2007年1月13日号
63 天狗話4つ 藤と天狗さま

 このお話は塩尻市洗馬の芦野田・元町両区の産土(うぶすな)、槻井泉八幡神社の藤にまつわるものである。
 昔々、産土さまの大藤が大杉に絡んでいたそうな。
 春になりゃ、紫色の長ーい房を下げ、そりゃあ、見ごとなまでの咲きっぷりだそうな。
 そんなみごとさにひかれて、式右エ門さとこの子守り娘が大藤の下にきて
「わあっ。なんていいにおいっ。それにいい色合いだこと」
と、うっとりと藤の花を見上げていたかと思ったら、ぞうりをぬいで木にかき登り、何本かの花房を採ってしまったんですと。
 さぁ、その晩から娘は高い熱にうなされ続けた。ちょうどその頃は野良仕事の忙しいさなかで、娘の看病もしてやれなかった。せめてもと
「おとなしく寝てろよ」
と言い残して出掛けるのが精いっぱいであった。
 娘がうつらうつらしていると
「これこれ、ちょいと起きなされ」
と、声がした。娘がぼんやり目を開けると、白い長い髭に高い赤鼻のおじいさんが立っていた。くぼんだ目をしていたし、おっかねぇ人だと思ったけれど、やさし気な声だったんで、ちょっとばかし安気になった。
「この水を飲むとじきに熱が下がるぞえ、それから、あの藤の花を2度と採るではないぞよ」
と、いうと、瓦笥(かわらけ)にきれいな水を残し、あっ、という間に姿を消してしまったんですと。
 娘は夢かな、って思ったんだけど、素直にその清水を飲むと、たちまち熱が下がって達者になったそうな。
 その話を聞いた衆は、くちぐちに「そりゃ、お天狗さまに違げえねぇ」といったそうな。

 
2007年1月20日号
64 天狗話4つ 天狗の隠れみの

 冠着山の麓の麻績村から大岡村に通じる野間というところに天狗松と呼ばれる大きな松の木があったそうな。この木は、天狗がここを通るとき腰かけて休むんだそうだ。
 この村に、怠け者で毎日ぶらぶら遊んでばかりいる若い男がいたそうな。
 ある日のこと、男は天狗松の下でさいころをころがしながら、
「おっ、大阪が見えた。今度は京都だっ」
と大声で騒ぎながら遊んでいた。と、ちょうどその時天狗が松の梢で休んでいた。
「これっ、お若いの。お前さんは変な物をころがして、大阪が見えるだの京都が見えるだのいっとるが、ふんとに見えるだかやあ」
と声を掛けてきた。
「あぁ、ふんとさ」
「じゃあ、わしにも見せてくれや」
「だめだめ、おらの宝物だものむやみに貸せねぇさ」
「それじゃ、わしの一番大事な、姿の見えなくなる隠れみのとさいころを、ちっとの間換えるというのはどうかな」
男はしめたっ、と思い、天狗の隠れみのとさいころを換えっこし、さっさと村に帰っていった。
 一方、喜んで山のすみかに帰った天狗、大阪や京都を見ようとしてさいころをころがしても何んにも見えない。ギェ、こりゃだまされたと天狗は赤い顔をさらに赤くして男の村に飛んでいった。けどねぇ、いくら探しても男は見つからなかったの。そりゃそうよね、隠れみのを着てるんだもの姿が見つからないはず。
 一方、天狗の隠れみのをだまし取った男は、おっかさんも目を見張るほどの働き者になり、孝行息子になった。おっかさんが起きるころにゃあ、ほっかほっかの飯がもう炊けているという具合だ。

 
2007年1月27日号
65 天狗話4つ 天狗3兄弟・天狗の枝垂栗

 近所で病人が出ると、なんと枕元には良薬が置かれていたり、貧しい家にはお金や米が配られるようになった。ところが、評判の悪い庄屋の屋敷では不思議なことが次々と起こっていた。炊きたての飯はなくなるし、蔵の米や、はたまたお金までもが毎日盗まれるのだ。寝ずの番をしてもむだであった。
 天狗の隠れみのを着た男の仕業なのかしらん。そうしたことは村の衆は知らず仕舞だったということだが、天狗松は村人から、ずっと大切にされていたそうな。

 天狗3兄弟
 昔、上山田町力石と坂城との境に自在坊があって、そこに山伏の首長級の3兄弟が住んで天狗に仕えていたそうな。自在坊で、熊野権現を拝し、加持祈祷を生業としていたんですと。
 ある時、千曲川の大水にあって3人の山伏はちりぢりになってしまった。一番上の兄さんは戸倉の自在山へ、二番目の兄さんは松代の皆神山へ、末の弟は力石の岩井堂に移り住み、厳しい修行を積みながら、民人のために加持祈祷を行っていたそうな。
 民人たちはその徳を慕って天狗として祀ったそうな。

 天狗の枝垂栗
 塩尻市北小野の秋の山にはいろいろな実がなる。なかでも栗は大人にも子どもにも人気がある。大人たちは木に登って落としてくるが、子どもたちはそうはいかない。
 上を見ればいい栗が笑んでいる。ほしい、ほしいと泣き出す子もいる。そこに白い髯を生やした鼻の高いおじいさんが通りがかり、おやげなく思って木に登り、枝を下げて子どもたちに取りよくしてくれたそうな。
 その後、この栗の木の枝は垂れるようになったと。あのおじいさんは天狗さんであったそうな。

 
2007年2月3日号
66 天狗話4つ おはなしの解説@

 天狗話の収集は長野県立歴史館の中條昭雄さんのお力添えで民話のデータベースより抽出していただいた。出典が違うたびに同じ伝承が現れる煩雑さはあったが、一話ずつ整理する楽しさがあったので救われた。データベースの他は筆者の心のポケットともいいかえる収集のいくつかを開けてみた。
 天狗話は北信・中信・東信・南信と、まんべんなくあり、その数の多さには驚かされた。
 さてさて、天狗の絵を描いてごらんといわれれば、まず、ふっくらした顔の輪郭を、次に、顔を赤く塗り長い赤鼻と大っきくて鋭い目を描く、あとは山伏の衣装を着せ、手にはヤツデの葉を羽団扇代りに描き、そうそう杖もね。
 絵が出来上ったところで天狗の正体を結論づけると、研究者の間では、鉄(鉱石・鉱物)を求めて山から山へと渡り歩く産鉄民の山伏姿への畏敬と不思議な生態が里人から「天狗」とみられていた。つまり天狗は産鉄民だというのである。李寧熙先生も天狗はたたら師だといっているそうなので、いずれにしても天狗=製鉄師の等式が成る。
 本稿では民話の中から製鉄に関わりのある部分を解読し、伝承地の周辺の鉄に関わる歴史と地名を探ってみたい。さらに新しい発見があれば嬉しいことである。
 まずは「藤と天狗さま」であるが、塩尻市洗馬の槻井泉八幡神社に伝承されるお話である。まず「藤」は何を暗示しているのかというと、製鉄時の火の色であると共に古代砂鉄を漉(こ)すに用いたざるの材が藤の蔓であったといわれているので、その双方を象徴していると思われるのである。
 次に驚くことに、祭神は誉田別命と猿田彦である。
誉田はふいごの地、猿田は砂鉄の地の意である。それに製鉄に不可欠な湧水もある。

 
2007年2月10日号
67 天狗話4つ おはなしの解説A

 槻井泉八幡神社のある塩尻市を雑ぱくに見てみると、弥生時代から水田耕作が行われた黒崖をはじめとして芝宮からは三遠式といわれる完全な銅鐸が発見されている。最近、京都府山城町の郷土資料館で山城町出土の銅鐸を観た。舌を付け銅鐸の音を再生する試みもあったが、それに比べても芝宮の銅鐸は立派である。
 西洗馬(朝日村)の五社神社には、鉄鉾と3つの鉄鐸を宝物として持つ。お祭りの神々も製鉄神と考えられる。ここに記した銅鐸や鉄鐸が、どう製鉄と関わっているのか、を後に記すことにしたい。
 次に地名を読んでみたい。まず洗馬。古代に洗馬牧があるので洗馬の表記は100パーセント賛成なのである。が、もう少し推考を進めて洗馬は洗場で鉄の場では、と推理してみる。神社の近くの芦野田、銅鐸の出土した芝宮、鉄磨(と)ぎと読める宗賀、桔梗ヶ原は古くは菅の荒野とも称したそうである。菅は鉄磨ぎ、荒は古代韓国にあった阿羅に置き換えられることが多い。菅の荒野とは阿羅の鉄磨ぎと読めるので、桔梗ヶ原は早くから渡来の人々によって鉄作りがなされて来た場所なのだろうか。古代韓国語を元に荒野を読んでみれば、単に耕作に適さない荒地でないことが推測できるのである。
 二つ目は「天狗の隠れみの」である。同類のお話は中信の北安曇と南信の上伊那にもある。
 天狗話の中で松の木の登場は多い。天狗の腰掛はだいたい松の木と決まっているらしい。上田市の市民の山と親しまれる太郎山にも、かつて天狗の腰掛の松があった。「天狗の隠れみの」にも天狗松が出てくるが、「松」はなぜ天狗とセットになるのだろうか。
 天狗がたたら師だとすると、たたらには炭が不可欠である。栗の木の炭は最上質のものであるそうな。

 
2007年2月17日号
68 天狗話4つ おはなしの解説B

 赤松の炭も火力が強く上質とされている。「天狗の隠れみの」での「松」は松炭を暗示しているのではないだろうか。
 たたらでは、炭をくべ次に砂鉄を投げ入れる作業が3日3晩で1000回におよぶという。
 さて、姿の見えなくなる隠れみのは何を暗示しているのだろう。
 製鉄の場は、技術や砂鉄、出来上った上質の玉鋼が盗難にあっては経済の非常な損失である。そうしたことがないよう、閉鎖された場所で行われたのかもしれない。そのことが隠れみのに象徴されているのではという仮説を立ててみた。
 天狗の持っていた隠れみのを換えっこした男は、悪庄屋の持ち物を失敬し困っている村人に配り、皆幸せに暮したとさ。とあるのは、たたらの技術を体得したか、はたまた、たたら場に侵入し鉄塊を失敬し売りさばいたのかな? そうした市場もあったのかしらん。
 お話に出てくる「麻績(麻続)」が機織の意であることは古くから市民権を得ていることだが、古代において麻は布や糸の代名詞であったそうな。
 布の意の韓国語「べ」を知った時は懐かしい思いにかられた。なにしろ、幼い頃、着物を「べべ」といっていたからだ。叔母がよく歌ってくれた。お正月さんは良い人で/赤いべべ着て羽根ついて/水晶のような餅食べて―。衣食遊びをくださるお正月を称えた羽根つき歌にもべべが出てくる。布と布を継ぎ合わせたもの「べ・べ」が「べべ」なのである。改めて韓国語との繋がりに驚く。
 麻績は「延喜式」にも出てくる由緒ある地名である。地図上に麻績村の文字が鮮やかに踊っている。お話の中の大岡村は長野市と合併。蛇足だが上山田町が千曲市になり「斯羅(さら・新羅)の鉄生み」と読める更級郡が地図上から消えてしまった。

 
2007年2月24日号
69 天狗話4つ おはなしの解説C

 次は「天狗3兄弟」についてである。
 大水にあって後、兄弟は四散し、長兄は戸倉の自在山に住んだそうな。いつの頃からか、その山は「天狗山」と称され、樹齢400年から500年ほどの「天狗松」や「天狗の祠」がある。天狗山の山麓には、天狗の立像が出現した。平成7年春のことである。身の丈8mちょっと、体重ときたら約5トン。鉄骨と強化プラスチック製で千曲天狗の愛称を持つ。
 そもそも、天狗3兄弟のお話をしてくださったのは、元県議会議員の故・大谷秀志さんであった。大谷さんのご研究では、天狗は産鉄民との認識があり、天狗山を越えた、千曲市森の岡地地区にある清水製鉄遺跡こそ、長兄の天狗ゆかりの地であったのではないかと考えていた。
 清水製鉄遺跡は上信越自動車道の建設に伴い発掘された。製鉄のたたら遺跡、大鍛冶の鉄精錬遺跡、小鍛冶遺跡と一貫した作業が行われた製鉄の一大コンビナートであった。発掘の報告書には砂鉄の残存も認められたともある、希有な遺跡である。場所を示すならば、上信越道を千曲市側から上田市に向って1つ目のトンネル、有明山トンネルを通過したすぐの所が清水製鉄遺跡のあった所である。
 地名の岡地は大鍛冶が転訛したのではないか、と筆者はみている。
 戸倉には福井(福は真金吹くの吹く=福とも考えられている)という地名が天狗山の近くにあり気になっていたところ、近くの山にたたらがあったという情報を得た。だが、それについて詳しい人は病弱とのことで、話を伺うのは難しそうである。曖昧な話で恐縮であるけれど、かつてそうした場所があったらしい、といわれる所と天狗山が指呼の距離にあるので、長兄天狗との関連があるのではと考えている。

 
2007年3月3日号
70 天狗話4つ おはなしの解説D

 次兄の移り住んだ皆神山は松代の豊栄地区にある。
ここには赤芝銅山があり良質な銅を産出していた。がいかんせん鉱脈が細く、後に廃鉱になった。山頂には熊野出速雄(いずはやお)神社があり、古くから山伏の存在が知られている。修験者(道)と鉄の関わりも深いとされているが、紙幅の都合もありその追求は割愛したい。
 末弟が住んだとされる岩井堂山(上山田側の呼び名。坂城町では自在山と呼ぶ)の山頂ではかつて、2000度に近い高熱に耐えられる絹雲母が採掘された。国内での産出はきわめて少なく、岩井堂山含めて2、3ヵ所であるという。
 最後に「天狗の枝垂栗」である。本稿では塩尻市北小野に伝承される短いお話を書いたが、隣の上伊那郡辰野町小野楡沢山にも類似のお話がある。
 栗の木がくねくね曲っているのは天狗が腰を下ろしただとか、または、子どもたちが木に登って栗を落しているところへ弘法大師が通りがかり、子どもたちに栗をくれと所望したらば、気持よくさしあげたそうな。すると木に登らずに栗を取れるようにしてやろうと、弘法大師が枝を垂れ下げてくれたんですって。
 楡沢山の枝垂栗林は国指定の天然記念物で、その辺りを天狗原と呼ぶ。栗は芝栗の変種だそうで傘状に枝を垂れている。実は小さく実際には食用には適さなかったので広い自生地を作ったと考えられている。
 枝垂栗は信州の東南部、特にフォッサマグナ地域に分布し、小野は分布の中心をなしている(丸子西内地区にもある)。この栗は生長が遅く、曲りくねった木は役に立たないからと、特産の石灰を焼く薪として使われたという歴史もある。
 製鉄には石灰も必要であるし、栗炭は赤松と同じく一級品だとの認識を持っている。

 
2007年3月10日号
71 天狗話4つ おはなしの解説E

「天狗の枝垂栗」のお話のある塩尻市北小野と辰野町小野には2つの神社が隣り合っている。塩尻市側は小野神社、辰野町側は矢彦神社で細い水路で境がなされている。両神社は信濃二之宮(一之宮は諏訪大社上社本宮)と称され、小野盆地を憑(たのめ)の里とか頼母(たのも)の里というそうである。また、例祭は田の実祭といい、天候の平穏や稲の豊作を祈る祭だそうだ。
 平成17年4月半ば、両神社は御柱の準備がほぼ出来ていた。田の実祭は頼む(み)の意ではないかとの仮説を立ててみた。では何を頼むのか、その辺を探りたくて、特に小野神社の氏子の方々にお世話になった。
 両神社には宝物がある。小野神社には、鐸鉾(さなきぼこ)に鉄鐸を麻幣(あさしで)で結びつけたものがある。鐸鉾は矢型状の両刃の剣で、鉄鐸は薄い鉄板をぐるりと巻いた鈴状のもので12口(1つは舌のみ)ある。
 矢彦神社にも3口の鉄鐸が現存している。
 唐突だが先日、御代田町の浅間縄文ミュージアムでの企画展「古代の音・色」で、複製の銅鐸に紐を巻きつけた舌の柔らかな音色を聴いた。銅鐸は鉄鐸と同様に振り鳴らされたものらしい。『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)で祭祀学の著者はいう。最も古い様式を伝えるのは常に祭祀である。祭祀は始源の状態を繰り返すところに本意があり、時代の変遷にもたえて持続すると。「鉄を制する者は天下をも制する」。鉄は銅に比べはるかに有用で実用的なことは周知のことである。その鉄を求めて、つまり、砂鉄以前の湖沼に生える禾科の植物の根に沈澱する褐鉄鉱の塊の生成を祈って銅鐸や鉄鐸は振られたらしいのである。振り鳴らすだけでなく地中に埋祭したものが銅鐸である。より強い祈りを込めたものだろうか。古代人は銅が腐蝕しないことを知っていたのである。

 
2007年3月17日号
72 天狗話4つ おはなしの解説F

 小野神社の「田の実祭」は実は「頼む」の意の祭ではなかったろうか。鉄の生長を頼む(お願い)である。境内にある孔のあいた石を御鉾社という。穴に鐸鉾(さなぎぼこ)を立て、向こうにあるその名も藤池に向かい鉄鐸を振り鳴らしたと考えられる。
「天狗の枝垂栗」を観る旅で辰野町にも足を延ばした。北大出明神社では御船お奉りという、天狗と獅子が参加する珍しい祭がある。氏子の方が、古面の天狗面を見せてくださった。
 次に校歌にも歌われている「月丘の森」に行った。
「月」の字が付くので多分製鉄と関わりがあるだろうと考えていたら、そこには諏訪神社があり、建御名方命(たけみなかたのかみ)とその祖母神を祭る。小塚があるが祖母神の陵墓であるそうな。御孫君が出雲から諏訪に向かわれる時同行なさってきたが、祖母神だけは月丘の森に住まわれ長寿の後にここで亡くなられたそうな。
 古代「月」の名称は製鉄に関わりがある。月丘の森も、製鉄に適していると考え祖母神はそこにとどまったのかもしれない、と縁起の裏を読んでみた。
 次に気になる地名を読んでみたい。
 太平洋水系と日本海水系の分水嶺となっている牛首峠を西に下ると、木曽楢川の旧村境を経て桜沢に至る峠道がある。が、その牛首は上等な鉄燒きと読めるし、桜沢は鉄蔵の沢と読める。
 たたら場跡はなくても、地名や古い様式を伝える祭祀から製鉄の匂いが伝わってくる。
 天狗の冠を持つ、山・石・木・温泉・原はすべてと明言はしないが、その多くは製鉄や鉱物に関わりがあることは確かであるように思える。
 伝承も時代と共に変わって行く部分はあるかもしれないが、特に製鉄に関しては、暗示と家徴型伝承の多いことを実感するのである。

 
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