2007年12月8日号
108  お仙・庄兵衛・金次郎 @

 昔、昔、武石の村の奥の方に、どこからともなく、お仙、庄兵衛、金次郎(かなじろう)という、3人の姉弟がやってきて、住みつくようになったそうな。
 ところが、それまで争い事もなく静かな山里にさわぎがおきた。
 それは、ウサギやニワトリなどの家畜が、毎晩のようにひんぱんに盗まれるようになったのだ。
「困ったいね。いったい誰の仕業だず」
と里中大さわぎになった。
 物知りのじっさはこういった。
「足の跡をつけてみたらどうだいさ」
で、盗人の足跡を見つけているうちに蛇のうろこを見つけた。それも大蛇のものかと思われるでっかささ。
それに、盗まれた後には、きまって落ちているじゃないか。
 里の衆の誰もが恐ろしがった。
 それから間もなく、犯人は、どうも3人の姉弟で、しかも、大蛇の化身だという、うわさがたった。
 そこで、里の衆はひそかに集まっていろいろ相談をした。
「いっそ、大蛇を殺しちゃったらどうだ」
「いいや、たたりがあったじゃ、なお困る」
「蛇はもともと水の者ですわ。3人を神さまに祭って安気に暮らしてもらうつう案はどうでごわしょ」
と、最後に名案を言ったのは物知りのじっさだった。
 イワナやカエルやヤゴと食い物がたんとある所ということで、姉のお仙を巣栗の奥の深い渕に入れ、「お仙ヶ渕」と名づけた。
 また、すぐの弟の庄兵衛を、お仙ヶ渕から道をしばらくくだった築地原の「しょうぶ池」に住まわせ、下の弟の金次郎を築地原から少しくだった山手の権現の池に住まわせ「金次郎の池」と名付けたそうな。
 こうして3人の姉弟は渕や池の主になった。

 
2007年12月15日号
109  お仙・庄兵衛・金次郎 A

 お仙ヶ渕、しょうぶ池、金次郎池で、年1回ずつお祭をしてから、ウサギやニワトリが盗まれることはなくなった。
 ある時、一人の魚つりがお仙ヶ渕へ魚つりに出かけた。
 なかなか魚がかからなくて、半ばあきらめかけたころ、とてつもなく大きな岩魚がかかった。
 つり人はもう、うちょうてんになって、ほくほく顔で、ずんずん道をくだり、権現の金次郎池の近くまでくると、びくの大岩魚が口をきいた。
「金次郎、金次郎や、わしはとられていくわいさ。われは達者で暮らせ、達者でな」
 すると、そう言いおわるかおわらないうちに、急に空の一天がかきくもり、水おけひっくりかえしたような大雨が、ざんざか降り出した。
 つり人は、たまげたのなんのって、
「ひゃあ、このびくの大岩魚はお仙ヶ渕の主のお仙さまだっ」
と、思ったとたん、心の臓をばくらばくらさせて、お仙ヶ渕まで戻り、大岩魚を放したそうな。
 いつであったか、清らかな水の湧く村にも、大かんばつがやってきたことがあった。
 農作物への水ばかりでなく、飲み水にも困ったことがあったそうな。
 そこで、村の衆は、大蛇は水の神さまということを知っていたので、お仙ヶ渕に行ってお仙さまにお願いをした。
 その雨ごいが少々荒っぽい。
 渕に石をぶっこむわ、渕の水を干し上げるわ、とにかくこうすると、お仙さまがおこって雨を降らすんですと。
 そのききめは、たしかにあったらしい。
 お仙、庄兵衛、金次郎の姉弟は、今でも武石の奥で静かに暮らしている。

 
2007年12月22日号
110  お仙・庄兵衛・金次郎 おはなしの解説@

 よく「お仙ヶ渕」のタイトルで語られるお話を「お仙、庄兵衛、金次郎」としてみた。
 なぜかというと、この姉弟は「水」を共通のものとして、今でもしっかり手を結び合っていると実感したからである。
『ふるさとへの伝言』(武石村教育委員会)の中にある二つの伝承を一つにまとめ、さらに、現地に行ってわかったことであるが、伝承の一部と実際とのつじつまの合わない部分を訂正しつつ再話を試みた。
 お仙は水の出身の蛇や魚の化身として、民衆に親しまれてきた。それは、なぜかというと、水の「ミ」と巳(蛇は湿地を好み、水の中も泳ぐ)の「ミ」は、同音同義語だという認識が上古からあったからである。
 お仙は、巣栗の奥の「お仙ヶ渕」に祭られている。
 下の弟の金次郎は権現の金次郎池に祭られている。
 金次郎池の辺りは清らかな湧水の地で水量も非常に豊富である。
 お仙のすぐ下の弟が祭られている「しょうぶ池」がわからなかった。が、武石地域自治センターの池内万雄さんの調べで、築地原にあることがわかった。
 築地原は、金次郎池がある権現から少し上った所である。
 土地の持主である、橋詰映茂さん(86歳)をお訪ねし、案内していただいた。
 池の大部分は圃場(ほじょう)整備で田に変ったそうだけれど、池の名残りは充分に感じられた。
 池の端にあったという3体の石仏は、六地蔵さん脇の山の端に移っていた。
 秋たけなわ。石仏の上に金色の唐松の葉がはらはらと降りそそいでいた。
 姉のお仙は「お仙ヶ渕」末の金次郎は「金次郎池」と、それぞれの名を冠にしているのに、なぜ、庄兵衛だけが「しょうぶ池」なのだろう、と疑問が残った。

 
2008年1月1日号
111  お仙・庄兵衛・金次郎 おはなしの解説A

 橋詰さんの奥さんが、
「年寄衆は、しょうぶ池のことを『おしょべんけえ』と言っていた」
と、教えてくださった。
 番所河原の地名のあることから、義経や弁慶が武石を通った折に、この清らかな水を飲んでいったかもしれない。だから「おしょべんけえ」とも。
 う〜ん。それもロマンがあっていいかもしれない、と思うのだが、ここで、なぜ他の姉弟にはそれぞれ名前の付く渕や池があるのに庄兵衛にはないのか、不思議さと不満を解決したいと思い、言葉解きをしてみた。
「おしょべんけえ」の「お」は、ずばり美称であろう。
 師匠や名前に「お」を付ける例は沢山ある。
「しょべんけえ」は、庄兵衛池と言っているのであろう。
 言葉を縮めたり重ねたりすることにより、語いの音を省略あるいは独立した音になる。その結果ではないだろうか。
「おしょべんけえ」=「庄兵衛池」であろうかと推測してみた。
「おしょべんけえ」の別称「しょうぶ池」はとなると困ってしまう。
 確かに池には、しょうぶが生えていたという橋詰映茂さんの証言を心強く思った。
 以前、余里の北沢弥生さんから、ハナモモの季節にお出掛けくださいとお便りをいただいたことがあった。80歳を幾つか超えられたであろう方が便りをくださるのであるから、とても感じ入って、機会があればお会いしたいものと思っていた。
 それに余里は、古代韓国語の泉や溜池を表す「オル」が訛って、「オロ」「イリ」「ヨリ」「ユリ」と多様な言葉に成っていることを学んでいたので、興味のつきない所だと思っていた。
 初めてお会いした弥生さんのお顔は、とてもそのお年には見えなかった。

 
2008年1月12日号
112  お仙・庄兵衛・金次郎 おはなしの解説B

 つややかなお顔、身のこなしのしなやかさ、豊かな表情、いいお顔と、いい心映えの北沢弥生さんにお会いできて嬉しかった。
 いったい橋詰映茂さんご夫妻にしても弥生さんにしても、実年齢を感じさせないのは、よく体を動かしているところに、その秘密がありやしないか、そして、美味な水にもその因はあるかと思われるのだ。
 弥生さんの家の前を、清らかな余里川の流れがある。「泉川」と読める余里川もやがては武石川の清流に加わり「泉の地の川」と読める依田川にそそぐ。
 先人方は、地名を付けるに、きちっとした意味がわかっていたのだと実感する時間を頂戴した。
 余里からの道を下り、小沢根にある式内社の子檀嶺神社(こまゆみねじんじゃ)に立ち寄った。
 実は境内にある笹焼明神社を拝したかったからで、この社に関することが『小縣郡民譚集』(小山真夫著)の一番初めに「牛石」と題してある。
「一番初めに記す」という著者の心情を胸の深に置き、ペンを進めていこうと思う。
 神代の昔、武石の里、沖の平の川辺(依田川)に沿った方には葦が生え、丘辺によった方には笹が茂っていたそうな。
 ここに、此の地を開こうと牛に乗った神さまがやってこられたが、沖の入口の坂までこられると、牛は精がつき死んでしまい、そのまま石になってしまった。
 神さまは火を放って、葦原と笹原を焼きつくし開拓され、五穀のとれるようにしてくださった。
 人々はその後、神さまの留まられた小山の麓に宮を造り、笹焼明神とあがめてお祭りをしたそうな。
 牛石は元は道の真ん中にあり、牛馬に乗ってくる者は下りて通った。木材を運んで来た者が牛石の尾部の石を少し欠いたら、その口より白い乳汁が出たそうな。

 
2008年1月19日号
113  お仙・庄兵衛・金次郎 おはなしの解説C

 牛石ってどんな姿をしているのかしらん、と思うと天気回りなぞ気にもせず、即刻武石に出掛けた。
 牛石は、上田方面から長和町に向かう国道の沖の信号を左に入り、住宅地を少し行った坂の右側に説明板と共にあった。
 牛石の背の部分には、すり鉢状の小さな穴が幾つもある。
 その凹凸を見たとたん、牛石の正体を天から啓示を頂戴した思いがした。
 つい最近のこと、牛石に似た「七ッ鉢」を見てきた。
 それは、牛石の大型版ともいえるもので、中野市科野の高社山南麓にある。
「七ッ鉢」の周辺は縄文時代の遺跡が多くある所で、「七ッ鉢」は「臼」として使われたと考えられている。
 余談だが、「七ッ鉢」から直線で約2qほどの所に弥生時代の銅戈と銅鐸が出土した柳沢遺跡がある。
 さぁ、牛石と笹焼明神のことに戻ろう。
 牛石も七ッ鉢と同じように、木の実を砕いたり、すり潰す道具ではなかったろうか。
 とりあえず「牛石」を古代韓国語で読んでみたい。
「ウシイシ」の「ウシ」には「上等鉄」の意がある。「イシ」は「継続・継承」の意である。「牛石」=「上等鉄の継承」となろうか。
 次に、牛に乗ってこられ、笹原を焼かれ、耕作地を拓かれたという笹焼明神さまだが、製鉄神としての姿が神名から浮び上ってくる。
 まず「明神」は「日と月の神」とされ、製鉄神であるとされている。
「笹」は葦等の禾本科の植物を暗示しているのではないだろうか。
 弥生時代には、沼沢で育つ禾本科の植物の根に付いた鉄分を露天たたらで焼き精錬したことが定説になりつつある。
「笹」を古代韓国語で代入すれば「牛石」の語源との関連が浮び上ってくる。

 
2008年1月26日号
114  お仙・庄兵衛・金次郎 おはなしの解説D

 信濃なる ちくまの河の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ
 この歌は『万葉集』巻14東歌の中にあるものである。
 前出の中の「さざれ石」とは、本来は単に「細かな砂」を指すものではなく、「笹」と同音の「ササ」、つまり「砂鉄」を表す。「焼」は鍛鉄を得る時も、砂鉄と炭を交互に製鉄釜に入れることも、小鍛冶で熱することも「焼」である。「笹焼明神」とは「鉄焼の神」のことも暗示していようかと推測するのである。
 依田川は古代韓国語で「泉の地の川」と読めることから武石の沖を拓いた祖神は依田川の豊富な砂鉄にも目をつけていたであろう。
 千曲市郡地区に武石の明神と同名の笹焼神社がある。 
 この社は、八幡神が前進するための祓神が祭られているが、実は、後方の佐野山は褐鉄鉱床があるし、黄鉄鉱の産出する山もある。
「佐野山」を古代韓国語で読めば「鉄野の山」となる。語源通りに「鉄」の産出がある。両社の「笹焼」は「鉄」に強く根を引くものであろうと再認識をした。『小縣郡民譚集』の著者が第1ページに祖神のことを飾った深い思いがよーく理解できるのである。
 前出の著者、小山真夫さんは、武石の上平から出土した巴形銅器に関わりを持っていると記憶している。
 この銅器は盾などの飾り金具と考えられていて、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて見られるが、数は少ないそうである。
 銅器類は偶然による発見が多い。どのような祈りに使われたのか興味深い。
 金属に関わりを持つものはまだある。それは、月と星で、それを屋根棟に頂く妙見寺である。月は製鉄を表し、星は砂鉄を表す。
 妙見神は多氏の氏神と言われる。その土地の古代を探れば、必ず鉄との関わりがあぶり出される。

 
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