2008年10月25日号
151  さらしなの里のお話二つ おはなし@ 虫よけ弥五郎殿  

 むかーし、ある年のこと羽尾の里は、害虫が大量に発生して大変な被害を受けた。
精魂こめて耕し育てた田畑の作物が、やっといいあんばいに育ってきた矢先、あっという間に葉っぱという葉っぱを全部その虫に喰われてしまった。隣の畑も向かいの畑も全滅だ。
 村中総出で、葉っぱをほうきで払ったり、灰をかけたりしたが、そんなことではとても追いつきはしない。
 その虫はいったいどこからやってきたのか、さっぱりわからない。どうすればいいのか村の衆は額を寄せ合って相談してはみたものの、いい考えの一つも浮かばない。
 村の衆がほとほと困り果ててたそんな時、耳よりな話が聞こえて来た。
 なんでも、津島(愛知県)の牛頭天王の末社の弥五郎殿が虫退治に大変ご利益のある神さまだそうで、村では早速その神さまをお迎えして虫退治をお願いすることを決め、まことに足の速い若者を使者に立て、そのお宮まで出向くことになった。
 若者は古峠を越え松本から木曽路をひた走りに走り、ようやく津島にたどり着いた。
 一方、村の衆は、いくら丈夫な体の若者でも無事に神さまをお連れして戻って来れるか、心配で心配で神仏に祈っていたところ、若者が首尾よくご神体のわら人形を運んできた。丁重にお祀りし、皆で一心に祈ったところ祈りが通じ虫どもはすっかり姿を消し、その後は一度も現れなかったと。

 
2008年11月1日号
152  さらしなの里のお話二つ おはなしA 瘡守さんのイボ退治  

 うんとむかし、さらしなの里にな、それっこさ働きもんのわけしょ(若者)が住んでただよ。
 達者で気立てもいいから、まわりのもんちゃ、こぞって嫁さんを世話したんだと。そんなかいあって、秋にゃ、となり村から嫁さんむらうことになってな。そのせいもあって、わけしょはめたせっこよく働いただわ。
 暑さもやっとこ峠越したある日のこんだった。わけしょの腕にぽつぽつとイボができてな。次の日にゃ足まで少(すこ)んずつ増えてく始末だ。じきに嫁さんむらうってせうのにな。イボ取りの仕方もおさっていろいろ試してみたけんど全然効き目がねえ。見かねた者(もん)が「瘡守さんに頼んでみちゃどうだい。むかしっから傷だのできもんだのよく治しておくんなさる」ってせってくれたもんで、わけしょはワラにでもすがる思いで、はぁらか手え合せてたら突然お宮の中からありがてぇお告げがあったと。「千曲川へ行って平(てえ)らな小石を拾って来、よーく拝んで家に持ち帰りイボをこするがよい。治ったら同じような石を新しくお供えしなされ」。
 わけしょは一目散に千曲の河原に飛んで行き、平らな小石をたーんと拾い神前に並べ、はぁらか拝んだ後持ち帰(けえ)って「エボ(イボ)よなくなれ」って唱えしま、イボの頭を石でなぜたんだと。するとイボが小(ちっ)せくなって、なんと2、3日もしたらまーんでうそみてえに全部消(け)えちまったってせう話だ。

 
2008年11月8日号
153  さらしなの里のお話二つ おはなしの解説@   

 平安の昔から和歌や日記のタイトルに登場した更科(更級)の名が合併により地図上から惜しくも消えたが、救われることに、上山田温泉に行く大正橋の渡り詰めに佐良志奈神社が座し、千曲市立更級小学校もあり、学校の近くには「さらしなの里歴史資料館」が存在する。歴史的に由緒があったり、心情的に心寄せる固有名詞があれよあれよと言う間に消えて行く昨今であればこそ、特に資料館名などは頼もしさすら感じる。
 さて、「虫よけ弥五郎殿」と「瘡守さんのイボ退治」は『さらしなの里、羽尾の民話』からお借りし、紙幅の都合に合わせた面があるのでお許しをいただきたい。
 津島神社の摂社、弥五郎殿社の前身は幻の式内社国玉神社との説もあるが現在の社名になったのは、吉野朝廷に仕えていた堀田弥五郎なる人物が姓祖を祀る社を再建し、己の佩刀(はいとう・現津島神社社宝)を寄進したことにより弥五郎殿社と称したとは、堀田宮司さんの話である。が古い時代のこととて社の生誕の真の姿は不明である。そして、弥五郎殿社そのものに、虫よけや虫退治に利益があるとは伝わっていないし行事の中にもないそうである。ただ、近郊では虫送りの行事がある。田植が終り真夏に向け疫病が流行しないようにとの願いが込められている。
 津島神社は木曽川の中州にあり、江戸時代は天王島と呼ばれ、鉄器やローロクの取引きが盛んに行われたという。

 
2008年11月15日号
154  さらしなの里のお話二つ おはなしの解説A   

 弥五郎殿社の正体はよくわからなくとも、本社である津島神社では製鉄神とされる牛頭天王(須佐之男命《津島神社では『記』の表記》)をお祭りする。およそ摂社たるもの、本社と関わりない神を招くはずがない。
 木曽川の砂鉄の多く採れる地であればこそ鍛冶も盛んであったろうとの推察はつく。
 羽尾の「虫よけ弥五郎殿」話に伝わる「虫」をそれ以前の「卵」の状態の時を思えば、それはまるで砂鉄の様子に似ている。
 さぁ、次は「瘡守さんのイボ退治」である。
「瘡守さん」の正式名は瘡守稲荷神社で、羽尾の堂城山の麓にある。この社の眼下を雄沢川が流れる。この社も、何時、何処から勧請されたかはわかっていないが、社の屋根のふき替えの時、屋根裏より発見した文箱の中に、京都の伏見稲荷神社からの授与状があったそうである。
 稲荷社の祭神は倉稲魂で、稲作の神だとばかり思われがちであるが火の神でもある。伏見稲荷神社の例祭日11月8日の「フイゴ祭」が盛大に行われることの知名度は低いのが残念である。
『羽尾の民話』の発案者ともいうべき故塚田哲男さんが民話集の中で、「瘡守さん」と題して書かれている文章を要約して紹介してみよう。
 むかしこの地の侍が戦場に赴き手傷を受けたその時、ふるさとの瘡守稲荷を心に念じ、心を込めて土団子を作り祈ったところ、傷は癒えたそうな。

 
2008年11月22日号
155  さらしなの里のお話二つ おはなしの解説B   

 瘡守の「瘡」は皮膚病、またはかさぶたのことだと塚田さんは記している。
 そこで「瘡守」の語源を少々追求してみた。
 瘡守の「瘡(カサ)」とは韓国語の古語「ガサル」「(財産などが)増えて豊富だ」の意に根を引くと考えている。皮膚病の「カサ」は正に皮膚が盛り上った状態ではないだろうか。
 何時の頃かはわからないが商売の神としての顔を持つ稲荷、願い事が叶い「商売繁盛」になったならば、それは「財産がカサ(増える)む」ことである。
「守」は「まもる」ことに違いないが「見ている・見張っている」ことが本業の意味であろう。「瘡守」とは「増えた財産を見ている・見張っている」のが任務であろう。
 江戸谷中の笠森稲荷は疱瘡よけにご利益があったそうで、この社に願をかけると、まず土団子を供えて祈り、願が叶うとお礼に米の団子を供えたそうな。
 谷中の笠森稲荷は土団子から米の団子へと、供え物の質がカサんでいることが面白い。
『鐵』の著者、故大谷秀志さんは、その著書の中で、稲荷を製鉄、鍛冶神と認識され、鉄をふくの「吹く」に通じる意から吹出物や疱瘡神への信仰が生れたとしている。
 僭越を承知で大谷さんの論考に補足をするならば「ふく」は「(金属を)練る・焼き鍛える」を意味する韓国古語「ブルグ」から来ていて、「吹く」「福」等は漢字の当て字と学んでいる。

 
2008年11月29日号
156  さらしなの里のお話二つ おはなしの解説C   

 本稿では「さらしなの里」を千曲市若宮、仙石、須坂、羽尾、三島をその範囲として見て、『和名抄』にある八幡は外している。
 鉄の文化を研究する者にとって興味ある地名がさらしなの里に幾つもある。例えば鍛冶田、本田は「ほんでん」と言うのだそうだが、「ほんだ」と読めば「フイゴの地」の意味になる。須坂は「鉄混ぜ」の意であるし、更級小学校から羽尾方面に登り、湯沢川に架かる橋の辺りが鑪口(たたらぐち)である。
 大谷秀志さんによれば近隣にある「たたら口」の例として千曲市大田原池尻、坂城町村上の鞴口(たたらぐち)を挙げている。
「鑪口」は吹子の羽口の意なのか、「たたら場の入口」に当る意なのかはわからないが、近くに製鉄、あるいは大鍛冶の遺跡が地下に眠っているのだろうか。
 鑪口の近くに東福所の地名がある。東があれば西福所があるかと思いきや、そうした地字名はないので古代韓国語に東福所を当てはめてみた。どんな語源が焙り出されるだろうか。
「東」は古代韓国語で「セ」、この音は鉄の意の「セ」と同じである。「福」は「金属を練る」ことである。「東福所」と「たたら」は同義語との結果になった。後は考古学的発見を待つばかりである。
 以前、大谷さんの通夜の帰りに県道脇に立てかけられた看板に河川名「湯沢川」と書いてあった。筆者は直ぐに戻り、亡き大谷さんをゆり起こしたかった。

 
2008年12月6日号
157  さらしなの里のお話二つ おはなしの解説D   

「秀志さん、お湯の字がここにありますよ!」
 川の名は湯沢川、聖山の風貌を持つ冠着山(姨捨山、更級山とも)に源を発する湯沢川の「湯」の語源を辿れば「泉」を意味する韓国語の「ヲル」が変化したものであるし、溶けた鉄を「湯」とも言うのである。
 聖山に発する湯沢川であれば「湯」=「泉」の等式も成り立つが、湯沢川沿いの鑪口、東福所、須坂等の地名が、過去の歴史を物語っているかもしれないのである。
 次は、たたら炉の壁や鍛冶炉を造るには粘土が必要であるが、今は三島にある会社の敷地附近や前山の山麓に良質の粘土があったそうである。
 炭は山が近いので豊富である。栗の立ち枯木は一級品。松炭も上等品として製鉄に用いられる。肝心の鉄材がこの地にあるか羽尾の北村主計さんに尋ねると、昔の雄沢川の砂鉄量は多く、冠着山中でかつて砂層を見たことがあるそうである。それにも増して、千曲川も近いし、鉄漉しを生業としていた人々も居たであろうと推測もされる。
 郷嶺山山麓にかつて、須恵器の窯跡があった。地主の奥さんの話によれば、自宅の直ぐ上には池があったそうである。今はないこの池の水こそ熱産業には必要不可欠なものである。
 かつての窯元家では、大火焔の中に座す不動明王をお祭りする。大火焔は窯の中の有り様そのものである。
 この地は熱産業の条件が揃っていると感じた。

 
2008年12月13日号
158  さらしなの里のお話二つ おはなしの解説E   

 ほとんどの地名の原意は不明のことが多い。だからこそ、祖先からのメッセージともいえる地名の原意を探り祖先の土地に対する想いに近づきたい、知りたいと志向するのである。そして、日本語をもって解けない言葉は古代韓国語に照らしてみると、その原意がきちっと焙り出されてくる。
 まずは、聖山の風ぼうを持つ「冠着山」を読んでみよう。冠着山は別名姨捨山とか更級山と呼ばれ、独特の山姿は上信越道の小布施辺りから目に入る。「冠」は貴人の被る物である。なんと、冠着山の峰で神さまが乱れた冠を正されたという民話がある。
 伝承を素直に受け入れ「冠=神」としてみる。「神」は古代韓国語で「ガム」女神のことで、ガム翼Kムイ翼Kミ翼Jミと変化し、「かみ」と呼ばれるようになったと李寧熙先生は言う 。「ガム」には「神」の他に「日照り」「旱魃」(鉄)を「磨ぐ」等の意もある。
 故塚田忠男さんの話によると、実際、山の峰で火をもやし雨ごいをしたことがあったという。また山頂神社の祭神は月夜見尊である。尊の名の意は「鉄の場守り」と学んでいる。
「着(き)」=「城(き)」(対馬に「城=しろ」を「城=き」と読ませる金田城=かなだのきがある)冠着山は神の聖域として神城(かむき)と呼ばれ、後に伝承も加わり冠着の字が当てられたとも考えられる。
 冠着山には別に2つの性格があったものと思われる。

 
2008年12月20日号
159  さらしなの里のお話二つ おはなしの解説F   

 冠着山の2つの性格の結論を先に言ってみると第1は、「冠着山」=「日照り、旱魃にならないように雨ごいする所」。第2は「(鉄)を磨ぐ城」と「鉄の場を守る神の座す所」である。
 鉄との関わりを示す第2の性格を冠着山の別名姨捨(山)が教えてくれる。「姨捨」=「古い(物)を叩く・ひっくり返す」で、鉄の再生を意味すると推測している。
 もう1つ第2の性質をアピールする冠着山の別名・更級(山)の原意は3つあるとはいえ、みな同義である。「鉄(金)の国の新羅」「新羅の新羅」「新羅の鉄生み(作り)」等である。
 新羅の旧名は「ソラ」「サロ」と呼ばれ「鉄(金)の国」を意味したと学んでいるが、新羅を表す言葉はまだある。「シナ」「サラ」「園」である。『日本書紀』に「河内国の更荒(さら)郡の」とあり、この地の馬飼氏は新羅皇子の子孫とされているところからも、更荒郡は新羅系の豪族によって治められていたであろうことは推測できるので「更」に「サラ」の音と意を当ててみたのである。「級」には、ずばり「新羅」を指す「シナ」と「鉄生み(作り)」を当てた。
 さらしなの里一帯にはかつて、鉄作りで著名な新羅系の技術力の高い鍛冶師の子孫がその腕をふるっていたのだろうか。地名の原意を探る前出の推測が成立したのだ。
 課題を与えてくださった故大谷秀志さんは、この項に目を見張ってくださる気がする。

 
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