2007年3月24日号
73  石舟と女神 @

 まだ石舟という地名もなかった頃のこと。
 川っぷちで石工が朝から「かつん、こつん、かっかか」と、のみや槌をそりゃあうんまく操ってなぇ、石の舟を刻んでいたそうな。仕事にのめり込んでいたけれど、人を呼ぶ声にふっと顔を上げた。それから、声のする方へ目をやると、女の人が二人、杖を振り上げながら呼んでるようだ。
「う、うーん。なんだや?」
 石工が手を休めながめていると、やがて二人が息を切らしてやって来た。
 見かけない母子連れだ。遠くからの旅人らしく、着物の裾も汚れ、足からは血を流し、目も真っ赤に充血している。
「ど、どうなすった?」
 石工が聞くと、母子はおびえ顔でしきりに後ろを振り向き、振り向き
「助けてくだされ、わしは加賀の白山権現の女神で、連れているのは娘で、実は二人とも男神から逃げて来たところ」
と、母神が言う。石工はただ、たまげてしまった。
「な、なんで男神さんから逃げなさったのかね?」
 石工がたずねると
「男神は体のくされる病にかかってな。長年連れ添って子までなした仲だというのに、お互いに言葉も荒くなって、けんかばかり。あぁー。情けなや、情けなやぁ」
 母親の嘆く姿を見て、娘神も涙ぐんでいる。
「どうか、かくまっておくれ、頼みます」
 拝まれても困るなぁと、石工は思った。
「あれっ、足音がする。男神の足音だ。わしにはわかる。かくまっておくれ」
 毋神は神さんであることも忘れたように地に伏し、石工を仰ぎ見た。と、その時、石工に名案が浮かんだ。名案とは、今刻んでいる舟形の石をひっくり返し、その中に白山権現の毋子神をかくまうことだった。

 
2007年3月31日号
74  石舟と女神 A

「ささ、まずは身をちぢめ地に伏しておくんなすって」石工は身をかがめた二人を確認するやいなや、ありったけの力を出して舟形の石をかぶせた。それから、ひたひた走ってくる足音に耳をそばだてながら、石粉の付いた顔や手を洗い落した。と、急に野太い声がした。
「これこれ、ちとたずねるが、さいぜん、ここに二人の女人が来なかったか?」
 石工が振り向くと、なるほど、女神が言っていた通りの病らしい。
「へぇ。女人ねぇ。知らんでぇ。わしゃ、朝っから石を刻んでいて、てめぇの手元を見てるばっかりだからなぇ」
「見なかったと? 気品のある女人をだ」
「へぇ。わしゃ石の舟の他は興味ごわせん」
 木で鼻をくくったすげない物言いに男神は太いため息をついて
「あぁ、どこへ行ったか」と、せつなそうな顔をした。そして、懐から梅の花形の美しい杯を取り出し、いきなり川面めがけて投げ、流れに落ちるのを見届けると、木曽の白山へと帰っていった。
 石工は、美しい杯は男神と女神の婚礼の時の杯であっただろうかと思いながら、男神の後ろ姿を見送ったと。
 男神が杯を投げなさった川は神川と呼ばれ、この川に住むかじかのどこかに梅の花形がついているという。また、真田辺りでは胡麻を沢山作っていたが、女神が胡麻のさやで目をつかれたので、以後、胡麻を作る者がなかったそうである。それに女神はなぜかお湯がおきらいで、沢山湧いていたお湯を草の葉に包んで投げてしまわれた。落ちた所が群馬の草津だそうであるが女神のおきらいなものはまだあって、懐妊している人と2歳の子だという。
 母と娘の神はこの地にとどまり、この辺りを守ってくれることになったそうな。

 
2007年4月7日号
75  石舟と女神 おはなしの解説@

 表題のお話がいつの時代に成立したかさだかではないが、まずは、白山信仰が真田地方に伝えられて来たことを端的に示している伝承である。
 お話の中で男神が白山の本宮ではなく木曽の白山に帰っていったとあるのが面白い。史実とは違うかもしれないが、白山信仰が木曽の大桑村の白山神社を経て伝播してきたひとつのルートを暗示しているように思える。また、男神が梅の花形の杯を神川に投げ捨てるのだが、この梅の花は白山本宮の神紋かと思ったが、本宮はもちろん大桑村の白山神社も「三つ子持亀甲瓜の花」で梅の花との関係はないようであるが、お話が成長する過程で、加賀百万石前田家の家紋が宿り木のように芽ぶいたものではないだろうか。
 余談であるが、前田家の家紋をアレンジした「福梅」の名を持つ美味な銘菓が金沢市にある。立体的な紅白の最中の真ん中に金箔を一筆置いた、といった風情で、さすが茶道の盛んな町のお菓子だと感激して頂いたことがある。
 さて、白山は地主神・水分神として一般的に崇拝されて、また、修験道の霊場として名高い。霊力を得ようと山岳をとそうしたのが山伏であるのだそうだが、皇学館名誉教授真弓常忠氏は、修験道発祥の根源にさかのぼる時、より現実的な動機があったに違いないと考えている。つまり修験道は、実は、高山幽谷に鉱床や鉄砂を求めて探査して歩いた採鉱者衆の宗教ではなかったかといっている。白山神が信仰の体系とは別に製鉄神ともいわれるゆえんであろうと得心している。
 表題のお話の中に、女神が胡麻のサヤで目を突かれたとの伝承があるが、目を痛めたということは、溶鉄の状態を視つめて隻眼となったことを、また胡麻は砂鉄を暗示しているのではないだろうか。

 
2007年4月14日号
76  石舟と女神 おはなしの解説A

 男神から逃げてきた母神は石工が彫っていた石舟を伏せてその中に隠れたそうだが、その石舟は今は地中にあると風聞したことがある。実際にあった石舟だとするとなんのための石舟であろうか。かつて、岐阜県の南宮大社金床神社のご神体が平な金敷石と舟型の金床石であった。石舟の地名も製鉄炉(鍛冶炉)との関わりがあったのかもしれない。地中にあるかもしれないとのうわさのある石舟に、ひと目おめにかかりたいものである。
 民俗学者・箱山貴太郎先生が生前、筆者を神川の生れと知っていて「神川ってどういう意味でしょう」と遠くを見ながら言われたことがあった。神が座す山を源流としているから神川、そうした答えを求めていないことははなからわかっていたので、「う〜ん」と心の中で唸るより他なかった。
 数年前、3回ほど行った群馬県と埼玉県で、神川の語源と思われるものを得た。
 群馬県鬼石(おにし)町の冬桜は有名である。標高591mの桜山に約7千本の桜が11月中旬から12月中旬まで咲き、紅葉と桜の花が同時に楽しめる。その桜山に向って吹き上げる谷風の強いこと強いこと、それも絶え間なく吹き上げる。3回目でとうとう叫んだ。「露天フイゴだっ」と。
 鬼石町のどこかで製鉄が行われたのだろうか。資料には製鉄と関わりあるデーラボッチ伝説、鬼伝説がある。神流(かんな)川添いには製鉄神がぞろりと並び、おまけに鉄の場と読める諏訪の地名まである。決定的なことは神流川の「神流」である。
 古代、鉄を採るのは鉄砂の多い山麓で、しかも河の流れのある所。土砂を崩し急流で洗うと土は去り、比重の重い鉄砂だけが残る。それを藤蔓のざるで漉す、これが「鉄穴流(かんなが)し」である。神流の語源はこの鉄穴にあるといわれている。

 
2007年4月21日号
77  石舟と女神 おはなしの解説B

 地名、伝説から見ると、鬼石町がかつては名だたる製鉄の地であったろうことは想像に難くないのであるが、今のところ鬼石町から製鉄跡は出ていない。
 神流川を挟んで鬼石町の対岸の町、埼玉県神川(かみかわ)町も命名の元には鉄穴乱_流から神川が生まれたそうな。すごいことに神川町元阿保からは大鍛冶から小鍛冶までの製鉄遺跡が出ている。
「阿呆」とは最高の砂鉄とも読める、神流川はやがて坂東太郎のニックネームを持つ利根川に合流する。
 以上のような経緯から、神川の語源の元には鉄穴の意があるのではないかと考えるようになった。
 鬼石町と同じように真田町にも鬼伝説がある。
 坂上田村麻呂将軍が、丸子町の鬼窪(荻窪)から鬼沢(神川)を通り角間(真田)の「毘耶(ひや)」という鬼を退治したそうな。その時、田村麻呂将軍、鬼を縛ったのが鉄縄だそう。傍陽の天台宗の寺、実相院の山号は金縄山(きんじょうさん)というそうであるが、筆者は小さい頃から「かなずなのお寺」と尊敬の念と親しみを込めて呼んでいた。8月初めの「りんご祭」は小さないとこ達と一緒に叔父が連れていってくれた。屋台を照らしていたアセチレンの火、ガスの臭いとアイスキャンデーの甘さが心に残っている。
 地名も、菅平のスガは鉄磨ぎと読める。真田は鉄生みの地。長と書いて「お(を)さ」は、韓国語で大きな存在を表すウサ・ウシ・ウス。日本に来て「をさ」という大和ことばになったとされる。一方、をさ・うし・うすは丘鉄(鉄鉱石)のことだが、砂鉄まで含む「鉄」全般を指称する語であったと言われるのは、李寧熙先生である。
 2月の初めに神川沿いの地域史を研究されている宮島武義さんを知る機会を得た。彼は地域の歴史を熱く語ってくれた。

 
2007年4月28日号
78  石舟と女神 おはなしの解説C

 3つ4つの子どもが「どうして?」を連発する時期があって、閉口した覚えがある。今の筆者も「なぜなの?」「どうしてかなぁ?」と首をひねることの多い日々を送っている。
 郷土の素敵な場所や歴史を多くの人々に伝えたいと考えている宮島武義さんは、柔軟な考えをお持ちでも、やはり筆者と同様に前出の言葉を発している。
 宮島さんの知人の半田姓と金子姓の家紋は諏訪大社上社本宮の神紋「梶」と同じであるそうな(半田姓、
金子姓のすべてではない)。
 半田姓も金子姓も金属に関わりある姓だと直感した。
 半田はホムダの音と同根でフイゴの地の意である。
 かつて、近所に半田姓の鍛冶屋さんがあった。姓と仕事の語源が合致する不思議さを思った。
 また、全国に「金」の字のつく地名や姓は数多いそうだ。
 筆者の古い縁者に金子姓があるが、いつの頃か定かではないが諏訪の金子村から移住してきたとの伝承がある。伝承は伝承として、では、なぜ金子という地名や姓が生れたのか、伝承ではそこまでを伝えていない。
 金子の語源に迫る時、忘れてならないのは金屋子神のことである。
 製鉄技術の文献に『鉄山必用記事』という書があるが、その中に金屋子神の降臨伝説が語られている。
 金屋子神は、はじめ播磨国の岩鍋に矢降って鍋を作ったが、そこには住むべき山がなかったので、白鷺に乗って西に飛び、出雲国の非田に着き休んでいたところ、安部氏の祖の正重に発見された。(中略)朝日長者が宮を建て正重が神主となり、神みずから鍛冶となって朝日長者が炭と粉鉄を集めて吹けば鉄の湧くこと限りなし、とある。また、金屋子神はたたら炉の4本の押立柱の南方の柱に祀ることが記されている。

 
2007年5月12日号
79  石舟と女神 おはなしの解説D

 金子氏の出身との伝承がある現在の諏訪市中州には上・中・下金子地区があり、中金子の八竜神社の氏子は上社本宮と前宮の古い御柱休め(倒す事)や古い御柱の穴を掘ったり埋めたりすることに奉仕している。また、御柱はたたら炉の押立柱の名残りと見られる。しかも、押立柱の南の柱に祀られるのが金屋子神であることからして、金屋子雷燻qの地名や氏が生れたと考えるのは短絡すぎるだろうか。いずれにしても上古にたたら場の仕事に携わっていたのが金子氏とみて不思議はないと思う。「梶」の家紋もそれを語っている。
 宮島武義さんが話してくださった金子姓について考察していくうち、古い縁者の住む上田市赤坂の金子萬英さん宅を訪ねた。ご多忙なのに、赤坂に伝わる伝承と伝承地を案内頂いた。赤坂には、塚穴古墳や将軍塚古墳があり開発の古さを示している。渡来系の臭いのする地名、小玉原(ばら)に瀧宮神社の前身の木魂(こだま)神社、そのご神体の兒玉(こだま)石等興味はつきないのである。特記すべきは、この地が上古の昔、名だたる鉄処であったろうと思われるお話を沢山してくださったことだ。まずは、旭さす/夕日輝く/へいじ岩/漆千樽/朱千樽/黄金千枚/二千枚 の伝承地へいじ岩へ、山道の悪路を金子さんの案内で行った。前出の俚謡は将軍塚等の高塚に伴うと伝承されているが、奇岩のへいじ岩には水酸化鉄かとおぼしき層があり、集落近くの崖は鉄砂の山である。集落内を流れる川には魚は住まないそうである。酸性度を示すペーハーは低いらしく水を飲んでも、酸味も渋味も感じなかった。
 三重県美杉村の三坪山で謎の歌をたよりに掘ったら、山頂から経筒が出たそうな。へいじ岩の元からは土器の破片が出土したそうである。三坪山も赤坂の地も砂鉄の多い鉄砂の山である。

 
2007年5月19日号
80  石舟と女神 おはなしの解説E

 赤坂には鉄処によく伝承される竜のひっこし(小玉原の空池=からいけ)話や鬼伝説、それに鉄穴流しを連想させる降雨時だけに流れる不思議な川のこと等に加え、清らかな水の湧く瀧宮神社に伝わる片目の魚の話があり、身を引き込まれる。
 神々の祭は、古くから行われてきた原初の状態をくり返し伝承すると『古代の鉄と神々』の著者はいうが、なるほどなるほどと再三得心する。瀧宮神社の秋の大祭(毎年は行われない)には、なんと舟が出て「うちわ振り」の奉納とケヤキの木に片方だけぞうりを縛り付ける行いがあるという。
 舟の山車は諏訪社系の祭ではよく登場する。かつて下社秋宮でのお舟祭を見学したことがあった。
「うちわ振り」が「フイゴ」を象徴していることは明らかである。金子さんと意見が一致した。大木に片方だけぞうりを縛る話をしたときの金子さんは、いたずらっぽい目をしていた。筆者の反応や答えがわかっていたからであろう。
 たたら場では身体に障害を起こす人が多いという。
例えば熔鉄の具合をホド穴から見つめ、そのため片目を失うというし、片足を悪くするのは足ぶみのフイゴを踏むからである。それに燃焼床の粘土を踏み固めるのも重労働である。
 片方のぞうりはそうした行為の結果を暗示しているのであろうと、みごとに金子さんと思いが一致したのである。日本の祭は深い所で鉄に関わっていることに驚くばかりである。
 さてさて、ずっと気になっていた延喜式内社の山家神社の由緒書きである。神社はもと、神社の裏山の古坊に鎮座していたが、西暦857年6月に大雨による山ぬけがあって社殿や神森が押し出し現在の地に遷ったとの伝承がある。それにより神主の姓を改称したと伝わる。

 
2007年5月26日号
81  石舟と女神 おはなしの解説F

 禾科の植物の生長には鉄分が必要であるという。粘土にはその鉄分が多く含まれる。それ故、粘土質の米はうまいとの定評があるのである。
 山家神社裏の畑地は古坊とは地質が異なり、まずは驚くほど小石が多く耕作者のご苦労がしのばれるところである。土はさらさら感のある山砂で砂鉄量も多い。
 さて山家神社の神官の旧姓は清原とある。「キヨハラ」なのか「スガハラ」なのか資料では訓じていないが、もしも「スガハラ」と訓めば古代韓国語では「鉄磨ぎ原」の意である。改姓の押森の押(ヲシ)は丘鉄から砂鉄までを意味するといわれる。森は頭領の意のモョリを森と表記した可能性も考えられるのである。
 神官としては大雨により社叢が流されるということは一大事に違いないが、山ぬけ(自然の鉄穴流し)に比喩した出来事の真相は、元々鉄穴流しの仕事に関わっていたが実は「鉄漉しの長」になったと記事は伝えたかったのではないだろうか、長になる事もまた一大事件である。「長」は大きな存在の意である。旧長村の「長」でもある。
『鉄山必用記事』の中に「一に粉鉄、二に木山」とある。神川の砂鉄量も多い、それに真田の地は木(木炭)の補給力も充分である。そうした事を知って白山神はやって来たのだろう。白山神をかくまった石舟の石は継続の意のイッシ、舟は製鉄炉の意とすると白山神の想いはただ一つ、鉄作りを続けたくて真田に入ったといえはしまいか。
 最後に、鬼(鍛冶師)を金縄で縛ったとの伝説の地、傍陽の実相院境内で風化した花崗岩を発見した。花崗岩の中に砂鉄はほぼ遍在しているそうである。洗馬(鉄の場の意と考える)川の地名もあることから、ここも名だたる鉄処であったことがうかがえる。

 
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