2006年12月2日号
58  鍛冶屋と寺の不思議 @

 鎌倉時代のこと。鎌倉に流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かけがさ)の射手で達人といわれた海野幸氏というお方がおった。そりゃあ、名人といわれるだけあって、馬を疾風のように走らせ次々と矢をつがえて放つ姿のまた美しいこと。将軍頼朝公のお気に入りであったそうな。
 また、幸氏は弓馬の術にたけていたところから、将軍の狩のお供にもよく出掛けられたんですと。身を重くしていただいたことがとっても嬉しかったのね。
 ある時、幸氏は将軍へのお礼の気持もあって、信濃のふるさとの優れた鍛冶師たちを鎌倉に連れて行ったんですって。武器の修理をしてもらうためにかしらんね。で、鍛冶師の里では鍛冶屋が一軒きりになってしまったそうな。
 さて、鍛冶師の里だが、今の上田市小井田の上の原の辺りである。
 腕のいい鍛冶師たちが鎌倉に行きっきりとなり、一軒きりになった鍛冶屋が細々と仕事をしていた。
 その日も朝早くから火を起こし、トンテンカン、トンテンカッカと農具に槌を当てていた。すると、表の戸がちょこっと開いて、
「お頼み申す」と男の子が顔をのぞかせた。
「なんだやぁ」
「あのぅ、わしを弟子にしてくだされ」
と、いうではないか、
「あぁ、弟子などいらん、仕事はわし一人で間に合っとる」
「へーい」
と男の子は素直に戸を締めたので、鍛冶屋はあきらめたものと思っていたら、まぁ、次の日もまたやってきて同じことをいう。そうしたやりとりが何回もあって、鍛冶屋はとうとう根負けして
「よし、小僧。鍛冶場の仕事はきついぞ。それでもいいかっ」
と、弟子入りを許すと、男の子は嬉しそうに笑った。

 
2006年12月9日号
59  鍛冶屋と寺の不思議 A

 鍛冶屋が根負けして弟子にした男の子は、なかなか気はきくし、物覚えはいいし、師匠の鍛冶屋は時々やりこめられるようなことがあった。
 ある朝のこと、何気なく裏の丘のお寺を見ると、すきとおったいい声でお経を読む声が聞こえてきた。
「あれ? おらうちにいる小僧の声とよく似ている」
と、寺に行き本堂をのぞいて、たまげた、たまげた。おしょうさまもおよばぬいい声で読経するのは鍛冶屋の弟子であった。
 その晩、弟子が眠ってからそっと奥の部屋をのぞくと、体から光がさしているように見えた。
「小僧は何者だらず、へぇ気味の悪りぃことだ」
鍛冶屋は背中がぞくっとして寒気が立った。
 翌朝、おしょうさまが鍛冶屋を訪ねて来て、突然声を上げた。
「鍛冶屋さん、お顔に死相が出てますよ。なにか、変わったことがありやしたかな」
「おしょうさま、実は、小僧が、ぜひ、弟子にしてくれつぅもんで弟子にしたら何をやらせても、わしより上手で、へぇ、わしゃ、だめでごわす。ご祈祷してもらわずと思って、お寺に伺うつもりでおりやした」
「そうでごわしたか。実はその話の小僧でごわすが、寺にも来やして、小僧にしてくれっていうもんで小僧にしたんですが、わしよりいい声でお経を読むんでたまげてしまいましてな」
 二人は、変霊にとりつかれたのではないかとか話したが、小僧に出て行ってもらう名案も浮かばなかった。で、この地を去るしかないと、鍛冶屋は今の東御市和に行き、たたら堂の地名を残し、おしょうさまは小井田に下り龍法寺を建てた。
 小僧はといえば、一人残って、鍛冶屋の槌音をたてたり、すきとおるいい声でお経を読んでおったそうな。

 
2006年12月16日号
60  鍛冶屋と寺の不思議 おはなしの解説@

 お話には後話があって、寺や鍛冶屋の小僧になったのは狐であったそうな。鍛冶師が他出しても寺が里に下っても、槌音をたて、おしょうさんのまねをして鐘を鳴らしていた。が、だんだん下に下って古木に宿り念仏を唱えているので、村の衆は気味悪がった。龍法寺のおしょうさまに念仏祈祷してもらったところ悪霊が退散したので、この木の下が踊り念仏の道場となったそうな。何代目かの樹が枯れた時「念佛古木跡」の石碑が建てられたという。
 このお話は『信仰と伝説』(豊殿郷土史研究会)にあった。そして、民話や伝説特有のつじつまの合わなさもあった。なぜ鍛冶屋は、おしょうさまは小僧の優れた資質を素直に喜ばなかったのかしらん。優れた者への恐れ、妬み、そねみの心情があったのかなぁ。もし、タイムスリップできるならば、お二人にその辺をお聞きしてみたいものだ。取材をする筆者を、可愛小僧(狐)が林の中から見ていて、メモを取っているかもしれないねぇ。
 さて、このお話の鍛冶屋が住んでいた所の字名を鍛冶窪という、と『信仰と伝説』に載っていたので訪ね歩いた。「念佛古木跡」の碑は小井田の蚕影神社参道脇にあったので、見つけることができた。鍛冶窪は多分、蚕影さんの後方かと思われたが、なかなか、地字を知る人に出会えなかった。諦めかけた時、中村和夫さん(85歳)に出会った。鍛冶窪は知らないが、蚕影さんの上の方に鍛冶屋敷の地名があるという。しかも前出の本の編集をした宮下昌太郎さんのご子息、道順さん(85歳)を紹介してくださった。例の地字をお尋ねすると、ほ場整備があったので、この場所だとはいえないけれど、窪地の鍛冶屋敷といわれる所が確かにあったと、しっかりした口調で答えてくださった。

 
2006年12月23日号
61  鍛冶屋と寺の不思議 おはなしの解説A

『信仰と伝説』の冊子に出合えたことは、筆舌に尽し難いほどの嬉しさであった。
 東御市の武舎秀雄さんから、表題のおよそのお話をお聞きした。また、五十嵐幹雄さんから、お気持ちよくご本がお借りできるまでの労をお取りくださった。ありがたくて、嬉しくて、思わず、重い身をドスドスと音を響かせ跳ねてしまったのである。
 さて、今年の7月の末に東御市の関貢さん(85歳)から、当地田沢にもたたら(鑪鞴)堂の地名があるのでお出掛けくださいとのお話があった。
 前から興味ある地名であったし、鉄滓(金クソ)が出たとも風聞しているので、訪れたい地ではあった。
 関さんの細やかな計画とみごとな運転で、田沢地区を案内していただいた。
 そもそも田沢は、烏帽子岳の南側の谷口にあり、金原川、成沢川の上流部の扇状地にある。地区には古墳終末期の児玉山古墳群がある。武舎さんのお話によれば、かつてたたら堂から和(かのう)小学校へ行く途中にも、数えきれないほどの古墳があったそうで、直刀の出土もあったという歴史ある地である。
 さてさて、表題の中の鍛冶屋が落ち着いた先が、今のたたら堂だとの伝承がある。またそこは成沢川のほとり近くで小金屋敷の地字を持ち、約100坪(330平方m)ほどの畑地であったそうな(地主の桜井家談)。今は原野化して、その地に足を踏み入れることは出来ないのである。
「芋井散歩」でも「たたら」のことを書いたが、もう一度、「たたら」という言葉を確認してみたい。
「たたら」とは、製鉄の溶鉄炉のことで、古代韓国語の「ダルダラ(最高に熱する)」が語源である。
 小井田の伝説によれば、信濃の鍛冶師団の最後の一人がたたら堂に来ている。

 
2007年1月1日号
62  鍛冶屋と寺の不思議 おはなしの解説B

 たたら堂では古くから「たたら」が行われていたのだろうか。ひょっとしたら、それを慕って小井田の鍛冶師がやって来たとも考えられるが、それについての資料がないので推測の域を出ないのだが、金原川、成沢川の砂鉄量は多い。
 驚いたことに関さんの畑の土(山砂のようにさらりとしている)の砂鉄量も、実に多いのである。古代から近世まで、いくたびかの山の押し出しで土が堆積したであろうことを物語っている。
 1977年にたたら堂の鉄滓(てっさい)の化学分析が新日鉄君津製作所で行われた。研究者は冶金滓のおもむきがあるとも、また、砂鉄の可能性も考えられると言うが、結論は出ていない。
 たたら堂の地名は、承応3年(1654)の東田沢田畑貫高御改帳に「たたらど」とあるそうである。漢字で書けば鑪鞴堂。「鑪」一字でたたらと読む。「鞴」はふいごと読むが、どうして二字合わせて「たたら」と読ませたのだろうか。たたらにはふいごが絶対不可欠な物であるが、もしかしたら、意味のとらえ方に混乱があったのかもしれない。ついでに鞴の語源は古代韓国語のブルイゴヲで火をおこす(もの)の意であると李先生は解読されている。
「堂」は、小金屋敷からほど近い所に千手観音をお祭りする観音堂があるので、そこから取ったというのが地元では定説になっている。
 また小金屋敷の辺りは小金沢ともいうそうで、筆者は、この小金沢を小鉄沢と考える。小鉄とは砂鉄のことである。砂鉄量の多い成沢川の沢すじの地名にぴったりだと思っている。
 発掘が行われていないので、この地が小鍛冶であったのか、はたまた「たたら」の地名通りの製鉄の地であったのかは不明であるが、双方に必要な炭材が近間で入手できるのは強みである。

 
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