2007年7月7日号
87  伝承を読む 旧望月町@

 昨年8月15日の夜、旧望月町の榊祭を見に行った。
 暗くなる頃、東の山道から火をともした松明(たいまつ)の行列が次々にやってきて鹿曲川に架る橋の上から一斉に松明を川に投げこむ。その度に見物人から拍手が湧く。若者の中には松明を回す人もいるらしくその様はまるで「月」のように見えた。榊祭は火の祭りであることを実感した瞬間であった。
 松明の投げ込みが終ると町の方へ移動をして次は御輿(みこし)見物である。御輿は背の高い二幹に分かれたナラの木が主体である。そして所々で「あおり」をすると御輿と見物人が一体化して盛り上がりをみせるのだ。T字型の大辻では御輿を激しく地に打ちつける。これを「どうずき」と言うそうな。にぎやかな掛声を背に受けながら大伴神社への参道を歩いた。そして、道々本来の榊祭ってどんな意味を持っているのか考えた。
 この祭りの発生には三つの伝承があるようである。
 一つは、昔、都から滋野親王が望月にお下りになっていたが、あまりに都のことを憧れなさったので、都の大文字山でかがり火をたくのをまねて、8月15日の夜東方の山上で大かがり火をお見せした。この山を松明山といっているそうな。
 二つ目は、昔、望月三郎が武田信玄の軍に対してこちらも大軍ぞよとばかりに松明をたき、ついに武田勢を破った。戦勝を祝う祭りが榊祭であるとの伝承がある。
 三つ目、延徳元年の中元の夜、大伴神社の榊祭を行おうとにぎわしい中、町の人と商人の他は通行を止めた。武田軍の斥候に備える意味もあった。武田軍にまだ占領されていない望月、芦田、香坂、志賀、平賀が烽火を合図に武田軍を夜討ちにしようと約束してあった。ところが榊祭のかがり火を合図かと各地一斉に火をたいたので武田軍は大軍かと驚き甲州へ退散した。

 
2007年7月14日号
88  伝承を読む 旧望月町A

 武田軍を引き退かせたことが例となって翌年から旧城址に松明をたき、若者が手に手に青葉のそだを持ち笛や太鼓で町内を練り獅子が舞ったそうな。
 さてさて、榊祭とは滋野親王をお慰めしたことは別にして戦勝を祝う祭りなのだろうか。伝承を読めば、武田軍を甲州に引き退かせる以前から大伴神社に榊祭があったことがわかる。なぜ榊祭というのだろうか。
 榊祭のいわれを探る前に大伴神社のことを記しておきたい。「延喜式」記載の「佐久三座」の一つが大伴神社である。(他の二つは長倉神社と英多神社)元は北よりの椀の木地籍にあったと伝えられている。祭神は武日連と月読命で、元は望月氏の祖大伴氏を祀ったとも考えられている。
 大伴神社の金井宮司さんの紹介で松明山に行ったことがある。松明山には榊神社と書かれた小さな祠があった。祭神名を見て驚いた。製鉄神と考えられている木之花咲夜姫。すぐ近くには豊川稲荷大明神が座していた。明神は、日・月神、つまり火の神、製鉄神を指す。すると古い時代この地は製鉄の地ではなかったろうか、と考えてみた。
 榊祭の中で地に御輿を打ちつける「どうずき」がある。「どうずき」とは「固め」の所作である。「どうずき」や「固め」は上古からの吉祥語である。思い出してほしい。家を建てる時地固めのどうずきをした。家が建てば屋固めの祝いをする。結婚することを身を固めると言ったではないか。「 固め」は幸せに通じる。かん天を煮溶かして冷ませば固まる。美味な羊かんに変身だ。羊かん一切れでお茶を頂くなぞ至福ここに極まるの感がある。そして、鋳造もまた固めである。何度でも話すが『古代の鉄と神々』の著者は、祭りというものは本来始源の状態を繰り返し伝承するものだと言っている。

 
2007年7月21日号
89  伝承を読む 旧望月町B

「大伴神社注進状」を要約してみると、月夜見(月読)尊が竜馬に乗って、国々の川や谷をめぐり歩いている時、千曲川の川上に清水湧く谷川を見つけた。そしてこの霧湧く谷に永住しようと決めた。清水湧く谷川は、「角馬(つぬま)川」と記されていて、尊の乗った竜馬は「角馬(こま)」で、牧場の駒の種になったそうな。研究者は鹿曲川はつまり角馬川で元の意味は駒川であったと言っている。
 前出で製鉄に関わりがあるかと考えられる個所がある。まずは、尊が清水湧く谷川を見つけたことだが、
つまり、砂鉄の採れる川を見つけたことを暗示しているのではないだろうか。実際鹿曲川の砂鉄量は多いのである。もう一つは、霧湧く谷の表現にある。製鉄(須恵器を焼くにしても、鍛冶をするにしても)には木炭が不可欠である。そして、大量の木が必要である。木がよく育つには霧が大切な役目をする。木は霧が与えてくれる水分を吸収し、早く生長するそうである。
 また、民間の伝承として尊がゴマのサヤで目を突かれ負傷なさった。で、望月ではゴマを作らないそうな。
 これは「ゴマを作らない話」の中に入る。なぜ、ゴマのサヤで目を痛めたのかを暗示することとして、まずゴマは砂鉄の状態を表し、目を痛めたことは、製鉄炉の熔鉄の状態を視つめて痛めたことを暗示しているのではなかろうかと推測するのである。
 そして、延徳元年より前から大伴神社の祭として榊祭があったのだが、その榊祭の語源を解いてみると、
榊祭=鉄磨ぎ城祭となるのである。榊神社の祭神、木之花咲夜姫も製鉄の神とみなされているし、稲荷は火の神、大伴神社の祭神もまた「鉄」に関わりを持っていると、文献、伝承からそう読めるのである。伝承も決してあなどれないのである。

 
2007年7月28日号
90  伝承を読む 旧望月町C

 大伴神社の大伴と聞けば古代の豪族、大氏(多氏)を思い出す。それに、旧北御牧村の両羽神社の祭神のお一人、天太玉命と神殿内に座す、古木像の船代も大氏と深い関わりがあるように思える。
 さぁ、両羽神社だが、中世には原宮、芝宮、八葉山大明神、望月氏の所領になってからは大宮大明神、そして両羽神社とまぁ、時代の諸事情あっての社名の変遷なのだろうと、想像に難くないのである。
『古語拾遺』に斎部の祖である太玉命が率いる五神の中に一つ目小僧で知られる天目一箇(あめのまひとつ)神がいる。製鉄炉の熔鉄状態を視(み)つめ隻眼となった鍛冶職を神格化した名であるが、目を痛めた月夜見(月読)尊と天目一箇神の姿が神名こそ違うがぴったりと重なる。
 そして、太玉命の「太」の字は「多」の異表記である。太玉命は「大氏(多氏)」と同姓である。
 前出の芝宮にしても、八葉山大明神にしても社名から「鉄の場」であったことが読めるのである。なお、
両羽神社の神殿内には船代の像だとの伝承がある古木座像があるという。写真で見るかぎりではあるが、船代の容ぼうは、どんぐりまなこに、おっきな鼻、への字に結んだ口、厚手の衣を着ているというよりは太っているという表現の方がいいかもしれない。それに短驅の人であろう。座像丈とお顔の大きさからそう推測できるのである。
 船代は勃海(ぼっかい)国からの渡来人で、調馬の師であったそうな。勃海国とは、高句麗の後身と言われ、今の中国北東部に国を建て聖武天皇の御代から日本と通交を始めた。なんと、勃海王の姓も大氏であるそうな。
 鉄、馬飼、須恵器の技術に長けた集団が鹿曲川に上り、そこに住み、「鉄の場を守る」使命が各神々の仕事であったろうと推測する。

 
2007年8月4日号
91  伝承を読む 旧望月町D

 『佐久口碑伝説集』(北佐久編)に、土屋庄太郎さんが残した興味深い口碑があった。
 それは「金山は望月町牧布施の一地名で、ここに沼がある。この沼底に鉄しょう色の土があって、明治21年頃まで、この土で白布を黒染にしたり、おはぐろに使ったという。一説に金山様の祠があるからだとも言われている」という内容である。
 以前、牧布施での取材の折お世話になった土屋あさ子さんにお尋ねしておよその場所がわかったので、旧中山道の瓜生坂から歩いた。
 畑で作業をしておいでの男性に金山を尋ねると、「この山が金山です。白い粘土の出る所があって、子どもの頃、粘土いじりをしたものです」と話してくださった。そして、沼はないが湿地ならあるそうで、その場所に近づいたが、なにしろ夏草とヨシの薮で、確認はできなかった。だが、ヨシ原の端で不思議な光景を見た。黄褐色の水が溜っていた。ええっ。ひょっとして鉄バクテリアかしらん、と思った。過去に佐久市平塚の西一里塚遺跡で鉄バクテリアを見たことがあった。
 褐鉄鉱の塊は、沼沢や湿地に生える葦や茅、つまり禾科の植物の根に沈澱した水酸化鉄が鉄バクテリアの自己増殖によって外殻を形成する。そしてそれは弥生時代の貴重な原料であったと『古代の鉄と神々』の著者は言っているが、その原風景が目前にある。そうした雰囲気のある場所であった。
 金山まで来たついでに、牧布施の山の中腹にある駒形社まで足を運んだ。
 過去に土屋勝太郎さんと土屋春夫さんに牧布施の駒形社の祭神は猿田彦であること、社は昔、布施川に近い大門田にあったことを教えていただいている。
 さぁ、駒形社の性格はどういうものだろうか。

 
2007年8月11日号
92  伝承を読む 旧望月町E

 筆者の母はお宮参りの折は必ず丘の中腹にある石祠の駒形社にも参った。その石祠は馬と蚕神の神さまだと話してくれた。
 若い頃の母は、春蚕、夏蚕、秋蚕に晩秋蚕と年4回も蚕を養った。蚕室はもとより門の脇の長屋の二階、母屋の台所上の中二階に茶の間と座敷はすべてお蚕さまの養蚕室と化した。母はお蚕飼いが上手であった。病気も出さなかった。なにより養蚕仕事が丁寧であったように思えるが、お蚕の神さまと言われた裏のおじさんの指導を受けていたからかもしれない。細面で優し気な目をし、物静かなおじさんを見ては神さまって、きっとおじさんのような風ぼうなのだろうと、かなり大きくなるまでそう思っていた。
 さて、その駒形社が望月の牧の推定地の範囲をまるで囲むかのように存在する。
 小諸市駒形坂の駒形社は河岸段丘の中腹にあり、目の前の千曲川を渡れば御牧ヶ原の台地である。佐久市下塚原の駒形社はその脇を御代田町の血の池が源流の、赤い水の濁川が流れている。眼下には千曲川の流れがあり、はるか旧浅科村方面が見通せる。立科町には駒形社が2つある。外倉の小高い丘の見晴しのいい所と、藤沢の番屋川沿いの窪地にある。前出の社の祭神は保食神である。旧望月町の牧布施の駒形社は今でこそ山腹にあるが、元は布施川に近い平地にあったそうである。砂鉄量の多い布施川の縁にあり、祭神が猿田彦であるということでよけいに関心を深くする。
「牧」の冠を持つ牧布施にある駒形社なのだから馬の守り神の社と納得してしまいそうになるが、日韓の言語と歴史に詳しい李寧熙先生は、猿田彦を「砂鉄の地を祈る男子の祭祀者」を表すとしている。布施を古代韓国語に当てると、「鉄の火」と読める。なんと不思議なる一致であろうか。

 
2007年8月25日号
93  伝承を読む 旧望月町F

 牧布施の駒形社は正式には駒形大明神。明神と言えば製鉄神と学んでいる。無理に製鉄、鍛冶と結びつけようとしているのではなく、うなで(自然)に一致を見るのである。
 李先生によれば「マガタ」とは「防ぐ所(防御の地)」の意であると言う。
「駒・マガタ」(馬防御の地)が転化して「コマガタ(駒形)」という意味不明の言語が生れ、「駒」の字を当てたことから駒形=馬の守り神化していったとの推測が可能であろう。
 もう一つ、「小(コ)マガタ」から当て字の「駒形」が生れた可能性も考えられる。「小(コ)」は韓国式音読みで「ソ(ショ)」で牛または鉄の古語で高句麗など北方系の言葉である。とは、やはり李先生の見解である。つまり「小(コ)マガタ」とは「鉄防御の地」と読める。「駒、マガタ」にしても防御の地であればこそ、遠望のきく高台や重要地域の出入り口付近に設置され機能を果たしていたのではないだろうか。
 さて、比田井の県道近くに遠目にも古墳かと見える彦狭嶋王の墳墓という伝承のある王塚がある。『日本書紀』の景行天皇55年2月の条に「彦狭嶋王を以って、東山道の都督(かみ)を拝(ま)け給ふ。是、豊城命の孫なり」の記事が見える。豊城命は豊城入彦のことで、上毛野(かみつけぬ・群馬)下毛野(しもつけぬ)君の始祖であるそうな。孫の彦狭嶋王が春日の穴咋邑(あなくいむら)に到り病に臥(ふ)して亡くなった。東国の百姓、この王が来なかったことを悲しんで、ひそかに王の亡きがらを盗んで上野国(かみつけののくに)に葬ったそうな。春日穴咋邑は今の奈良市古市町で猿田彦を祀る穴栗神社の一帯がその伝承地でもあるが、旧望月町では春日地区一帯に比定する考えが有力である。
 王塚のある地字名は鹿島で、鉄磨ぎの場と学んでいるので伝承主は鉄に関わりがありそうである。

 
2007年9月1日号
94  伝承を読む 旧望月町G

 彦狭嶋王の祖父、豊城入彦命は御諸山(三輪山)から東に向って、槍と刀を8回ずつ振った。という夢占によって東国統治の任を得て上毛野朝日の原(群馬県榛名町)に居城を築いた。
 命の事業の中に車川から水を引く堰造りがある。その堰は、くの字に折れ三角地を形成していると『榛名町誌』に記されていたので確かめに行ってみた。
 S字形の地形は三角地帯といって、砂鉄が多く溜る場所である。確かにそれらしき地形は認められた。推測どおり堰跡の砂鉄量も多かったのである。
 群馬県の古代の製鉄遺跡は赤城山方面にあるが、命は鉄塊の元になる砂鉄集めに力を注ぎ鉄処を治めた人物ではなかったろうか。
 命の墳墓と伝承されるものは朝日の原を始め郷見区の諏訪や前橋市とあちこちにある。命が生きたとされる時代と伝承墳墓の時代差は『記紀』に登場する天皇が、重複して記された可能性があると見られている。遠い時代のことで推測の域を出ないが、伝承地に立ちその風景の中に身を置いてみると、伝承の真実性がそこはかとなく伝わってくるから不思議である。
 また、榛名町には役行者が開山とされる通称白岩観音がある。
 寺伝によると、行者は文武天皇の御代の人。大和葛城の生れで、藤の皮を身にまとい松の葉を食し葛城山の洞穴に籠って修行をして神通力を得、多くの鬼を使い水を汲ませたり薪を拾わせていた。ある年、諸国の峯々をめぐっていた時、上野国神州(からす・現烏)川の上空にさしかかると多くの天狗が出迎え、白岩山が優れた修行の適地であることを告げたという。
 前出の藤、松、水、薪は製鉄には欠かせない物であるし、鬼や天狗もまたしかりである。寺伝から、鉄との深い関わりが見えてくる。

 
2007年9月8日号
95  伝承を読む 旧望月町H

 役行者(えんのぎょうじゃ)は、修験道の祖師と仰がれている。その身なりは、兜金(かぶとがね)をいただき、鈴懸(すずかけ)、結袈裟(ゆいげさ)を着け金剛杖をついている。そして、山から山へと跋渉(ばっしょう)する、そうした姿を思い浮かべる。
 修験道は、古代からの山岳への崇拝と原始からあったとみられるシャーマニズムが結びついて発生したとするのが通説であるらしい。が、『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)では「山伏が山林で修行し呪法を身につけるために自ら苦行を科し、呪法を修したについては、そもそもの発生にさかのぼるなら、より現実的な動機があったに違いないと思う」といっている。「より現実的動機」とはやはり、山に入り鉱物資源を探すことが修験者に課せられた任務の一つではなかっただろうか。
 奇しくも、役行者伝説は旧望月町にもある。
 瓜生坂の中腹に清水が湧き出している所があるが、昔役行者がこの地に来た時初めて身を清めるための水をとった場所だそうな。
 また、望月城跡の南方に鬼落しという急な谷があり、昔役行者が法力をもって鬼を使い、逆らう鬼がいればこの谷に追い落した。
 立科町の雨境峠は望月側から「役行者越」の呼称がある。
 かつて、旧望月町の古墳から出土したおびただしい鉄器類は、須恵器と同じに地産地消であったろうか。
 彦狭嶋王の祖父が活躍したとされる榛名町も鉄処と考えられるし、王の墳墓伝承地もまた鉄処である。
 地名の原意を推測してみよう。イ咋田=聖なる(または継承)焼物の地。あぐり山=最高焼きの山。百沢
=集め集めの沢。比田井=刀の地の泉(池)。春日=鉄磨ぎ処。望月=(鉄)を集め嵌める(柄を付け加工する)製鉄地、と解ける。
 地元の研究者方の研究がいっそう進むことを願っている。

 
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