2008年3月8日号
120  日本武尊伝承 @

 日本武尊(やまとたけるのみこと)は景行天皇の御子で、幼名は小確(おうす)と言い、またの名を日本童男(やまとおぐな)と言った。
 ある時、父王は、西にいる熊襲(くまそ)を打てと尊に命じた。
 尊は髪を解き童女の姿をして熊襲の酒宴にもぐり込み、酒を飲ませておいてみごと征伐した。
 そうした事もつかの間、父王は「次は東の方の荒ぶる神を打ち取れ」と言われる。
 尊は伊勢にいらっしゃる叔母さまの倭姫(やまとひめ)に、「西の熊襲を討って帰ったばかりなのに、今度は東の悪しき人どもを打てとおっしゃる。父は、私が死ねばいいと思ってるのでしょうか」と嘆かれた。倭姫は「あなたの身に危険が迫った時にお使いなさい」と、草薙の剣に火打ち石と火打ち金をくださった。
 尾張の国(愛知県)に着いて、美しいと評判の宮簀媛(みやずひめ)と、東の国から帰って来ましたならば、その時、結婚しましょうと約束をして東の方に立たれたそうな。
 その後、幾つもの難が尊を襲ったけれど、剣と火打ち石や火打ち金を使って危険をくぐりぬけてきた。けれど、走水(東京湾の入口)に来た時は嵐で海が大荒れに荒れ船が前に進まなくなった。すると、尊の愛妾である弟橘媛(おとたちばなひめ)が「私は尊をお助けしとうございます。ですからこの荒波を鎮めてもらうために海神の元にまいります」
と言い放ち、海に沈んでいった。するとどうだろう、たちまち波は穏やかになり、船はゆっくりと上総(千葉県)に着いたのである。
 尊の一行はそれから陸奥の国(青森県と岩手県の北部)の首長をとりこにして常陸の国(茨城県)を越えて甲斐の国(山梨県)の酒折宮にやってきてしばらくこの地で遊んだが、やがて富士山をめざし、花とり山の一本杉でお昼飯を食べて力をつけて出掛けたそうな。

 
2008年3月15日号
121  日本武尊伝承 A

 甲斐を出立された尊は、奥武蔵(埼玉県)の伊豆ヶ岳で猪狩をして、その記念にと樅の木を植えられ、武甲山ではなぜか武具を埋められたそうな。
 再び旅を続けられた尊は、上野国(群馬県)鬼石(おにし・藤岡市)の川上に着いた。そこで、弟橘媛の形見にと、ずっと懐に入れて身から離さずにいた髪の毛を川に流すことにした。
 髪は流れ流れて、鬼石の諏訪に流れついた。その時渕から馬に乗った神が現れ、髪をすくい上げると屏風のように切り立った岩壁を馬で駆け上り、蹄の跡を残していずくともなく消え去ったそうな。川はその後、髪流川から神流川(かんながわ)の名になり、諏訪には髪をすくい上げた神が祭られている。
 尊が碓氷の坂を登る頃、季節はすでに秋の半ばになっていた。山には霧がたちこめ、どちらに行ったらよいものかと思案にくれ立ちつくしておられたその時、霧の中に鳥の羽音が微かにするではないか。
 尊が目をこらして霧の中を見ると、八咫(やた)の烏であった。烏はくわえていた梛(なぎ)の一枝を尊の足元にぽとりと落した。どうもその様子が(道案内をしましょう)と言っているようにとれたのである。
 烏が低く飛ぶと、その所の濃い霧がだんだんに晴れ、坂の頂上に無事お着きになられた。
 そこで尊は
「先祖の神武帝は八咫烏(やたがらす)に導かれて熊野山を越えた。今、私は東の方を平にした。八咫烏はめでたい印として現れたのだ」
とおっしゃられ、この地に熊野の社を勧請され、八咫烏はそれから熊野神社の一族としてあがめられるようになったそうな。
 その時、霧がいつまでも残った谷は霧積、烏のとまった岩は烏岩、尊が東の方をふり返り「吾妻者耶(あずまはや)」と嘆かれた峰は今も留夫山(とめぶやま)と呼ばれている。

 
2008年3月22日号
122  日本武尊伝承 B

 尊は上野の国をくまなくお歩きになったのか、群馬県には尊の伝承が多く残っている。
 前橋市横山町の小石神社には、神宝とされている赤い大石がある。尊が橘山(勢多郡北橘村)に登られ、はるか房総の海の方をながめ、「姫恋し」と何度も言われ、腰を下ろされたのがその赤い大石であったと伝えられている。
 また、沼田城主の沼田氏の遠祖は尊であるそうな。沼田の里に半年ほどお住いなさり、御諸別(みもろわけ)王の女を妃となされたとの伝承がある。
 沼田の続きのみなかみ町にある上州武尊(ほたか)山は尊が登ったという伝説があり、山頂近くには尊の像が建っているという。尊の別称、小童と同名のスキー場もある。
 いよいよ尊は嬬恋村を越え、鳥居峠から信濃に入ったのだろうか。
 この地でも弟橘媛をしのんで「吾妻者耶」と言われたのか、群馬県吾妻郡嬬恋村と上田市真田町にまたがる四阿山(吾妻山)にその名が残っている。
 尊は峠越えをされ、さぞかし咽が渇いたことであろう。山家神社の井で咽を潤したのである。そして、そこから少し先の竹室の里に寄られた時、里人が木の枝を折って仮屋を造ってさしあげた。その折に尊がお立ちになった足跡が神足石として残っている。
 尊はなおも道中を進め、赤坂の滝の宮まで来た。一休みしようと前方を見ると、石の上に明神が現れ「尊!賊がいますぞ。矢を放たれませ」
と、告げられた。
 尊が急ぎ大きな矢を放つと賊は退散して行った。
「急場をお救いくださいましてありがとうございます。ところで、あなたさまのお名は?」
と尊が問うた。
「私は諏訪明神である」
と言ったかと思うと、たちまちに姿を消されたそうな。

 
2008年3月29日号
123  日本武尊伝承 C

 尊は諏訪明神が立たれた石の上に御酒を供え、感謝の気持を表したそうな。
 この大きな石を御座石と呼び、石の上には台跡、御膝跡、御沓の跡が残っていると言われる。また尊の放った矢は石と化し、その一つは矢沢の良泉寺の門前に「矢石」の名で残っている。
 やがて尊は童女堰伝いに馬を進めたのだろうか、東御市の白鳥神社に祭神として名を残し、さらに、旧望月町の大伴神社に苦労を共にしてきた武日連(たけひのむらじ)を祭神として残した。その後尊は諏訪に出ようと大河原峠に差しかかられた。すると、白装束を着付けた雄々しい武将が白馬に跨って一行を先導して行くではないか。尊は不思議に思われて従者に尋ねさせると「私は諏訪明神である」と答えられ消えたそうな。
 殿城の赤坂から川西の小泉も尊通過の道の一つであったのだろうか。小泉の天白山に鎮座する大神に日本武尊は桑の生弓を奉じた。その足で別所温泉に寄られ、7ヵ所の温泉を開き入浴遊ばされ、「長い年月の沢山の苦しみが離れた」と愛でて、七苦離(七久里)の湯と名づけられたと言う。
 尊はその後、青木峠を越え松本に出られたのであろうか。松本市中山の科野木権現に祭神として足跡を残している。御神体は火打ち石で「おがん原」(遥拝所)が何ヵ所かある。
 下伊那郡阿智村には地名にまつわる尊伝説がある。
 神坂峠は山が深く、霧も濃くかかり方向を見失った。その時、大きな白鹿が現れ、行く手を遮った。
 尊はとっさに噛んでいた蒜(ひる=のびる)を白鹿めがけ投げつけると、蒜は鹿の目に当り、たちどころに鹿は退散した。が、一層濃い霧が立ちこめ、山中をさまようよりほかに道はないかと思われた時、一匹の白狛(犬)が現れ、尊を人里まで案内してくれたのだった。

 
2008年4月5日号
124  日本武尊伝承 D

 尊はようやくのことで、宮簀媛(みやずひめ)の元に帰り、結婚し、しばらくその地にとどまっていたけれど、近江の伊吹山に荒ぶる神がいると聞き、「刀などいらぬわい、その山の神を素手でとっつかまえてしんぜよう」と刀を置いて山に登った。その途中で牛ほどもある白猪(『紀』では大蛇)に出合い白猪に向って「帰りにはきっと討つぞ」と言い放って山を登って行くうち、ビシバシと雹は降るわ、そのうちにみぞれになるわで体がすっかり冷えきり、さんざんなめにあって山を下ったのであった。そして、ようやくのことで麓に湧く泉にたどりつき、清水で咽をうるおし、体と心を回復された。その泉を「居醒(いさめ)の清水」と名づけたそうな。
 尊は居醒の清水を立って当芸野(たぎの・岐阜県養老)に来た時、
「どうも私の足がおぼつかなくて、歩がはかどらなくて困った」
と、おっしゃられ、それから少し先の三重(三重県三重郡)の村に来た時
「私の足は三重の勾(まかり)のように疲れはててしまった」
とおおせになった。
 能煩野(のぼの・鈴鹿郡)に着いたらば、痛みは絶頂に達した。そこで父王に使いを立て、
「背く者を従わせ、荒ぶる神を伏しましてございます」とお伝えになると、病にわかにあらたまり、
お亡くなりになられた。
その事をお知りになったお后や御子のお嘆きはいかばかりであったろうか。やがて尊は、陵から大白鳥になって空を翔けて行ったそうな。

 
2008年4月12日号
125  日本武尊伝承 おはなしの解説1

 初めに、「おはなし」の大筋は『日本書紀』と『古事記』からの部分を訳し記しているので、日本武尊名やその他の人名はカタカナ書が妥当であろうけれど、祭神名、神社縁起等『紀』の文字を用いていることが多く見受けられることから、本稿も『紀』の表記を使っている。
 また、東征への道筋であるとか、内容についても『記紀』の違いはあるのだが、厳密な経路や内容を追求することが目的ではないので、その辺りのこともお許しいただいて、ペンを進めて行きたい。
 さて、尊は熱田の宮簀媛(みやずひめ)との「婚約」という支援を手中に納め、東国の服(まつろ)わぬ人々を従わせに東北のどの辺りまで行ったのか、旅の真相は何なのか、その途路にどんなことがあったのか、各地の伝承はどういったことを語っているのかを所々で探ってみたい。
 今の房総半島で船を下りた尊は千葉県、茨城県へと歩を進め始めた。
『常陸国風土記』には「倭武天皇の后が大和から下って来て、二人が出会った地を安布賀(あふか)の村と言う」とある。今の潮来市大賀辺りを言うが、北浦の対岸鹿嶋市には古くからの製鉄関連遺跡が沢山ある。
 その事実を証明するかのように前出の風土記に「若松の浜(神栖市・かみすし)の砂鉄を採って、剣を造った。30里(約120q)は皆松山で安是湖(あぜのみなと・利根川の河口)にある砂鉄で剣を造ればとても鋭い剣が出来る」とある。

 
2008年4月19日号
126  日本武尊伝承 おはなしの解説2

 利根川の河口一帯は上古の昔、名だたる上等鉄の製鉄地であった。
 その地を尊が見逃すはずがない。土地の神が征伐されたとか恭順したとの伝承はないけれど、多分、尊はこの地を平にして行ったものと考えられる。
 東北において征伐したことで著名なものがある。今の福島県東白川郡棚倉町八槻のこととして『風土記』の逸文(陸奥の国)のなかに、「昔、この地に8種族の土蜘蛛が住んでいて、各々8ヶ所の要害の地に住み服従することはなかった。しかし、尊は8発の矢をもって8人の首長を倒した」とある。
 軽井沢の雲場の池に大蜘蛛の話があるし、上田市小泉には小蜘蛛の話があるが、土蜘蛛や大小蜘蛛にしても渡来の熊、雲と称される部族を指称していると考えている。土蜘蛛は高度の製鉄技術者集団で、その地を尊は奪い取った。技術者の何人かは俘囚として尊の目的のために同行して行ったであろう。
 その後、尊の一行はどこまで北上して行っただろうか。
 岩手県一関市の配志和(はしわ)神社に縁起があることから、そこまで行ったと言うのが一般的ではあったが、尊はもっと先の釜石市まで行っていた。
 釜石湾の南面、尾崎半島の尾崎神社の祭神は尊で、奥の院の御神体は、石に刺した鉄剣。尊は奥の院まで来られた記念に剣を石に立て小松浜から船で常陸の国へ行かれたそうな。

 
2008年4月26日号
127  日本武尊伝承 おはなしの解説3

 尾崎神社奥の院の御神体を写真(NHK『歴史への招待』)で見るかぎり、御神体の鉄剣の刺さる石は金床石の感がある。
 奥の院の青出は、昔、砂浜であったが、明治の大津波により、石ごろの浜になった。風の大変強い所だと神社の佐々木郁子さんは言う。
 それに尾崎神社は、尊伝承の最東端であり最北端でもあるそうな。
 尊は尾崎半島を始めとして、北上山地が磁鉄鉱や金、砂鉄の豊富な場所であることを知っていてやってきたのである。
 浜砂鉄あり、自然のフイゴありの半島を平にし、岬の突端から常陸へと船出して行ったと伝承は伝えている。
 釜石から30qほど北上した山田町の荒神社の宮司さんにしても佐々木さんにしてもだが、日本武尊と言えば、直ぐに、「製鉄と関わりがある」とおっしゃるし、橋野高炉の建設者は大島高任で、釜石は鉄鉱石が豊か、しかも、尾崎半島では戦後もマンガン(鉄に似ているが鉄より軟らかい。鉄や銅との合金として用いれば硬度は強い)が採れたそうである。明快に釜石の案内をしてくださる佐々木さんには助けていただく事ばかりである。
 すでにお気づきであろうけれど、尊が東の国の平定と称して歩かれた道筋には鉱山や製鉄地が多く存在するし、製鉄に必要な「泉」に関わる尊伝承もおびただしいほどの数になる。
 父王はそれらの地を「奪ってこい」と命じたのであろう。

 
2008年5月3日号
128  日本武尊伝承 おはなしの解説4

 尊が東の国の奥からの帰路、福島県と栃木県境の八溝(やみぞ)山系を歩いただろうか。そこには太子鉱山があったし、明治まで採掘が盛んであった。また質のいい黒御影石は有名である。
 日光の南の石裂(おざく)山の麓にも尊は祭られており、近くの足尾銅山も忘れがたい。
 石裂山を後にした尊は沼田の奥の上州武尊(ほたか)山にも寄られたのか、その麓にも祭られ、しかも、頂上には尊の石像があるという。
 次はみなかみ町。大峰山に登った尊は四方の景色をごらんになった。赤城山と子持山連山の手前に大沼があった。尊は、この沼を干せば民人は喜んでくれるであろうと思い、赤城山と子持山の間の少し低くなっている所を切り取り水を落されたそうな。
 その時、諏訪明神も力を貸され、沼に古くから棲む大蛇を退治し、広い原が出来た。そこが、今の沼田である。沼田で尊が干拓の神と呼ばれる所以であるが尊の通られた頃、沼田ではまだ古い製鉄(褐鉄鉱)方法にたよる集団が居たのではないだろうか。新しい製鉄方法を教える時、諏訪明神の大きな支援があったものとみられる。
 その後、尊は赤城山の神を拝まれたそうな。赤城山の明神は尊が立ち打ち出来るような相手ではなかったのであろう。「アカギ」を古代韓国語に代入すると「最高磨ぎの城」と読める。
 赤城山麓には製鉄遺跡が出ている。

 
2008年5月17日号
129  日本武尊伝承 おはなしの解説5

 鉄処を押えれば天下も制する。稲も豊かに稔ってほしい。養蚕も大切な産業の一つだ。今は下火になってしまった養蚕だが、それでも群馬の養蚕は日本一である。
 幼児期に着物のことを「べべ」と言っていた人びとが多かろうと思う。「べ」とは古代韓国語で、「布」の意があると学んでいる。着物は布と布を縫い合せた物であるから、「べ」と「べ」を重ねて「べべ」と言ったのであろう。幼児語の中にもしっかりと古代韓国語が残っている。
 尊は織物の町、桐生を通り館林に出ただろうか。館林には武尊社と多々良沼の存在がある。
 そして、埼玉県に入ると、古利根川(徳川幕府が利根川を銚子の方へと川筋を変えている)沿いに多くの尊伝承地がある。尊が船で川を上ったというよりは、古利根川の砂鉄を押えたのではないかと推測する。
 また、武蔵野台地からさいたま市にかけて帯状に尊伝承が集中している。尊が馬を繋いだとされる駒繋のケヤキ、腰掛の松、禊(みそぎ)をした泉。また、賊を追い払うために矢を射って矢追の地名がついたというような地名伝承等、枚挙にいとまがないほどである。その数のおびただしさはただ事ではない感がある。
 さぁ、次は山梨県に入る。甲斐の国も早くから渡来の人びとが住み鉄器の文化を伝えていた所だ。
 金桜神社の祭神は尊である。戦国時代、武田の騎馬軍団を支えた金、銀山が豊かな土地柄である。

 
2008年5月24日号
130  日本武尊伝承 おはなしの解説6

 尊は酒折宮で、信濃にも荒ぶる神のいるうわさを耳にして、雁坂峠を越え、奥秩父へと歩を進めただろうか。
 再び埼玉県に入る。尊伝承は引きも切らず、地図上に大豆を散らした感がある。特に興味深い伝承が2つある。その1つは宝登山(火止山)の命名である。
 尊が山に登ろうと山麓の清水で禊をし、山に向った。ところが、賊の襲撃に遭い周囲は火の海となった。尊の身が危ない。その時だ。数をも知れないほどの山犬が現れ、激しく燃える火の上に体を転がして火を鎮めてくれた。尊が礼を言おうと思った瞬間、山犬は姿を消していた。
 尊は、この山頂に山神、火の神、山犬を祭ったそうな。
 山犬は、鉱石を求めて山野を歩く鉱山師(山見とも)を暗示しているのではないだろうか。宝登山(火止山)のホトは、たたら炉で熔鉄の状態を視るための穴のことである。ともに火の神が祭られているところを見ると、火を鎮めたから、あるいは火を消したから山名が付いたのではなく、名勝長瀞のある荒川に近いこの地で製鉄が盛んに行われていて、山犬の力を借りて尊はその地を手中に納めたと見るべきではないだろうか。
 奥秩父の興味深い伝承の2つ目は、長瀞町の隣町、皆野町金沢での出来事である。尊がここまで来た時、秋の長雨で見馴川の水嵩が増えて渡れない。尊はすっかり思案に暮れ川の流れを見つめていた。

 
2008年5月31日号
131  日本武尊伝承 おはなしの解説7

 と、見馴川の渕から一頭の黒牛が現れ、尊を背に乗せ向こう岸まで渡してくれたそうな。
 そうした伝承から、この渕を牛ガ渕、地名を出牛と呼ぶようになった。近くには諏訪平の地名もある。
 見馴川の砂鉄は上等で量も多かったであろう。
「牛」を古代韓国語に代入すると「上等鉄」の意になる。また、この頃、辺り一面に萩が咲いていたので、尊は「あなうまし萩よ萩」と言い、そこに素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祭り萩宮と呼んだそうである。
 何度も記すけれど、素戔鳴は研究者の間では製鉄神と認識されている。
それを証明するかのように李寧熙先生はスサノヲ=砂鉄野の男と解読され、また、韓国式に訓んでも「鉄国の始祖」だそうである。尊は素戔鳴の正体を知っていたと思われる。
 萩の語源は剥ぐ意の「バッキ」だと学んでいるので、尊は萩をめでていたのではなく「奪え奪え」と言ったことになりはしないだろうか。
 奥秩父は石灰岩を始めとして多くの鉱物の出る地である。いくら尊が「奪え奪え」と号令を掛けても、この地の協力者があってこそ平にすることが出来たと、伝承は雄弁に語っている。
 尊はさらに歩を進め、埼玉県と群馬県境を流れる神流川(語源は鉄流川と言われている)沿の鬼石の製鉄地を手中に収め、妙義の白雲山に主神として名を残している。
 さぁ、いよいよ碓氷坂である。

 
2008年6月7日号
132  日本武尊伝承 おはなしの解説8

 碓氷峠の道筋は、3回の変遷がある。ひとつは古代から中世初期の碓氷坂、ふたつ目は近世中山道時代の旧碓氷峠、そして、国道18号線の碓氷峠である。昭和30年に軽井沢町境新田と群馬県松井田の入山との境の入山峠の鞍部で多くの石製模造祭器が発見されてこの方、この地点が原初の碓氷坂であると言われている。
 古東山道は、ここから今の軽井沢や御代田町、佐久市の下県から千曲川を渡り、旧望月町春日から雨境峠(立科町)を越え茅野市に出たと考えられている。
 そうした古代の道筋を心に刻んでおいて、尊の話に少しだけ戻ろう。
 尊は碓氷坂で八咫烏(やたがらす)に助けられている。カラスを古代韓国語に代入すると「鉄磨ぎの国」と読める。碓氷の熊野辺りを源流に流れるのが烏川で砂鉄量も多く、やがては利根川にそそぐ。
 碓氷坂には八咫の製鉄族がいたのかもしれない。伝承はその事象を伝えたかったと思われる。
 旧碓氷峠に座す熊野皇太神社は元は碓氷坂(今の入山峠)付近にあったものと推定されている。
 熊野神社から配布される烏牛王札には沢山の3本足の烏が描かれているが、なぜ3本なのかという理由は、中国の歴史までをたどってもわからないことが多い。が、ただ太陽(黒点)の中に住む鳥が烏だとされている。
 昨年からBSのテレビ番組で韓国の大型時代劇「朱蒙(ちゅも)」が始まり、面白く観ている。

 
2008年6月14日号
133  日本武尊伝承 おはなしの解説9

「朱蒙」とは高句麗(紀元前37年〜668年)の始祖東明聖王の異名で「チュモ」は「矢をよく射る者」の意だと韓国の古史書『三国遺事』に説明していると『日本語の真相』に記してあるが、物語の中でも朱蒙は矢を射るシーンが多く、古史書にある事柄が忠実に描かれていると感心した。それに鉄器工場の親方を厚く用いている場面を観るにつけ、いかに鉄器が重要であったかを思い知らされるのである。そして、国事は巫女の託宣により進められる。巫女は無くてはならない存在であるがその巫女の長が朱蒙を太陽の中に住む3足烏の化身としてとらえている。
 さぁ、尊を助けた八咫烏(やたががらす・3足烏)=碓氷坂一帯の製鉄の首長の図式が思い浮かぶ。
 いよいよ碓氷坂でのハイライト、尊が弟橘媛を偲んで、三たび「吾妻者耶(あずまはや)」と嘆かれた場面であるが『紀』では碓氷坂、『記』では神奈川県の足柄坂となっている。
「東(あずま)国」は足柄山から東北地方を指称するという簡単な認識はあったが、「はや」の意がわからなかった。
 日本語の意味不明な言葉は、まず古代韓国語に代入してみることが、ここ10年ほどの習慣になっている。それも学んだ範囲のことであって、わからないものはどうあがいてもわからないのであるが、昨年10月に「李寧熙後援会会報」が届いた。
 それによれば、「あずま」は「片田舎」の意で「はや」は「伐る」の意だと知った。

 
2008年6月21日号
134  日本武尊伝承 おはなしの解説10

「あずまはや」は「東国伐る」となる。
 なんと、尊の決意表明と、受け取れるではないか。それも3回も言ったのだから、並の決意ではない。「あずまはや」が決意表明とすると、尊は東国からの帰路ではなく、東国への入口とされる足柄坂で言ったという『記』の文言が、がぜん真実味を帯びてくる。
 ここで、もう一つの「碓氷坂」の伝承のある、群馬県吾妻郡嬬恋村と真田町との境にある鳥居峠方面に歩を進めてみることにしよう。
 吾妻郡の吾妻川沿いにも尊と関わりある神社や遺跡の多さに驚く。また、この地は尊ばかりでなく、弟橘媛や叔母の倭姫等も祭られている。「あずま」=「おばさん」の意もあるので、倭姫に因む地名でもあろうか。
 長野原の王城山の山頂には尊と諏訪明神が祭神である。尊が駐屯したことにより王城の地名があるとの伝承がある。
「鳥居峠」、ここも「碓氷坂」と伝えられている。延喜式内社、山家神社の奥宮が四阿山(吾妻山)の山頂にある。
 鳥居峠の命名については次のような事が伝えられている。
 山に向う表参道の入口に古くから尊と弟橘媛の祠があり、その前に石の鳥居があったことから鳥居峠と名付けられた。
 だが、この峠こそ、古代の碓氷坂であると主張する研究者も多い。
 ではここで、地名の語源を探る一助になればと思い「碓氷(日)」の意味を考えてみたい。

 
2008年6月28日号
135  日本武尊伝承 おはなしの解説11

『紀』の景行天皇の項に、一日に同じ胞にして双児が生れた。天皇、「碓」と叫んだ。二王、名づけて大碓、小碓と言う、とある。
 景行天皇は「うす」と叫んだのではなく、「ガル」つまり双児だと言ったのだと、李寧熙先生は解読しておられる。
「臼」の象形文字は、左右相似形である。天皇は「うす」=「双児(ガル)」だということがわかっていたのである。
 尊の幼名は小碓である。尊伝承のある麓の町名の軽井沢の「かる」は、双児の意の「ガル」と同音であるのも偶然なのだろうか。
 次に、「碓氷(日)」の「日(ヒ・ビ)」には、祈る、見るの語義が古代韓国語の中にあるので、「碓氷(日)」=「尊(双児)を祈る(見る)」とも読めるし、もう一つ「う・す・ひ(び)」の音の語義を読むと「碓氷(日)」=「上等鉄を祈る(見る)」となる。
 四阿山には白山神が座す。真田の地は、白山神が来る前から製鉄の地であったであろう。白山神はそのことを知っていたからこそやって来たのである。
 山家神社の伝承の中に、白山神がゴマで目を打ち失明したとある。言い替えれば、白山神は自ら製鉄にたずさわり、ホド穴から熔鉄の状態を視つめ失明した、であろう。
 四阿山一帯は地下資源の宝庫である。硫黄、黄鉄鉱、褐鉄鉱に石油に天然ガス、珪石に砥石に温泉と、枚挙にいとまがないほどである。

 
2008年7月5日号
136  日本武尊伝承 おはなしの解説12

 地下資源の宝庫である四阿山であるが、菅平の大明神沢の硫黄鉱毒の反対運動が稔った歴史もある。
 母は生前、「神川の水が安心して飲め、稲作が出来るのは堀込さんのお陰だ」と言っていた。
 堀込さんとは故堀込義雄さんのことで、堀込さんは旧神川村の村長、上田市長、長野県議会議員を歴任された。旧神川村村長時代に硫黄鉱毒流出阻止に多大な努力を払われた。往年、自転車に乗って役場に通う村長さんの姿を今懐かしく思い出す。硫黄鉱毒反対運動については『神と人々の水』(堀込藤一著)に詳しい。神川水系の水の安全性を守った人々のいたことを余談ではあるが記しておきたかった。
 さぁ、尊は真田の地まで下り、山家神社でひと休みされ神社の井の水を飲まれたそうな。
 真田の地の「鉄」に関わる伝承を見回せば、角間と傍陽の実相院共通の伝承がある。
 角間の鬼ヶ城に住む鬼賊が坂上田村麻呂に鉄縄をもって縛られる、というものだが、研究者の間で鬼は鍛冶師との認識がある。田村麻呂も鉄縄を使うのであるから、鉄族同士争いで、しかも田村麻呂は鬼ヶ城一帯を手中に納めた、と伝承は伝えたかったのであろう。
 角間には何度も足を運んだ。酸化第二鉄の沈殿の様子や金気(かなけ)味の水を口に含んだり砂鉄量を観たりしたが、何度来ても心ゆさぶるのは畑の石垣の作りである。

 
2008年7月12日号
137  日本武尊伝承 おはなしの解説13

 地元の倉島寿巳さんに石垣の石についてお尋ねした。石は松尾古城の山で、かさぶたを剥ぐように採れ、石垣はもとよりかまどや石橋の材として使われ「じょう石」の名があるそうだが、どの漢字を当てるのかわからないと言う。
 古城の石垣に使われていたことから推測すると「城石」と書くか「定石」と書けばいいのか推測の域を出ない。石の名称と関わりがないが、石に対する専門的な見解がほしくて、地質研究者の横山さんに調べていただくと緑色凝灰岩(グリーンタフ)であることがわかった。仄かに緑がかった部分ともろさを合せ持ち加工しやすい特徴がある。
 ある時、人伝に、角間から少し下った横沢集落の東に「フイゴの地屋敷」と読める半田屋敷の地名と鍛冶村の地名があると知ったが、鍛冶村の方は現在のところ記憶する人には出会わない。
 知人の小宮山家は昔、刀鍛冶であったとの家伝を持つ。横沢の下村に小宮山姓が多いし、一族で金山さまを大岩の上にお祭りしてあることから、金山さまを中心にしてこの辺り一帯を鍛冶村と言ったものか、半田屋敷をひっくるめた横沢集落全体を言ったものだろうか、古いことで推測の域を出ないのである。
 先の金山さまとは金山彦神のことで、岐阜県垂井町の南宮大社の主祭神である。11月8日の金山祭は通称フイゴ祭と呼ばれ、古式ゆかしく鍛錬式があり、鉱山、金属関係者が参拝に訪れる。

 
2008年7月19日号
138  日本武尊伝承 おはなしの解説14

 金山さまの裏の小宮山家の畑中に1mほどの平な石があって、鍛冶屋のホド跡だと伝えられている。一時は苗間になったりで、ホド跡石はあるのか無いのか不明で伝承のみが残っている。
 幻の石は、ひょっとしたら古城産の緑色凝灰岩ではなかったか。角間の小川に架かっている平らな石橋を思い出し、可能性を考えてみた。
 小宮山家一族の金山さまのお祭は甘酒祭(先祖祭)と言い、かつては3月8日に行った。また、小宮山家の家紋は「橘」である。
 金山さまに供え、一族で楽しむ甘酒の本意は「銑(ずく・銑鉄)」を捧げる祭ではなかったか。「銑」の語源は古代韓国語の「ジュク」で「粥」の意と学んでいる。甘酒もまた、粥状の物である。
 家紋の「橘」は垂仁天皇の時、常世国(今の済州島と比定されている)から非時香菓(ときじくのかくのこのみ・橘 《ミカン》)を持って帰った田道間守(守は新羅王子、天日槍のやしゃご。新羅は「鉄国」の別名がある)に関わる果実で、ミカンの色は鍛冶炉の火色でもある。
 元鍛冶屋であった上田市下郷の故上原宗雄さん宅では、妻の甲さんが12月8日のフイゴ祭には床の間に不動さまの掛け軸を掛け、ミカンを沢山お供えしている。
 宗雄さんは、かつて日本刀も鍛えた。鍛冶職に関わる神事も心を込めておやりになっていたと記憶する。37年前に頂いた金糞が表題をずっと導いてくれている。

 
2008年7月26日号
139  日本武尊伝承 おはなしの解説15

 上田市柳町に、真田氏が上田に出た時についてこられたとの伝承がある小宮山家がある。横沢の金山さまにのぼりをあげたり、先々代の善四郎さんの頃までは時々参詣していたそうである。
 地名に残る半田屋敷が柳町の小宮山家跡なのか証明できるものはないが、真田氏の鉄器の生産地が横沢の地であったろうか。約400年ほどたっても出自を忘れない善四郎さんの精神性の高さに感動するばかりである。
 尊が通過されたとの伝承のある真田の地は、近世まで「鉄」と関わりがあったのだ。
 尊は山家神社の井で咽を潤された後、竹室に向かう。竹室では、尊がお通りになるので木の枝で芝宮を造ったそうな。そして尊は石の上に神足跡を残された。
 石舟神社にも主神の一人として名を残す。さらに吉田堰沿いの表木神社にも名を残すと聞くが、どの祠なのかは不明である。吉田堰をさらに下り、赤坂の瀧宮神社に出る。祭神は尊の急場を救った諏訪神である。
 赤坂を古代韓国語に代入すると「最高磨ぎの鉄処(最高鉄の磨ぎ処)」と読める。語源の意を証明するかのように、赤坂の開拓者の古墳群があり、山砂鉄も豊富である。小玉原には池の名残のある空池(からいけ・今は草木が繁る)があり、製鉄に関わりのある龍の引っ越し話が伝承される。
 空池に砂鉄の多い赤井の沢水を引き、鉄穴(かんな)流しの選鉄法を用いたとの説がある。

 
2008年8月2日号
140  日本武尊伝承 おはなしの解説16

 鉄穴流(かんななが)し説は大いに賛同するが山の斜面の一部に砂鉄を採る施設がほしい。空池(からいけ)は砂鉄より比重の軽い土砂の溜り場の可能性が大きいからである。砂鉄を沈めておく池は、湧水池の瀧宮ではなかっただろうか。製鉄、鍛冶師伝承に多く登場する天目一箇を具象化した片目の魚伝承や、祭に木に取り付ける片方だけのわらじと天狗の面が登場したそうである。片方のわらじはフイゴを足で吹いたため片足を痛め、天狗は製鉄師を象徴しているであろう。
 尊は名だたる製鉄の地赤坂で諏訪明神に助けられ、その後、堰沿いに今の東御市まで歩を進めたのだろうか。白鳥神社に祭神として名を残した。
 白鳥神社の傍らを流れる千曲川は安山岩系の砂鉄が採れる。鉄漉し(選鉱)の場にはもってこいの場所である。この場を尊は目を付けていたのかもしれない。
 千曲川を渡り、名だたる鉄器(須恵器も)と駒の里に大伴武日連の名を残し、大河原峠では再び諏訪明神の導きで明神の領地、鉄の場の茅野へと入るのである。
 蓼科山には、「甲磨ぎの三男(さむらいの意も)」と読める甲賀三郎伝説があり、茅野市側には昭和40年代まで採掘した褐鉄鉱の横谷鉄山があった。現在は地名として残っている。
 上田市日向小泉の弓崎神社に尊伝承が残っている。弓崎神社の裏山の天白山(弓立山)に鎮座の素戔鳴命と御子に桑の生弓を奉じたそうな。

 
2008年8月9日号
141  日本武尊伝承 おはなしの解説17

 高校の同窓生田子作治さんが送ってくださった資料「武蔵国の日本武尊」の中に素戔鳴命(すさのおのみこと)を尊の先祖と、とらえる記述があることから推測するのであるが、尊は祖神に生弓を奉じ敬意を表したのである。
「桑の生弓」とはどのような義であろうか。
 伝承が生れた頃、日向小泉の地には桑が自生していたそうだが、伝承に百歩譲って桑の太い枝で作った弓を「生弓」としよう。けれど、東国の製鉄の地を平にして来た尊である。東国から引き抜いた製鉄、鍛冶に長けた工人を伴っていたであろう。
「桑」の裏側に隠された行為は、実は鉄を焼く(鍛える)ことではなかったか。「桑」の語源「グバ」(焼く)がそれとなく教えてくれる。
 弓と矢はセットである。鉄器の矢じりをも奉じたというのが真相ではなかっただろうか。
 素戔鳴は古代韓国語で「鉄野の男」「鉄国の始祖」また素戔鳴の別名「牛頭天王」は「鉄の頭領」であり、砂鉄を一ヵ所にまとめる「砂鉄採集場」を指す言葉でもあると学んでいることから、素戔鳴を祭る旧小泉村を筆者独自の方法で調査してみた。
 まずは、元、須々貴山(小泉山の枝尾根の一つ)の麓にあったという下之条地区の葦原淵神社に立った。山への見通しはよく、境内社の天白社の奥社も指呼の距離である。
 その場で近くの松崎正則さんに出会え、『下之条のあゆみ』(滝沢久代著)をお借りできた。

 
2008年8月23日号
142  日本武尊伝承 おはなしの解説18

 須々貴山に登った。素晴しい眺望である。産川と浦野川の合流点もしっかり見える。千曲川も白く光っている。
 この大三角地帯を見下ろす山名を古代韓国語に代入すれば「洗うこと」の意で、「鉄洗い」を表す。その頂上にある天白社の祭神が猿田彦神であるからよけいに得心がいく。なぜならば、猿田彦とは「砂鉄の地を祈る男」と学んでいるからである。
 天白社奥宮のほぼ真下には山口区の塩田神社があった。祭神は塩土老翁(しおのつちのおきな)。山幸彦が兄の海幸彦から借りた釣針を失って困っていた時、山幸彦を舟で海神の宮に渡してやった神である。
 以前、神社近くに住む池田博さんが、塩野、塩入、塩吹、塩水と塩の字のつく字は塩田平にあるけれど、「塩田」の地名は山口の塩田河原一つだけと教えてくれた。
 また、「塩田」の語源を地質学者の山岸猪久馬先生から尋ねられたことがあった。
 山口の塩田や塩田平が海の底であった地学的歴史があったにしても、「辛い」の意を持つ「塩」の字がいつの時代から用いられてきたのであろうか。
 李寧煕先生は「役行者の謎」を解く中で、「小」は韓国式音読みで「ソ(古音ではショとも)」と読まれ、牛のこと。または、「鉄」の古語でもあり高句麗など北方系の言葉、としている。「牛」も鉄に関わりある意味を持つ。「牛」=「上等鉄」の意だとすでに学んでいる。

 
2008年8月30日号
143  日本武尊伝承 おはなしの解説19

 旧小泉村の小字「塩田河原」の「塩田」の発生に限って言えば、そもそもの起こりは「小泉」の地名にあると推測している。「小泉」の初見は「吾妻鏡」の文治2年3月12日の条の中に「一条大納言家領、小泉庄」といえば鎌倉時代のほんの初期であるから、平安時代にはすでにあった地名や氏名であろう。
 文献が語らない「小泉」の語源を古代韓国語の中から求めてみたい。
「小」は韓国式音読みで「ソ・古音ではショ」と読まれ「鉄」の古語であると、前回の「おはなしの解説」で書いたので記憶されているだろうか。
「小泉」の「小」を「ソまたはショ」の音に当ててみる。もちろんその意は「鉄」である。「泉」と「水」は同義語としてとらえ「泉」はそのまま「泉(水)」の意としておく。「泉(水)」は砂鉄の採れる千曲川を指すのか、それとも浦野川か産川なのか、あるいはその三川(さんせん)を意味するものかは想像の域を出ないが、ここで「小泉」=「鉄泉」の図式が考えられる。この図式を証明してくれるのが塩田平の民話「小泉小太郎」話である。
 小太郎の母は大蛇であったそうな。そこで「おろち」と「うわばみ」を古代韓国語に求めてみよう。「おろち」は「ヲルチ」と発音し「泉守」のことで、農耕、製鉄用水を管理していた権力者が「おろち」である。また「うわばみ」は「蛇(サ)=鉄(サ)」の認識より「上の方の蛇」=「鉄のお頭」の等式となる。

 
2008年9月6日号
144  日本武尊伝承 おはなしの解説20

「小泉小太郎」の名も解かねばならない。
 前出の名を古代韓国語に代入すれば「鉄泉の鉄の長男」と読める。その子が流されてきた川こそ「産川
=鉄川」と思い当るまでに多くの時間を要さないのである。
 小太郎は後に治水に力を入れ稲作を豊かにしたとお話は結ばれるが、さすが「泉守の長」や「鉄の頭領」の別称をもつ親の子であればさもありなんと考える。稲作を豊饒へと導いたのは、鉄器の文化も並行してあったとみるべきであろう。
「塩田河原」の「塩(辛いの意)」がいつ頃から表記されるようになったのかは不明であるが、「塩」の「シヲ」と「小」の「ショ」は酷似音であることを記しておきたい。
 再び下之条の葦原淵神社に戻る。社名の確たる由来記、伝承等はないが「アシハラ」を古代韓国語に代入すると「最高鉄の原」と読めるし、旧称の若宮八幡の祭神は大鷦鷯命(おおさざきのみこと)で誉田別命の御子である。「誉田」は「フイゴの地」の意で「大鷦鷯」の「大」は尊称であろう。「鷦鷯」は「鉄小城」の意と学んでいる。
「大鷦鷯命」の親子も「小泉小太郎」の親子も共に製鉄、鍛冶の血を引くことが古代韓国語からあぶり出されてくる。
 神社の境内社は他から寄せた社もあるそうだが風神、火の神々、陰陽石、この地の開拓者の祖神とおぼしき高良社が枯大木の空洞に祭ってある。
 韓国、チベット、小諸下笹沢の祖神の祭り方にそっくりであった。

 
2008年9月13日号
145  日本武尊伝承 おはなしの解説21

 平成18年10月9日の信毎朝刊に、小泉の半過地区で7世紀前半とみられる古墳の石室が3基発掘されたとあった。古代史専門の塩入秀敏先生が「埋葬された有力者が治めた地域の水田跡が見当らない珍しい例で、別の経済的背景があったのか」と発言されていた。
 後日、発掘現場で目にしたものは、なんと一筋の砂鉄の流れである。
 千曲川や産川、浦野川の大三角地帯で鉄漉しをなりわいとしていた集団の長が古墳の主ではないかとの推測も成り立つ。稲作とは別の経済とは、砂鉄採取業ではなかったろうか。古墳のある地名、半過が密かに語源を教えてくれる。「ハンガ」=「フイゴ磨ぎ」となり、製鉄に関わる言葉になる。単なる偶然の一致なのだろうか。彼岸に向かわれた先生と情報を共有できないことが、なんとも残念である。
 尊は泉田の鉄の場のことをよく知っていた。だからこそ尊は天白山の神に弓(もちろん鏃も焼き鍛えて)を奉じ協力を得たのであろう。
 その後、尊は古東山道を踏み、別所で7ヵ所の温泉を開き、湯浴みし、長年の疲れを癒され七苦離の湯と名づけたと伝承は語っている。
 尊が歩かれたかもしれない山道が推定2ヵ所、日向小泉の志摩武重さんの畑の畔として残っている。山道の前方を流れる浦野川の変遷にもお詳しい志摩さんの昔語りと、時どき鳴くキジの声に気分はすっかり古代人になっていた。

 
2008年9月20日号
146  日本武尊伝承 おはなしの解説22

 青木村に入られた尊の伝承はないが、祭神として、村松神社、夫神社、奈良本神社に名を残している。小さな祠の神の名は、次第に人々から忘れられて行く運命にあるということが、調べ歩いてわかった。青木村教育委員会の若林三紀夫さんにはお世話になった。
 さて、尊は青木村から安坂の峠路を行ったのだろうか。渡来の人々が早くから入り、鉄処の臭いのする旧坂井村に入った形跡は今のところ見つかっていない。ただ、長野県神社庁の調べ(総てを把握しているとは思えない)では安曇野市明科、穂高、三郷に尊が祭られている神社がある。
 尊は保福峠を越え松本に入り、科野木権現に主神として名を残している。
 松本も渡来の文化が早くから入っている。積石古墳群や須恵器窯群、宮渕遺跡からは銅鐸の鈕部の破片が出土している。弘法山古墳に至っては遺骸の頭部真上に鉄斧が布に包まれ丁重に置かれていたという。もちろん鉄刀や鉄鏃の存在もある。
「鉄を制する者は天下をも制す」の文言が脳裏を去来する。鉄王が居て鉄器の文化の盛んな場所であればこそ、小県にあったと言われる国府が松本に移った要因の一つがそこからも推測される。製鉄と関わりありそうな地名、牛伏、平瀬、征矢野、笹部と枚挙にいとまがない。いずれ、ゆっくり歩きたい所である。
 尊はいよいよ諏訪に入る。広い諏訪郡ではあるが、尊の祭られている神社は八剣神社一つである。

 
2008年9月27日号
147  日本武尊伝承 おはなしの解説23

 八剣神社は諏訪市小和田にあり、主祭神は八千矛神(やちほこのかみ・別名大国主命)で尊と誉田別命を合祀する。現在も続いているが、諏訪湖の御神渡の拝観をすることで有名である。11月30日には蜜柑祭があるが、古くはフイゴ祭であった可能性がある。
 尊は難にあった時、何度も諏訪明神に助けられている。明神は尊の協力者か同族であったろうか。諏訪で尊は難にあっている伝承はひとつもない。
 上伊那郡3ヵ所、下伊那郡にやはり3ヵ所、駒ヶ根市に1ヵ所、尊は祭神として名を残しているが、特に伝承は見つかっていない。
 さぁ、いよいよ尊は神坂峠(みさかとうげ)にさしかかる。古くは神の御坂、『記紀』では科野の坂、信濃の坂といい、いわば信濃の国の玄関口である。園原の神坂神社(みさかじんじゃ)に、わたつみ3神と共に尊は合祀され、境内には尊が腰を掛けて休まれたと伝わる石もある。
 尊はこの地で白鹿に姿を変えた山の神に蒜(ひる)を投げて殺したために道に迷い苦しんだが、そのうちどこからか現れた白狗に導かれ無事に美濃に出られたと伝承されている。
 さぁ、「白鹿」は何を暗示しているのか解いてみよう。「白」とは「新羅」を表すと学んでいる。「鹿」は「シガ」と発声し「鉄磨ぎ」のことで「白鹿」=「新羅系の鍛冶集団」と読んでいる。
 蒜とは野蒜(のびる)のことで、春先にかならず隣人がすぐ食せるように持参してくださる。感謝しつつ酢みそ和えで、季節の味を心豊かに堪能する。

 
2008年10月4日号
148  日本武尊伝承 おはなしの解説24

 美味な野蒜(のびる)をとっさのこととはいえ武器にするなんて、と思うのだが、葱・玉葱・ニラ・アサツキ・ニンニク・ラッキョウは同類で、あの独特な香りは強壮剤として古くから知られている。
 尊は野蒜を食していたので荒ぶる神よりも強かったのだろうか。山の神を殺したため、道に迷った時美濃へと導いてくれたのが白き狗であったと伝承される。「白き狗」とは、新羅系の鍛冶集団の中には尊と同族の狗人がいて、その人物が尊に荷担したと読めるのである。
 神坂の鍛冶集団は新羅系であると言い切れるもう一つの証拠として、地名の園原にある。古代の日本では「その」の語音を「新羅」を表す言葉の一つとして用い「園」とも表記していたと学んでいる。「その(園)」のもう一つの意は「鉄の野」である。地名の「園原」は「鉄の野の原」と読めるが、「野」は新羅語、「原」は高句麗語ではあるが意味は同じである。
「園原」と名付けるに当りすでに原意が失われていたが、意味を強めるために二重の語義を使ったとも考えられる。
 阿智村には、鉄処によく伝承される炭焼き長者話の「炭焼き喜藤治」「金売り吉次」話が伝承されている。喜藤治は後に「伏屋長者」と呼ばれるが「鍛冶屋の長」と読める免許状が都から送られてくるのである。阿智村最後の極めつき、「阿智」を古代韓国語に代入してみよう。「アチ」「アルチ」=「砂鉄の貴人」=「鉄王」と読める。

 
2008年10月11日号
149  日本武尊伝承 おはなしの解説25

 上代、阿智は一大鉄処であった。伝承の内容や地名を古代韓国語に当てることにより思いがけない真実が焙り出たと思っている。
「園」の地を奪った尊は直ぐ尾張の宮簀媛(みやずひめ)の元に戻り、媛と一緒に鉄処の仕事に精を出しただろうか。媛は鉄処の女頭領なればこそ、尊の東国平定に当り、婚約という大援助をしたとみられている。
 そのうち近江の伊吹山に荒ぶる神を討ちに山に向った。『紀』の荒ぶる神は大蛇、『記』では白猪となっている。覚えておいでだろうか「大蛇」=「泉守」、「白猪」=「新羅系鉄処の武者」と読める。
 尊は荒ぶる神と戦い、氷雨や霧で難儀するが、最後の力をふりしぼって山を下り「居醒(いさめ)の清水」にたどりつき、体力を養い、関ヶ原から養老山地沿いに伊勢に向ったとされる。
「居醒の清水」は何ヵ所も推定されているが、大清水にある泉神社の湧水が、伊勢への道筋を考える時有力な泉かと推測している。
 尊は伊吹の強力で強大な鍛冶場は平定できなかったが、製鉄用水の「泉」は押さえることが出来たのであろう。
 伊吹山麓に源を発し石灰岩の岩間をぬって湧き出る水はミネラル分を含んで美味で、伊勢や名古屋から名水を求めに来ている。また、旧伊吹町では石灰工場が健在であった。石灰は触媒として製鉄には欠かせない物質である。工場を見つけいたく感動した。

 
2008年10月18日号
150  日本武尊伝承 おはなしの解説26

 かつて、奈良県通いの一時期、名神高速道を岐阜県の大垣インターで下り、三重県の四日市方面に車を走らせたのだが、気になる風景がよく見られた。田んぼの畔や河畔にある松の木の多くが、伊勢湾、あるいは知多湾方面になびいているのだ。こうした現象は、日本海からの冷たい風が琵琶湖上を吹き渡り、伊吹山脈と鈴鹿山脈の狭間でさらに風力が強められ、そのまま、伊勢湾や知多湾方面に流れるからで、「それ、冬場に関ヶ原辺りでの積雪のために新幹線がストップするのは、そうした気象のせいだ」とは、夫の説明である。
 今や開発が進み斜めの松の木は見られなくなったが、吹きすさぶ伊吹おろしや伊吹山の景観、雲に雪を気高く歌った校歌は滋賀県はもとより岐阜県、愛知県までも見られる。校歌の地図は、そのまま風の通り道を示している。そして、風の道はまた製鉄、鍛冶の一大産地であったことも遺跡や地名からわかることである。
 古代の製鉄は国家機密であったらしいのだが『続日本紀』や『日本書紀』にぽろぽろとこぼれ漏らすように記載され、その場所かと推定される跡も発掘されている。
 名古屋女子大学の丸山竜平先生の論考「近江の製鉄遺跡」の中で、元来政治を執る場から鍛冶炉やフイゴの羽口が出土し鉄器工房化していた、との記述が目を引く 。
 国家の宝である東国の鉄を勝手にはさせない。押さえることが尊の最大の仕事であったろう。

 
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