2007年9月15日号
96  牛頭天王物語 @

 昔、昔ここからはるかに遠い須弥山(しゅみせん)という山の北にケイロ界と言う所があって、そこを治めている方は白きの御門と言った。白きの御門には牛頭天王(ごずてんのう)とおっしゃる王子がおいでで、その天王にはまだお后がお決りではなかった。
 ある日のこと。天王が庭の梅の木をながめていると一羽の山鳩が飛んできて梅の木に羽を休め、さえずりはじめた。
 天王がそっとそのさえずりに耳を傾けると「釈迦羅龍宮には龍王の王女さまがいらっしゃいます。それはそれは美しいお方で、その王女さまこそ天王さまのお后にふさわしいお方でございます」
と、言っているように聞こえた。
 山鳩のさえずりを聞いた時から天王はまだ見ぬ王女をいとおしく思い、王女を娶ろうと心に決め、南海の方面をめざして出発した。
 やがて、午後になると天王はお疲れになられた。そうこうして日もとっぷりと暮れたころ、ちょうどそこにたいそう豊かそうな屋敷があったので、天王はその家の戸を叩いた。
 主人の名は小丹長者と言うそうな。
 天王が「一夜の宿をお貸しくだされ」と頼むと、長者は天王を見るなり「見ず知らずの者を泊めることはできん」とつっぱねてしまった。天王は「それでも、なんとか泊めてはくれまいか」と頼むのだが、長者は「だめだと言ったらだめだっ」と声を荒らげ、そばにいた者たちに「旅の者を追い出せっ」と命じた。
 長者の屋敷を追われた天王が門の外に出ると女人がいたので、天王が「私に宿を貸してはくれまいか」と言うと、その女人は「わしは長者の家に仕える者です。主が貸さないと言っているのに、お貸ししたくてもお貸しできません」と目を伏せた。

 
2007年9月22日号
97  牛頭天王物語 A

「主の悪口を言うのはいやですが、長者は人の悲しみや困っている人がいても気の毒に思うこともありません……。そうそう、ここから東に一里(約4q)ほど行った所でお宿をお借りなさいませ」と、女人は言った。
 一里ほど行くと松林があり、その中の一本はこんもりと繁っていて夜露がしのげそうであった。
 その時、不意に木陰から品のいい女人が現れた。天王が「この木の下で一夜を過ごしたい」と言うと、「私は松の精です。ここから東に一万里(約4万q)ほど行きますと、とても親切な人がいますので、そこで宿をお借りなさいませ」と女人が教えてくれたので、そこに行くことにした。
 そして、その家の戸を叩くと主が出てきた。
 天王が「一夜の宿を貸してくだされ」と頼むと、主は「私は蘇民将来と申します。お見受けするところ、あなたさまは立派な身なりをしていらっしゃいます。私はそれはそれは貧しくて、あなたさまのようなお方にお出しする食事も寝所もありません」と言った。天王が「どうか宿をお貸しくだされ、あなたが食べている食事をいただけ、あなたと同じような布団でよろしいのです」と言うと、蘇民将来は「少しお待ちくださいませ」と言いながら急いで部屋をかたずけ、そこに粟がらを敷き干した莚を敷いて寝所の用意をし、夕飯は粟飯のごちそうをした。こうしたもてなしのお陰で天王は旅の疲れがすっかりとれたのだった。
 翌朝、いざ出発という時に蘇民将来が、「あなたさまはどちらに行かれるのですか」と天王にお聞きになると、天王は「私は釈迦羅龍宮の王女に恋をしてしまいました。そこで、王女に会いたくて南海にある龍宮をめざして旅をしている者です」と、おっしゃった。

 
2007年9月29日号
98  牛頭天王物語 B

 天王はなおも言葉を続けられた。「小丹長者は裕福な暮しをしているのに一夜の宿も貸してくれなかった。だから長者を罰し滅ぼしてしまおう」と言われた。すると蘇民将来は「長者のよ、よ、嫁は、私の娘です。どうか私の娘だけはお除きくださいますように」と強く頼んだところ、天王は「そうであったか。では、柳の木でお札を作り『蘇民将来之子孫也』と書いて、男は左側、女は右側に掛けておきなさい。それを目印として許してやろう」とおっしゃり、再び南海をめざして出発したのであった。
 その後、天王は釈迦羅龍宮の王女に出会い結婚されて、12年のうちに8人の王子をもうけて南海からの帰国の途についた。
 天王の従者は、なんと、9万8千人と、大所帯の数になっていた。
 蘇民将来はこのうわさを聞いて、金の宮殿を造り天王が通られるのを待った。
 いよいよ天王が到着され蘇民将来がお出迎えすると、天王はびっくりなさって「これはどうしたことなのですか」と尋ねられた。
「あなたさまがかつてお通りなされた後、天から宝が降り地から泉が湧き、とても裕福になりました。ですからあなたさまを3日間お泊めしたいのです」と蘇民将来は申し上げた。
 天王はそこにお泊りの内に小丹長者の様子を窺わせた。すると、長者はやはり天王の帰国を聞き「魔王が通る」と言って、四方に鉄の塀を築き、上空には鉄の網を張り屋敷を守り固めていて、侵入するすき間はなかった。けれど、さすがの長者も水の出る所にはなんの防備もなかったので、天王の大勢の従者達はそこから侵入し、小丹長者の一族を滅ぼしてしまった。
 小丹長者の子孫は一人も生き残れなかったが、その時から、蘇民将来の子孫は許され、繁栄したという。

 
2007年10月6日号
99  牛頭天王物語 おはなしの解説@

 この物語は、信濃国分寺に伝わる「牛頭天王之祭文」を塩入法道住職が口語訳したものを元にしているが、お話を進める都合上、内容の一部を前後して再話をしている。
「牛頭天王之祭文」は、信濃国分寺所蔵のもので室町時代中期に書写されているということである。
 さて、「祭文」とは、神仏に対して祈願や讃歎(さんたん)の心を述べる文章で、神社では祝詞と言い、天台宗では法則と言う。
 また、牛頭天王は古代インドの国にあった、祇園精舎(釈尊やその弟子達のために造られた寺院)の守護神とされているが、この物語の主人公の牛頭天王は薬師如来の化身とも言われる一方で、牛の角をはやしたり、小さな牛を頭頂に掲げた憤怒の相の姿で表現され、除疫神として、京都市祇園の八坂神社などに祀られている。また、『日本書紀』や『古事記』に現れるスサノヲとも習合している。おそらく職能が共通していることが根底にあると思われるが、その事は後に記したい。
 信濃国分寺は八日堂として広く知られている。1月7日の夜から8日にかけての縁日の賑わいは有名で、
小さい頃、縁日にはかならずと言っていいほど出掛けた。薬師如来さまに一年中の健康をお願いした後に蘓民将来符を買い求めた。その護符の姿は六角柱で頭頂部近くに切れ込みがあり、
その上は六角円錐型とでも言えばよいのかしらん、そうした形をし、寺の護符は蘓民将来子孫人也、大福、
長者等の文字だけである。檀信徒で作られるものには文字と七福人の絵が描かれている。
 お気づきであろうか、お話の中の蘇民将来の「そ」を「蘇」と表し、寺の護符では「そ」を「蘓」と書いている。寺の伝統的な字使いなのであえてそう記した。

 
2007年10月13日号
100  牛頭天王物語 おはなしの解説A

「蘓民将来子孫人也」と書かれた護符の材はドロヤナギだそうである。柳は薬木とする所もあるそうだが、 その生命力には驚かされることが多い。それをめでたいこととしてか、しなやかな印象をよしとしてかはわからないが、正月の床の間を結び柳がひっそりと飾る。
 護符を持っている者は災難をまぬかれ、子孫も栄えたという説話が現在形としてとらえられ、青森県から長崎県壱岐島まで各地にこの信仰が残されている。
 近くでは、佐久市下塚原の妙楽寺や同じく佐久市の新海三社神社に木札のものがある。また、三重県の二見町に旅をした時、将棋の駒形に文字が書かれてしめ縄に付けてあったのを見た。もう一つは、京都市祇園の八坂神社の祇園祭に出る各鉾町の粽にも紙の護符が付けてある。これは京都市出身の本山ケイ子さんから長いこと頂戴していた。
 蘇民信仰は古くからのものであるが最古とされる護符は京都府長岡京市のもので、延暦10年と記された木簡と共に出土し、両面に「蘇民将来之子孫者」と墨書されていると言う。8世紀末にはすでにこの信仰があったことをこの木簡は教えている。
 平成19年1月4日の信濃毎日新聞の朝刊に千曲市八幡の東条遺跡で「蘇民将来」と書かれた木簡が県内で初めて出土し、鎌倉後期から室町時代のものとみられると報じていた。その中で新発見があった。「蘇民」の「そ」の字が、国分寺伝統の「蘓」と書かれていたことであった。
 お薬師さまのお参りの後は、母方の親類宅に寄るのが楽しみであった。当時は、玄関の大戸や障子は開け放たれ、清々しい部屋でコタツにあたり茶菓をごちそうになった。もてなしてくれたおばさんとその娘さんも母も、彼岸の里で思い出話をしているかもしれない。

 
2007年10月20日号
101  牛頭天王物語 おはなしの解説B

『日本書紀』や『古事記』に現れるスサノヲの別称が牛頭天王であることは広く知られていることであるが、『記紀』に現れるスサノヲとはどのような神であったのだろうか、雑ぱくにまとめてみた。
 イザナギが鼻を洗った時に生れたのがスサノヲである。そして「汝は海原を治めなさい」と命じられる。しかし、仰せつかった国を治めずに泣きわめき、青々とした山を枯らし、川や海をすっかり乾かしてしまったその様を見たイザナギが「どうしてお前は泣きわめくのだ」と問うと、「私は、亡き母の国、根の堅州(かたす)国に行きたい」と言って、イザナギから追放される。
 スサノヲは姉のアマテラスに別れを告げるために高天原(たかまのはら)に行き、国を奪う邪心のないことを示す誓約をして勝つ。勝ちに乗じ乱暴のかぎりを尽くしたスサノヲは高天原から追放されて新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に居たが、「この地に居たくない」と言って、とうとう赤土で舟を作り、それに乗って東に渡り、出雲国の斐伊川の川上にある鳥上の山に着いた。たまたまそこに人を呑む八岐大蛇(やまたのおろち)がいた。その八岐大蛇を退治し、国神の娘、奇稲田姫と結婚をし、ついに根の国に入る。
 韓国に旅をした方はよくご存じであろう。韓国の地図を広げて見るとわかるのだが、慶尚北道と慶尚南道の境にそびえる山がかや山である。かや山は古くは牛頭山と呼ばれ、風化された花崗岩の岩壁が連なる古代の鉄の産地であったという。
 スサノヲの別称が牛頭天王と言うからには、スサノヲは牛頭山(かや山)の辺りで製鉄を行い木々を採り尽くし、新たな進出の先としたのが出雲であったろう。
 出雲の鳥上山から流れ出る斐伊川の砂は「真砂」と呼ばれるそうで「真砂」の原意は「上等鉄」と学んでいる。

 
2007年10月27日号
102  牛頭天王物語 おはなしの解説C

 李寧熙先生によれば、スサノヲは「鉄の頭領」の意であり、牛頭天王もまた「鉄王」を表すそうである。
 ここで両者の職能の一致を見た思いがした。
 牛頭天王物語に戻ろう。この物語には「鉄」を暗示するかと思われる事柄がいくつかある。
 牛頭天王は前出の通り「鉄王」の意である。紙幅の都合上、牛頭天王の父王の別称であろうかと思われる武塔天神の名を割愛したが、「天神」もまた火や雷の神として製鉄に関わりを持っている。牛頭天王の妃「婆梨細女」も他に諸字が当てられるようであるが「細」を「セ」と読んだならば、古代韓国語の「鉄」の意となる。鉄と何かの関わりを持っていたであろう。
 次に「牛頭天王祭文」の口語訳では「私が人間の姿に見えましょうか。雨風を着物として、松の木を本体として過ごしてきた者です」とある文章を、物語では「私は松の精です」と意訳させてもらった箇所がある。この「松」は製鉄、鍛冶にとって不可欠な物で、しかも上等材とされる松炭の「松」を暗示しているかと思われる。
 また、小丹長者と蘇民将来を富める者と貧しい者、非情な人物と温情ある人物として対比させている。それは文学(昔話から創作まで)上、よく用いられる手法ではあるが、両者は互いに親戚関係にあることを思い出し、名前をよくよく見た。小丹長者の「小」も鉄の意がある。長者の「長」は大きな存在から、鉄鉱石から砂鉄までを表すと学んでいる。物語の中でも長者は防ぎょの為に鉄の加工品をふんだんに使っている。蘇民の「蘇」も「鉄」を表す「ソ」と同音である。
 同じ職能であっても人生の浮き沈みのあったことを端的に表し、戒めの行為は魔除けにと繋がるのであろうか。

 
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