2007年11月3日号
103  八面大王 伝承地を行く@

 安曇野には八面大王に関わる伝承地や伝説が沢山ある。また、八面大王を退治したといわれる坂上田村麻呂が中興したり祈願をした寺や神社の数も多くある。
 坂上田村麻呂は桓武天皇が征夷大将軍として派遣した人物である。
 さて、八面大王って何者なのだろうか。長いこと気になっていた。心に刻んだ大王伝説をかかえ、大王の真の姿を求めて伝承地を歩いた。
 大町市の源汲(げんゆう)には次のようなお話がある。
 昔々、鹿島川の上流に鬼が住んでいて、その名を八面大王と言った。大王は、時々子分を引き連れて村人の作った米や野菜を奪いに来るので村人達は毎日びくびくして暮していた。そんな時、田村将軍が通りかかり村人に大王を退治することを約束した。そして、源汲の上手(わで)にある鍛冶屋で剣を作らせていた。すると、
それを知った大王は住み処の石をつかみ取って鍛冶屋めがけて投げつけたそうな。
 投げつけた石とは赤茶色の柱状節理の矢沢石で「立石」と呼ばれていたが、別荘の開発が進んだ時に「立石」の姿は無くなっている。
 かつて、「立石」が立っていた近くの森に金山神社がある。
 前出の場所を教えてくださったのは源汲の槌市さんであったが、槌市さんのご先祖は鍛冶師かしらんと思ったりした。帰り道、里山の風景につかり「村のかじや」の唱歌を口ずさんで歩いた覚えがある。
 大町の八面大王伝説は、朝廷にそむいたとがで征伐されたとは言っていないが、田村将軍に退治されたとの伝承から朝廷との確執があったのだろうか。
 旧穂高町にも八面大王伝説は沢山ある。魏石鬼八面大王という鬼がいて手下の鬼たちと村々を荒しまわっていたけれど、田村将軍に打ちとられてしまった。

 
2007年11月10日号
104  八面大王 伝承地を行くA

 退治された八面大王の体はバラバラにされ、足を埋めたとされるのが「立足」の地名として残り、胴を埋めた二つの「大王神社」(大王わさび田と狐島)耳を埋めた「耳塚」。この「耳塚」は「大塚」の別称のあることから、安曇地方の支配者の古墳説が有力である。
 この他に大王が立てこもったと言われる「魏石鬼(ぎしき)の窟」が有明神社の隣の正福寺境内から続く山道を行った所にある。この窟の正体は6、7世紀頃の古墳で、巨大な花崗岩を天井にした横穴式石棺で全国的にも珍しい。この辺りは花崗岩の風化した砂だらけである。
 その他、松本市の筑摩神社境内に「首塚」が、大王の頭を埋めたとされる明科の「塔の原」等まだ沢山の大王ゆかりの地がある。
 ここ穂高の地に来たら、穂高神社に寄りたくなる。
 烏川扇状地の末端に日本アルプスを背景に東向きに建つのが穂高神社である。祭神は穂高見命、瓊々杵尊、綿津見命としている。また延喜式内社で「穂高神社大明神」と記され、安曇氏が奉斎したと言う。
 奥宮は上高地明神池畔に座している。大明神を奉斎したのは、海神(わたつみ)系の安曇族で北九州に栄え大陸とも交渉をもち、高い文化を持つ氏族であったと穂高神社略記にある。
 境内の摂社の数がこれまた沢山ある。古代韓国語に当てはめると「鉄磨ぎの間」と読める鹿島社、「フイゴの地」と読める八幡社の祭神誉田別命、「砂鉄の野の男」と読める八坂社の素戔鳴尊等製鉄、鍛冶に関わる神々が揃っておられる。
 また宝物の中に機織具と鉄製の鍬がある。先人達の生業状態を表している。
 本宮と奥宮の例大祭は御船神事である。本宮では勇壮なお船祭で、奥宮は平安朝さながらに優雅に行われる。祭は来し方を残していると思われる。

 
2007年11月17日号
105  八面大王 伝承地を行くB

 穂高神社界わいを歩くうち等々力という地名に出っくわした。その刹那、等々力が鉄に関わる地名であろうと感じ、記憶のポケットを開けた。トドロキとは、古代韓国語の「打つ」「叩く」の意の「ドゥドゥリダ」(語幹はドゥドゥ)が日本語になった言葉であろうと直感したので直ぐに地形と小字名を調べた。
 等々力は穂高川と万水川(よろずいがわ)の自然堤防上に発達した所で、背後には烏川が流れ、縄文式土器や弥生式土器が出土しており、古くから開発された所である。等々力城跡などは、穂高川とざぼり川の合流点近くにある。まさに城跡は砂鉄の採れる三角地帯にあるのには驚いた。また驚いたことには製鉄に関わるとみられる、半尾・牛喰・桜畑の小字名の他に等々力姓と望月姓までがあった。
 三角地帯のど真ん中で製鉄、鍛冶の名残を見つけた。
 後日、李寧熙先生の後援会報『まなほ』の編集長に電話し、等々力の地名を話すと、直ぐに、韓国語で「トドロキ」という言葉があり、その意味たるやなんと、「やかましい」だそうである。なぜ「やかましい」か。それはもう、鍛冶場の、ふいごを吹く音やテンテン、ドンドン槌打つ響きの騒音に違いないのである。
 テレホンセミナーで小踊りするほどのお話が聞けた。
 穂高神社は別称、穂高大明神とおっしゃる。「明神」とは製鉄の神の意だとすでに学んでいる。また、安曇氏の墳墓とされる上原古墳出土の鉄剣は成分分析の結果、砂鉄から鍛造したことが解明されている。
 6世紀半頃、製鉄の技術を持った安曇氏により、中房川流域の砂鉄を採って作った、と主張する研究者もいる。穂高での製鉄炉の発見が待たれるところである。
 八面大王伝説のある大町でも古代の鉄の史料はふえてきている。

 
2007年11月24日号
106  八面大王 伝承地を行くC

 大町市平新郷の積石塚は朝鮮半島からの渡来人の墓と考えられている。その1号墓から鉄器についてのみ言えば、5口の太刀(たち)と50本の鉄鏃(てつぞく)と10本の刀子(とうす)、1個の轡(くつわ)が出土している。鉄器類の成分分析が出来ていないので故地からの伝来であるか当地での作であるかはわからないのである。
 大町市常盤の長畑(ながばたけ)遺跡(縄文時代〜中世まで)に製鉄遺跡としては平安時代後期から中世にかけての炉の跡やおびただしい鉄滓(かなくそ)と羽口(はぐち=鞴口・ふいごぐち)等が出ているという。炉に関しては製鉄炉と製錬炉の区別がつけ難いらしく、第一次的な製鉄炉は山の斜面に埋もれているのでは、との考えもある。
『鉄山秘書』に「一に粉鉄、二に木山」というように、この地を流れる高瀬川の砂鉄量は多くはないが、花崗岩には鉱石と違って砂鉄がほぼ遍在しているし質はいいそうである。そして、木山(木炭)も豊かである。
 大町ではもう1ヵ所、五十畑(ごしょばたけ)遺跡から小鍛冶の鉄滓とは思われないかなくそと、麻の皮をむくオカキ鉋丁ではないかと思われる鉄器が出ている。
「鉄」に関することを雑ぱくに調べただけだが、安曇地方はやはり名だたる鉄の産地であったと推測する。
 八面大王も「大王」の呼称があるところから「首長」と見て、まず間違いはなさそうである。
「八面」とは、まさか、8つの顔を持つ人物? ではないと考える。原意不明時の頼みの綱は古代韓国語で読んでみることである。
「八面」は「エェ・モ」と発音する。意味は「穢集め」で、八面大王=穢の集団の首長の等式が成り立つ。
 さぁ「穢」とはなんのことだろうか。
 日韓両国の古代の歴史や言語をきちっと認識しておられる李寧熙先生の論文をお借りする。
 (注=「穢 」は原稿では“さんずい”です)

 
2007年12月1日号
107  八面大王 伝承地を行くD

 上古代の韓国に「穢(えぇ)」と呼ばれた強力な部族国家があり、紀元前8世紀以前から、朝鮮半島北端の豆満江岸茂山の嵌入地帯の砂鉄が豊富に集まる「三日月地帯」に製鉄国を築いていた。後代、今の韓国江原道一帯の砂鉄・鉄鉱石が産出された鉄産地に南下、「東穢」または「穢国」「鉄国」などの名で製鉄を続ける一方、早くから日本列島に進出し勢力を広げていた。
『古事記』や『日本書紀』に表れる「八」または「夜」の字のつく神名、地名、人名、神宝名のほとんどは「穢」に関わりがあると見做される。
 つまり、「や」は または 人を指す日本語である。「弥」「八」「夜」「谷」「野」「矢」「耶」「陽」等の漢字で書き表されていた。
 ついでに、韓国人の根幹を成してきた古代からの、もう一つの部族をも紹介しておきたい。
 日本ではコマ・ゴモ・クマ・クモ等と呼ばれ、金・雲・隈・熊・興毛等と表記されたのは貊人である。主に高句麗及び高句麗人を指称したが、広く朝鮮半島と、そこに住む人々の総称としても使われた。
「八面大王」に戻る。
「八面大王」を「穢の集団の首長」の意としたが古代韓国語は多義語である。「八面」は「集め行く」の意もある。「八面大王」は「集め行く大王」である。
 何を集めるのか。それは清らかな水の底っこに沈んでいる花崗岩の砂鉄であろう。
「穢」は別名「鉄国」とまで言われた部族である。その「穢の集団の首長」と「集め行く大王」の意は異なるものの、鉄の場の管理者としての「八面大王」の姿が浮かび上る。「八面大王」の管理する鉄の場を坂上田村麿(朝廷)が奪い取ったことが「八面大王」討伐の真相であろうか。
 (注=「穢 」は原稿では“さんずい”です)

 
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