2008年2月2日号
115  金太郎物語 おはなしと解説@

 足柄山の金太郎/けだものあつめて/すもうのけいこ/ハッケヨイヨイノコッタ/ハッケヨイヨイノコッタ
 童謡に歌われ絵本にも描かれ、五月人形の題材にとこと欠かない金太郎の絵を描いて、と言われたならば、丸顔に髪を短く切りそろえた禿頭を描く。そして筋肉のもり上った腕や足、血色のよさを強調して体中に紅色をぬり、最後に、丸に金印の腹掛けをしたら、はじけるような健康体の童が仕上るはずである。
 金太郎(金時・金公)伝説は神奈川県、静岡県、京都府、滋賀県だけかと思ったが、県内の旧八坂村(現大町市)上籠(あげろう)にもあった。
 昔、紅葉鬼人という赤い顔をした女人が、八坂村の一番高い山に棲んでいた。
 紅葉鬼人は有明山に棲んでいた八面大王と恋仲になり、ついに大王の子を宿し、月満ちて生れたのが金太郎である。金太郎は山の麓の池で産湯を使ったときから力持で、北の戸隠山の悪鬼を源頼光と共に退治した。それ以来「坂田の金時」と名乗って頼光の四天王の一人となったそうな。
 金太郎が育ったとされる大姥山(おおばやま・金時山)の洞窟の天井にある裂け目に耳をあてると、なんと、波の音が聞こえ、新潟県糸魚川市青海(おうみ)の上路(あげろ)まで抜けていると言われている。
 一方、青海町上路には「上路山姥の洞」の伝説があり、白鳥山の中腹に山姥の棲む洞があり、この洞は八坂の大姥山に通じていると言われている。
 金太郎の母親は紅葉鬼人であるとか山姥、大姥等の三説があるが、次の話は山姥が金太郎を産んだ後、大町の市野屋へ酒つぎ(買い)に行った時、1合(約180ml)も入らない徳利を出して3斗(約54g)入れてくれと言うので、酒屋は首を傾げながらつぐと、なんと、3斗ちょうど入ったそうな。

 
2008年2月9日号
116  金太郎物語 おはなしと解説A

 何年か前に八坂の金太郎伝説のある大姥山や上籠集落に行ってみた。
 水量豊かな犀川のほとりに大姥神社(前宮)があり、神社内には、大鎌を描いた絵馬が奉納されていた。
 大姥さまは子育ての神さまで、子どもが夜泣き(カンの虫)をして困る時、大姥さまの鎌(ムシキリ鎌)を借りてきて、それでお腹をなでると治るそうな。お礼には鎌を2丁に増やして返す。さもないと、また夜泣きが始まるという。
 手にまさかりを持った金太郎(案内板)が大姥山まで案内をしてくれた。
 途中、「産羅(うぶら)川」の地名を見つけた。
 金太郎の出生に因むものかと考え、川の砂鉄量を観ると、結構、砂鉄の量は多かった。
 産羅川を後にし、次は「金太郎の産池(うぶいけ)」に寄った。
 大きなヒノキの根元に半円形の湧水池があった。これが産池だそうな。
 産池から少し上った所に駐車場とトイレがある。
 車を降りると、春のやわらかな風が谷から吹き上ってきた。
 ふっと後ろを見ると、案内板からぬけ出した金太郎ちゃんが、ほほえんでいた。「あと5分歩けば大姥神社の本宮だよ」
と、しこをふみながら教えてくれた。
「ありがとう」と金太郎ちゃんの頭をなでようとしたら、金太郎ちゃんはもう、案内板の中にいた。
 妄想の世界を後にして約5分後、いよいよ本宮である。
 屋根にある「桜」の神紋を写真に撮る。「桜も鉄に関わりあるんだよね」と夫。「そう。サクラ=鉄倉って学んでいるよ」
 そうした会話をしながら本宮を後にし、いよいよ、奥宮をめざす。
 クサリ付の岩場の難所が続く、ひたすらクサリを頼りに岩場をよじ登った。

 
2008年2月16日号
117  金太郎物語 おはなしと解説B

 最後の難所は、一方は山肌が迫り、もう一方は急斜面という場所に細い道が続く。両手でバランスをとりながら歩くこと200mぐらい、やっと、大姥神社奥宮のある大穴に着いた。
 大穴は、横30m、高さ10m、奥行6mで、大穴を構成する岩は砂岩である。足元は風化の進んだ砂岩が堆積し、非常に歩きにくかった。
 大穴の奥には、夜泣きが治った子どもの親たちが奉納した鎌が何丁かあった。古い物らしく、真っ赤に錆ていた。
 伝説では、この大穴に大姥さまが住み、金太郎が生れたとされ、いまだに、金太郎の産衣が岩上にかかっているそうな。
 金太郎と熊が相撲をとって遊んだとされる「熊穴」が大穴の真下にあり、大姥さまが金太郎を育てたり、
酒つぎに出掛ける時に預けた「岩つぐら」も大穴の西の崖の上にあると聞いていたので行って見たかったが、「滑落注意!慎重に!」と書かれた大姥山トレッキングマップの文句が頭をよぎり、とうとうあきらめた。
 大姥さまは、にぎやかなことが大変好きであったそうな。
 春の例大祭の前夜、花火を打ち上げるそうである。
 また、かつての大姥山は中腹にある神社より奥は、女人禁制であって、女人が足を踏み入れると、山が荒れに荒れ、ぬける(地すべり)と言われ、地元の女性は山に足を踏み入れなかったそうである。
 さぁ、この伝承のどこが「鉄」に関わりあるだろうか、それを探ってみよう。
 まず、夜泣きが治ったお礼鎌を奉納する伝承であるが、夜泣きのやかましさは、ずばり鍛冶場の作業の賑やかさや煩(うる)ささを形容したものに違いない。
 夜泣きは眠りについている家中の者を叩き起こしてしまうほどの威力がある。

 
2008年2月23日号
118  金太郎物語 おはなしと解説C

 まず「大姥さま」の「大姥」を読んでみよう。
「大」は大きな存在を表す、首長級の人物であったり、あるいは、シャーマン的な要素を持つ人物を表す可能性がある他、「大」は「多」にも通じる。
 多氏一族は早くから日本に進出してきた鉄作りの大集団で、その故地は朝鮮半島北端の地から後に南下して「東穢」「穢国」「鉄国」等の名で製鉄を続けた。
 次に「姥(うば)」は、古代韓国語の「ウパ」の酷似音と筆者はとらえ、その意は「伏せて」「ひっくり返して」で、その行為は鍛鉄、つまり、鉄をきたえる事に他ならないのである。「大姥」=「穢の鍛冶師」の等式が成り立つ。
 語気を強く「穢の」と言う理由は、八坂の地名にある。八面大王でも解説したが、「八」「夜」の付く神名、神宝、地名は「穢」のことと見做されているからで「八坂」とは「穢の鉄磨ぎ」と読める。
 大姥さまは、にぎやかなことが好きだと伝わっているが、これは鍛冶場のにぎやかさを暗示したものであろうし、夜泣きを切る「鎌」も「磨ぎ間(場)」と読める。旧村内を流れる犀川は花崗岩の上等な砂鉄を運んでくる。因に犀川の意は「鉄川」で本質をぴったり言い当てたネーミングだ。
 以前、知人の石原きくよさんが「八坂に満仲と書いて『まんじゅう』と読む所があるけれど」と教えてくださったことがあった。
 満仲は旧八坂村の南に位置する集落で、筆者は「みつなか」と読んでいて、鬼無里村(現長野市)に伝わる「鬼女紅葉」伝説との関連を考えていた。
 紅葉が寵愛を受けた源経基の子が満仲であり、満仲の子が、なんと、大江山の酒呑童子を退治した源頼光で、頼光の四天王の一人が、金太郎こと、坂田の金時(金公)なのである。
(穢の文字は原文ではさんずい)

 
2008年3月1日号
119  金太郎物語 おはなしと解説C

鐵』(大谷秀志著)に、満仲(後に摂津の多田の庄〈今の兵庫県川西市〉の守となり、そこに籠居(ろうきょ)したので、多田の満仲と言われた)は、父経基の後を受け継ぎ、その任に在った。とある。川西市での伝承では、多田の開発は満仲からが定説になっているそうだが、鉄処を治めた鬼女紅葉から推してからも経基も「鉄」に関わっていたであろうと推測できるのである。
 満仲は多田から一歩も外に出ないで、ひたすら、銅や金、砂鉄を含めた鉱山の開発に力を尽くしていた。
 多田の鉱山とひと口に言うが、今の猪名川町の山あいから能勢町、箕面市、池田市、宝塚市と広範囲にわたる。その鉱山の一切を江戸時代から昭和45年まで引き受けていたのが住友家である。
 満仲からの事業をその子の頼光が引き継ぎ、頼光はさらに京都府北西部と丹後地方にある大江山の酒呑童子や近江の伊吹山の伊吹弥三郎らの製鉄の地を、鬼退治の名のもとに、のっとったであろう。鉱山の技術やその効用に詳しい頼光ならではのことである。
 頼光の四天王の一人、金太郎の出自もまた製鉄、鍛冶系の家柄の若さまであったろう。成人してからの姓は「坂田」、その意は「鉄磨ぎの地」と古代韓国語で読める。坂田家の職能を端的に表している。また、その職能を念押しするかのように、箱根町や足柄山周辺では、金太郎や山姥が眼病になったとの伝説が残されている。金太郎や山姥は、熔鉄の高温の熱を常に浴び眼を悪くしたと、伝説を伝えてきた民衆は強く訴えているのである。
 県内の大姥(山姥)金太郎伝説は旧八坂村の他に、中条村(虫倉山の山姥)南木曽町(金時童子他)青木村(有乳湯伝説)があるということを特記してこの項を終りたい。

 
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