ぶ。「延喜式」の神明帳の中に「治田神社」として見えるというからその歴史は古く、ひょっとしたら渡来系の人々がお祭りしていた神社であろうか。稲作や製鉄、養蚕の技術は朝鮮半島からの渡来の人々がたずさえてきたというではないか。近くの郡(こおり)地区には本八幡がある。昔はそこに清水が湧いていて、その清水で糸をとると、いい糸がとれたそうな。八幡さまが渡来神であることを暗示している伝承である。武水別神社(八幡さま)の祭神のお一人に誉田別尊がおられるが、「ホムダ」はフイゴの地と解けるそうである。八幡さまは海の神さまとも言う。「八」は今回割愛するが「幡」は「パタ」と発声し海の意味であるそうな。
 
2005年11月12日号
5 「クワバラ・桑原」 おはなしの解説B
 地名は生来の意味を残しているものも多い。桑原はもとより吹上、芝山、志川、火打、笹焼などは鉄処の地名と考える。そこで特筆したいのは「姨捨」である。『大和物語』にもある棄老伝説や建部大垣という人物が親孝行し、ごほうびを頂いたからでもないと考える。
 李寧熙さんの説によると「おば」は「ウッパ」と発声し、たたいてとかひっくり返す、「すて」は「ステ」で古いの意であるそうな。「ステ」の意を知った瞬間、気になっていた「おばすて」の語源が(鉄の再生)と解けた。
「姨捨」は万葉かな的表記である。鍛冶は老練な技術と深い智恵が必要であるし、大切な鉄の外部持ち出しの禁じ囲いのある施設が想像される。
 ついでに姨捨から4kmほど行った長野市塩崎の長谷寺は真言宗の古刹で、寺の裏山から仁平元年の銘のある金銅経筒が出土している。長谷は初瀬、泊瀬とも表記された。「はつせ」の語源は古代韓国語の「バトセ」で「バト」とは「漉す」「すくう」の意があり「セ」は「鉄」のこと。はつせ=鉄漉し(すくい)となるそうである。
 また、冠着山から流れ出る湯沢川の途中に鑪口の地名があり、湯沢川が千曲川に注ぐ近くには須坂(鉄混ぜと解ける)の地名がある。鉄の文化を追求していた『鐵』著者の大谷秀志さんが眠る地でもある。
 古代の歴史をさぐれば、必ずといっていいほど鉄の文化にぶち当る。冠着から長谷寺までの山脈は、かつて名だたる「鉄焼きの野原」ではなかったろうか。
 余談になるが、群馬の雷は天地が裂けんばかりのすごさだそうな。そのせいかどうか、雷神社や雷電神社がやたら目につく。上州名物は「かかあ天下とからっ風」だが、「ゴロピカリ」という銘柄米もある。
 
 
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