2006年10月28日号
53  巨人伝説 @
 巨人伝説を語るに当り、2つのことをお断りしておきたい。
○合併により市町村名の変更がある場合は旧のままで記す。
○語られた場所が現在失われていても出典に記された当時のままで、また現在の姿がわかっているものについてはその都度記す。( )内は伝承地である。

@「のたすり」と呼ばれる山の上にある、深さ3〜4尺(約90〜120p)の窪地は、デーランボーの足跡だといわれている。(上田市室賀入組。「のたすり」という不思議な山名の由来は不明であるが、この地区で2番目に高い山であるとは、入組の西沢澄男さん=64歳のお話である)

Aデーランボーが背負ってきた土の塊を置いたのが夫神嶽で、手に乗せてきたのをそばに置いたら女神嶽になったと。また、デーランボーの足跡は別所の安楽寺峠の上にあったそうな。それからデーランボーは西塩田の前山をまたいで東へ行ったんですって。(上田市越戸西沢)

B野倉の後沢にデーランボーの左足跡が、豆石には右の足跡があり、ともに西を向いているという。その間は約1500mだそうで、運んできた土の塊をざらざらっとこぼしたものが中塩田の舞田山で、袂から落ちたのが夫神嶽になったそうな。(上田市塩田の野倉。舞田山の所在がわからなくて困っていたら、保屋野満さん=72歳が即座に教えてくださった。舞田山の峠を越えれば浦里だそうな)

C青木村当郷にあるデーラボッチの足跡は東筑摩郡との境にあり、260mほどで芝が生えているそうな。(青木村当郷)

D足跡池(あしのといけ)は元はダイダラボッチの足の跡で、天然の水溜りを戦国時代に拡張し、貯水池としたそうな。(上山田町漆原)
 
2006年11月4日号
54  巨人伝説 A
E昔、デーランボーという大きな人がいたそうな。なんと、浅間山から一足で御代田町の大沼に来て、二足目は浅科村下原の大原に来たそうな。三足目は蓼科山の麓の三つ足に下ろし、四足目には蓼科山にとどいたんですって。
 デーランボーは、ふっと下を見ると大きな湖があるので、蓼科山を持っていって埋めようと、山をもっこに入れて担ぎ上げたんだが、あんまり重いので、両足が土の中にめり込んでしまい、そこに、深い二つの大穴ができたそうな。その穴にいつしか水が溜まって池になったと。それが、双子池なのだそうだ。(浅科村五郎兵衛新田)

F小諸市の御牧原にデーラボッチの左の足跡といわれる所がある。その跡に水が溜まるようにと堤を作ったが水もちが良くなかったとかで、湿地になっているそうな。また右の足跡は北御牧村の四ッ京にあったといわれている。(小諸市川辺)

G昔、でえら坊が岩石や土塊を背負って来たんだが、あまりの重さに絶えかねてかしらん、縄が切れて、あっとゆう間に土石が落ちてしまったんですと。その時出来たのが御嶽堂の城山で、また、引掛け背負いして来た持篭の縄が切れ、土塊が落ちて出来た山が尾野山だそうな。で、でえら坊の足跡も4ヵ所残っているんですって。一つ目は依田川沿いに、二つ目は御嶽堂字岩谷堂の岩壁の近くに、爪先は北を向いているそうな。三つ目は尾野山の一本木と大平にあって湿地になっているとか。四つ目は塩川の太鼓岩で、元は大きかったというが、現在は水田だけれど小さな池の時代もあり、周囲には水草が生えていたそうな。この四つ目の足跡は、でえら坊が尾野山から来た時の足跡なんですって、でえら坊は東に向ってたのね。(丸子町)
 
2006年11月11日号
55  巨人伝説 おはなしの解説@
 主に東日本に伝承されている巨人伝説の主役名は、デラボッチ・デーダラボッチ・デーダラブッチ・デーラボッチャ・デーランボー・ダイダラボウ・ダイダラボッチャ・でえら坊・大座法師と沢山の呼名がある。
 そして、その仕事といえば、山を造り、足跡を残す。その足跡には水が溜り、池になったり、湿地となっているというのが短いお話の主な内容である。
「おはなし」に登場した伝承地は収集した中の、ほんのわずかなものである。北信では、中条村・信州新町
・長野市上ヶ屋軍足・飯縄高原。東信は佐久市大沢・安原・岸野・小諸市山浦・軽井沢町・川上村居倉。中信では池田町堀之内・美麻村青具・四賀村会吉・大町市東山・三日町・生坂村下生野・小立野・明科町宮本・中条・梓川村下角・三郷村小倉・中萱・松本市中山・島内・洞・埴原・朝日村古見・塩尻市洗馬芦ノ田
・床尾。南信では下諏訪町・茅野市・下伊那郡にもあるという。
 こんなにも、方々に巨人伝説が伝承されているのが驚きである。
 さて、「芋井」の語源を古代韓国に求め「聖なる山」と解いた山口義孝さんに、「デーダラボッチ」を部分的に解いて見ていただいたことがある。すかさず「王者」と解いてくださったが、なぜか、胸にしっくりこないまま月日を過ごした。
 ある時、沢山ある名前のうち、理由もないのに一つだけの名にこだわっているのに気づいた。
 松本・塩尻地方でよく語られる、 「デラボッチ」の読みにかかった。
 意味不明な日本語は古代韓国語に当てはめてみる。するときちっとした意味があぶり出されることは、すでに沢山の経験がある。
 まず、「デ」と書いてみる。わくわくする瞬間だ。
 
2006年11月18日号
56  巨人伝説 おはなしの解説A
「デ」の音を漢字の「大」に当ててみる。デラボッチはどこの地域でも大男だと伝承されているからである。それに韓国語で「大」は「デ」と発声する。
 次に「ラ」の古代韓国語の酷似音「国」をあらわす「ラ」に当てた。なぜならば、デラボッチは土を運ぶ。こぼれた土が山になる、と伝承されている。つまり、国造りを意味するのではないかと考えるのである。
 さぁ、最後は「ボッチ」である。「チ」だけは何年も前に「貴人・王・男・男根」などをあらわす「チ」であろうと想像はついていた。デラボッチが女性だと思われる伝承は皆無だからである。じゃあ、「ボッ」って、どんな意味? と、さんざ考えた。ひょっとしたら、訛っている可能性があるかもしれないと、考えを新たにした。李寧熙後援会報の中で、「モッは『沢』の古語。現代語では『池』を指す」という表記に出合った。また、「モッがムに転音している」ともある。その刹那「ボッ」は「モッまたはム」が変化したものかもしれないと直感した。デラボッチの残した足跡の大方は池になったり、湿地になっていると話者は伝えているではないか。
 まとめてみよう、「デ」は「大」「ラ」は「国」「ボッ=モッ・ム」は「沢」「チ」は「貴人・王」となり、デラボッチ(モッチ・ムッチ)=大国の沢王と、すごい答えが出た。
 国つ神の大国主命は大穴牟遅(おほなむち・大己貴とも大穴持とも表記される)とも呼ばれ「大国」「大穴」は同義だそうである。しかも、古代韓国語で「大国の沢王」を意味する。デラボッチ(デラモッチ・デラムチ)=大国の澤王=大穴牟遅の図式が出来上がったのである。
 デラボッチの音声を古代韓国語から借り論証したらそうなった。偶然の一致である。
 
2006年11月25日号
57  巨人伝説 おはなしの解説B
 大国の沢王は、稲の神であり鉄の神でもあったそうな。稲作の初発期、沼沢や湿地を利用して稲作が行われた、鉄もまた沢から採れた。湿地に生える薦・葦・茅等の禾科の植物の根にとりついた、やわらかい褐鉄鉱を自然の風を利用した露天たたらで鍛造したであろうといわれている。沢は原初の稲作や製鉄に欠くことのできない場所である。その沢を支配できる者、それこそ沢王なのである。
 上田市と東御市にまたがる殿城山の西と南西山麓は湧水が豊かで、古くからこの水を利用して沢に水田が開けた。特に稲倉の棚田は「日本の棚田百選」にも選ばれているほどである。標高640m〜900mで棚田の脇を稲倉川が流れ下る。
 沢王の墳墓かと思われる古墳が稲倉の棚田に数ヵ所ある。それから稲倉川下流の行沢川(氷沢集落の下から稲倉川が行沢川と名称が変わる=柴崎義和さん・65歳談)のほとりには円墳もある。また、赤坂には将軍塚がある。
 名棚田と銘打たずとも上信越自動車道の豊田・飯山ICのほんの少し前の谷合いに、ほれぼれするほどの棚田がある。あっ、という間に通過する場所である。その棚田の多くは、自動車道の建設で失われたであろう。
 小諸市の浅間サンライン沿の滝原区の下三ッ久保、上三ッ久保の棚田も実に美しい。農道が舗装してあったので舗場整備が行われたのかしらん、と思っていたが、柳沢茂清さん(78歳)は昔のままの姿ですといっておられた。姿の美しい棚田を守るのも、筆舌に尽くし難いご苦労がある。千年以上の歴史ある棚田を守るのに「オーナー制度」を導入したり、「案山子(かかし)まつり」をしたり、さまざまな努力をなさっている。古代の沢王は、こうした時世が来るとは考えてもいなかったであろう。
 
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