2007年6月2日号
82  御牧ヶ原散歩 @

 今年1月22日の朝刊を広げびっくりした。
 宮崎県知事に元タレントの東国原英夫氏が当選したとあった。驚いたのは氏の姓の読み方にある 。「ひがしこくばる」と読むそうである。音訓ごちゃ混ぜ読みで珍しく思った。随分前になるが、長野市松代出身の勤皇家、佐久間象山先生を、「しょうざん」と読むのか「ぞうざん」と読めばいいのかと物議を醸したことがあった。結論は出たのか出なかったのか失念したが、「信濃の国」を歌う長野県人は「ぞうざん先生も」と歌っている。古くは音訓混ぜ読みでもちっともおかしくない時代があったのだろう。
 もう一つ、「原」を「ばる」と読んでいる。「原」は古代韓国語で「バル」「ボル」と呼ばれ、「広げる」「正しくする」の意であることを直ぐに思い出した。
 また、宮崎県の地名で田原と書いて「たばる」、大分県別府市には合原と書いて「ごうばる」と読む方がいる。九州地方では古代の渡来の言語が原音のまま現在生きていることに感動さえ覚えたのである。
 長野県内では「ばる」とは発音しないが、「原」の字の付く地名は多い。特に表題の御牧ヶ原は古代の望月の牧の放牧地とされている所なので興味は尽きることがないのである。
 広大な御牧ヶ原は小諸市・旧望月町・旧浅科村・旧北御牧村の1市1町2村にまたがっている。
 平成15年9月9日、小諸市原(御牧ヶ原)の私設天文台で月と火星のランデブーを観た。その前日に小諸市の掛川剛さん(星の掛川さんの愛称を持ち天文台の台長さん)に「月と火星のランデブーを観たい」と電話をした。なにしろ月に火星が接近するのは6万年に1度なんですって。ランデブーなんて言葉にも心を動かされたことも大きい。

 
2007年6月9日号
83  御牧ヶ原散歩 A

 星の掛川さんから「そろそろ言って来るだろうと思ってました。出掛けてください」と嬉しい返事をいただいた。久し振りにお会いした掛川さんの柔和な顔は変わらない。素朴で心優しいお人柄のお母さんにもお会いできた。家で留守番役のお父さんは、かつて幼い子ども達に草笛の吹奏や指導をしたり冬場炭焼きに精を出していたことがあった。
 御牧ヶ原台地の原には掛川さんの農地が100アールあり、その中に大きな池や池端には何本もの、これまた太い赤松がある。そうした風景の中に天文台がある。
 夜8時頃、天文台の望遠鏡で月と火星を観た。火星には少し黒っぽい部分があった。それが北極なんですって。望遠鏡を通しての新しい発見に、手放しで喜んでしまった。天文台の窓からの風景もよかった。さえぎる物がない原の天空で、煌々と光る月齢12・8日の月とその右下に寄り添う火星を窓枠に頬杖を突き見入った。10分もたったろうか、火星は月にすげなく別れを告げ、たちまち距離を広げていってしまったの。
 さて御牧ヶ原には渡来人の足跡と覚しき神社や先祖祭があるが、筆頭に上げられるのは平安時代の望月の御牧(勅旨牧)があったこと。それに大陸土器と言われる須恵器窯の跡が八重原の台地を含め多数あったとされていること等である。
 日本の稲作・鉄器・織物・養蚕それに馬飼の技術は、朝鮮半島の人々が携えてきたとされている。
 御牧の前身は渡来人の経営していた私牧であり、勅旨牧に取り込まれていったであろうことは研究者の間では定説になっている。
 現在御牧ヶ原にある牧の足跡としては、放し飼いの馬が牧の外へ逃亡するのを防ぐためにめぐらした土堤の野馬除跡がある。小諸市の諏訪山と旧北御牧村で2ヵ所見学した。

 
2007年6月16日号
84  御牧ヶ原散歩 B

 何度か御牧ヶ原に足を運ぶたび、起伏の激しいこの地だからこそ、都に名を馳せた足腰の強い望月の駒が育ったのは当然かな、という思いがある。
 馬を育てる「牧」の語源は「馬城」に求められるそうである。また、「馬飼(馬甘とも表記)で「マル・ガム」と発声し「馬・尊い人」の意で馬飼=馬王であると韓国の文学者、李寧熙先生は言っている。
 4年ほど前になるが、馬鳴きの「いななく(き)」の語源を探ったことがあった。「馬の博物館」(横浜市)のお力添えを得て、馬の歴史を雑ぱくではあったが学んだ。
 馬より先に人が飼った動物はロバで、身分の高い人々が通常乗っていたとされる。そして、ロバの飼育を基礎にして馬が飼われはじめたらしい。ギリシャ文明において馬は聖なる動物と、とらえられていた。それに馬力という単位もあるではないか。これはもう、「い」には「聖なる」の意があるので、この言葉しかないと思った。「な」には頭を痛めたが、ロバの呼名は古代韓国語でナグとかナギィと言うそうなので、「ナグ」を当てた。古代韓国語が日本語化される時、終声音が消え独立した語になるという法則により「な」だけを残した。
 ロバのもう1つの呼名は「ナギィ」。「ナギィ」は「鳴く」の意でもある。「ナギィ」は法則どおりに処理すると「なく」になる。いずれにしても「なく(鳴く)」であろう。「いななく(き)」のカッコの(き)は連音である。「いななく(き)」とは「聖なるロバが鳴」の意であろうと考えた。李先生の一番弟子と言われる辻一美さんに電話をすると「可能性があります」と力強い言葉をくださった。
 古代の人々は素晴しい言語感覚を持っていたことを知った瞬間であった。

 
2007年6月23日号
85  御牧ヶ原散歩 C

 鹿曲川を挟んで御牧ヶ原台地と八重原台地には、大陸土器または朝鮮土器と呼ばれる須恵器の窯跡が多数存在していたそうである。特に旧望月町須釜の須釜原窯跡群の5基は8世紀のもので、他は9世紀〜10世紀の窯跡で一大陶村であった。
 須恵器と縄文・弥生時代の手作り土器との違いは、ロクロを使っている点と、焼成温度の低い土器に比べ高温で固く焼きしめられていること。叩くと金属的な音がする。色も青黒とでも表現すればいいだろうか。そうした色合いを鉄地色と言った覚えがある。須恵器の「スエ」は鉄のような器の意であると李寧熙先生は解釈し、機会あるたびに、サ・シ・ス・セ・ソの音はすべて「鉄」の意と言われている。
 次に、須釜の字の義の成り立ちを筆者なりに考えてみたい。まずは須釜を「スエ・ガ・マ」と発声し「鉄のような器を磨ぐ間」の意かととらえる。9世紀か10世紀か定かではないが、古代韓国語が大和言葉化する辺りに「スエ」の語末音が失われ「鉄」の意の「ス」だけが残りなおかつ、元々「磨ぎ間」の意の「カ・マ」が「窯」の字に当て、「釜」の字に変化し、「須釜」という固有名詞が生まれ落ちたのではないかと推測する。
 現在佐久市教育委員会の福島邦男先生は「信濃の御牧と望月牧」の論文の中で次のようなことを記している。
 窯跡の大方は馬の放牧場の外にあるが、一部は放牧場内にある。牧場経営と須恵器の生産とが共存していた可能性を明示している。また、窯業産業は牧場経営を支える産業として位置づけられる可能性がある、としている。
 御牧ヶ原と八重原台地は牧場と焼物の二大産業が盛んな時代があったのである。
 また、須釜の尾尻からは小型の鉄鐘の出土があった。

 
2007年6月30日号
86  御牧ヶ原散歩 D

 鋳鉄製の梵鐘は平安時代前期のものとされ、信濃最古の鉄鐘であるそうな。
 長年この鉄鐘を一度拝したいものと思い続けていたら、今年の1月末に御代田町の浅間縄文ミュージアムの企画展で見学できた。
 もしもこの鉄鐘が牧の内で使用されていたとしたならば、どのような活用があったのだろうか。牧人に何事かを知らせるためにか、はたまた非常時の警鐘であったかは想像するのみであるが、木槌で打っていたことは確かであろう。実物を観てそう思った。
 さて、筆者の手元に、信州大学名誉教授の村杉弘先生の『小室節略記』がある。以前出版された『小室(諸)節考』を補う一冊である。
 小冊子であるが、実に中味が濃く深いのである。
 こもーろーンオ…オ/ンオ/でてーみーりゃーョ/オ/ンオ/あさーまーの、の出だしで始まる小室節は全国各地の馬子唄や追分節と音調がよく似て、しかもモンゴル民謡「小さい葺(しゅ)色の馬」とも楽節の構造・音階・拍子・旋律の流れがよく似ているそうである。村杉先生はその著書で、伝説「望月の駒」と中国六朝(りくちょう)時代の伝説「馬頭娘(ばとうりょう)物語」と内容が似ているとされたり、小諸市下笹沢の笹沢姓の先祖祭が韓国の「堂木」やモンゴルの「オボー」と似ていると記している。
 官牧になる前の私牧の経営者は、馬飼の一切の技術と須恵器を焼く技術・言語に歌に物語に生活の一切を持ってやってきたことが日韓比較文化からもわかってきたように思える。
 牧の人々は遠くで馬のいななきを聞きながら土をこねロクロをまわす。須恵器の窯からは煙が上がる。牧草を刈る人々のくちから小室節に似たメロディーが、風と一緒に流れていたかもしれない。古代に生きた人
々の暮らしに思いをはせる、御牧ヶ原の散歩であった。

 
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