2009年1月1日号
160  太郎山山麓を歩く@  

 地質研究者の横山裕さん兄弟は小学生の頃、太郎山山麓の上平地籍で遊びの一つとして土器片拾いをしてたそうな。ある時兄がこっち側から弟が向こう側から掘り上げた物は、土管を半割した形の布目瓦であったそうな。
 今は「西小学校蔵」となっているけれど「あれは、まぎれもなく、ぼく達兄弟が採集したんです」と目を輝かせて語った事が心にずっと残っていた。
 初秋の頃、横山さん夫妻におねだりをして現地に案内していただき、土器片を畑の畔道の小石の中から拾った。
 話者によって話の違いはあるのだけれど、神科方面からやって来たデーダラボッチか太郎山の天狗が指をちょんと突いた場所に「指さしごうろ」または「指突きごうろ」と呼ばれる「ごうろ」が太郎山にあるが、その辺りからの小扇状地が上平地籍である。山に向って右の沢が虚空蔵沢、左側の「ごうろ」近くには湧水の「おはぐろ池」がありその続きに寺沢がある。
 布目瓦採集後の昭和43年5月に上平遺跡の発掘が行われたそうで、その調査報告書を読むと、上平の地は、遺物から見て縄文中期からの生活の痕跡が認められる場所である。須恵器の古窯址が発掘されたり弥生時代後期の石組みを伴う土拡墓も検出され、その中から弥生後期箱清水土器と言われる丹塗りの土器片が多く採集されたそうである。
 我々も、報告書にある丹塗りや櫛描波状文の土器片を拾った。

 
2009年1月10日号
161  太郎山山麓を歩くA  

 上田市街地を一目で見渡せる眺望のいい場所で腰を下ろし一休みした。
 須恵器窯址が確認されていることからの推測で、この地のどこかに丹塗りの特徴をもつ箱清水土器を焼いた窯が地中に眠っている可能性を仮定し、それぞれの推論を語り合った。
 まず、上平は窯を築くのに絶好の傾斜度がある。焼き物に不可欠な「水」も、沢水や湧水がある。
 窯を築いたり、土器材の粘土をどこに求めるかであるが、取りあえず、太郎山の表参道の粘土を採取してみた。粘りの少ない荒目の茶褐色の土で、鱗片状の雲母の量が非常に多く長石も入っていた。その土を水に溶かしたところ、実に砂鉄量が多く、まるで海岸に打ち寄せる浜砂鉄を見ている感があった。
 実験的にこの土を用いて孫息子が土器を作り、「七輪で焼ける焼物」を焼いてみると、雲母が金ピカに輝いた茶褐色の土器に焼き上がった。
 上平から採集した土器片を観察すると、雲母の量はほんの少しで長石の姿が認められた。上平の土器の材は太郎山の土ではないらしい。
 では、どこから土を調達したのだろうか。
 横山さんはすかさず、神科台地を指した。
 なるほど、昔から神科台地の米はうまいと言う、それは粘土質であるからだと聞かされていた。
 焼物といえば、江戸時代から昭和初期まで染屋で焼かれていた鉄分の多い染屋焼が、直ぐに思い出される。

 
2009年1月17日号
162  太郎山山麓を歩くB  

 樋の沢には瓦屋さんがあった。粘土造りの窯の姿を今でも覚えている。
 染屋台は今、道路工事のため地中深く掘られている場所があり地層の観察に適している。
 地表が耕作土、次が瓦土用の粘土、その下が白い良質の粘土。その下の鉄分を多く含んだ土は染屋焼に用いたもので、白い粘土は鋳型用として埼玉県川越市に平成5年頃まで出荷していたと話してくださったのは、土壌を見分ける達人室賀栄次郎さんである。
 良質の粘土かを見分けるには、沢の地層の様子を見たり、畔に石垣が築いてあるのか土手で出来ているのか、そうした事を問題視するそうである。
「冬場になると田んぼの粘土を採りに来た人がいた」と、子どもの頃の思い出を語ってくれた近所の女性の一言から、染屋台の粘土の活用の歴史の一部が見えた。
 上平の弥生時代の土器の粘土は実際どこの土を使ったのか証明は出来ないけれど、長石の入り具合から染屋台の粘土を使った可能性も否定できないと考える。
 さぁ、次は箱清水土器特有の「丹」は千年以上露頭にあっても、こってりと塗った色が消えてしまわないのか不思議であり、深い謎を秘めている。
 専門家によれば前出の「丹」の正体は酸化第二鉄(赤鉄鉱)だという。
 太郎山の鉱物資源の中に黄鉄鉱がある。黄鉄鉱は酸化して硫酸第一鉄となり、さらに酸化して硫酸第二鉄と酸化第二鉄となるそうである。

 
2009年1月24日号
163  太郎山山麓を歩くC  

 かつての銅山の町、岡山県成羽町(なりわちょう)吹屋の屋根瓦も格子もベンガラを使っているが、あの丹と箱清水土器の色合いは少し違うと感じている。
 吹屋銅山は平安前期から江戸時代までの永きに渡って採掘された。ここでのベンガラ作りは酸化(風化)した硫化鉄鉱を石臼で碾き、沈澱を繰り返した後、天日で干すと出来上りである。
 太郎山の黄金沢川上流で古くから銅、亜鉛、鉛など採掘が試みられたが量、品質の面から採算が取れず廃坑なった歴史がある。廃坑跡は滝壷の辺りで上部に望める。
 前出の鉱物の他に黄鉄鉱も産出するが、その黄鉄鉱が酸化を繰り返し「丹」の元の酸化第二鉄になるのだが、太郎山にあるだろうか。
 ハッタと思いついたのが真田町の角間渓谷にある赤シブである。赤シブは湧き出した水に含まれる酸化第二鉄が沈澱したものである。
 時を置かず、赤シブを採取し土器に塗り焼いたが、焼き締めの温度が低く還元に問題があったかもしれないが、土器に塗った酸化第二鉄は、益々錆の度合いを強めただけで実験は終った。
「さらしなの里歴史資料館」へお尋ねすると、ベンガラを用いて焼いた経験はあるが、温度が高くてもいい色が出ないそうである。
 弥生時代の丹塗りの土器は祭祀用と考えられることが多いけれど、上平の丹塗り土器は内と外に彩色を施した物もあり、より堅ろうな感がある。

 
2009年1月31日号
164  太郎山山麓を歩くD  

 横山さん兄弟が掘り当てた古瓦の話に戻ろう。
 完全な形で出土した瓦は、行基葺男瓦の名称があるそうで、発掘調査報告書では次の様な事が書かれている。
「この男瓦は、通常8世紀前半以後はあまり作られなかったと考証されている。上田周辺で布目瓦を多量に出土する所は8世紀後半に建立された信濃国分寺跡があげられるが、国分寺跡出土の男瓦は、今のところすべて有段の玉縁を持つものである」
 上平の瓦は無段で玉縁がなく、国分寺跡の物は有段で玉縁を持つというのだ。両者に関係が無いとするならば、信濃国分寺以前に上平の地に寺があったのだろうか。
 報告書の中で目を引く記述があった。それは、新田の呈蓮寺(浄土宗)の寺伝を紹介していることである。
 建久年間(鎌倉時代前期)上平に一宇を結び、永享5年春、布教のため殿堂を山上より山下の現在の場所に移す、とある。
 かつて、上平の地に寺があったのだ。上平の男瓦の製作年代と寺の草創との数字的な差をどう考えればいいのだろうか。
 想像をたくましくすれば、建久年間よりもずっとずっと前から甍でふかれた寺があったとも考えられる。だからこそ、報告書の著者は記しているのであろう。
 指さしごうろから下の沢を、土地の人は、寺沢という。掘れば未知の時代からのメッセージが届くだろう。

 
2009年2月7日号
165  太郎山山麓を歩くE  

 横山さん夫妻は、上平扇状台地の先端辺りにある、土地の人が言う矢島屋敷(『上田市誌歴史編(5)』では、「惣名(そうみょう)北林絵図」により、この地は、北林城とか矢島城などと呼ばれ、矢島屋敷は須波三穂神社=西宮の近くにあったことが明らかになっている)に案内してくれた。
 堀跡と土塁が残り、土塁のあちこちには、指さしごうろの上にあるとされる黄色味を帯びた六角石が見える。この石は、常磐城の神社の灯ろうや道祖神などに使われているし、街中も気を付けて歩けば結構見かける石である。
 土塁の西北の角の松の枯株の元には、矢島稲荷明神が祭られている。小さな社ではあるけれど、木の根元の叉に神を祭るやり方は、よく渡来系と思われる人々が祖神を祭る形にそっくりであることに驚かされた。
 そして稲荷神も食の神であると同時に火の神であることは、以前にも記したことがあった。
 太郎山に伝わる天狗の本拠地は、縄文時代からの熱産業の地、上平がその場であると確信した。
 炭焼き窯、土器や須恵器窯、製鉄炉の内部は真っ赤な血の色そのものであるし、天狗の鼻を象徴しているように思えた。そんな上平の地を感慨をもって振り返り下った。
 横山さんは黄金沢川(太郎川とも)の上流にも連れてってくださった。
 滝の直ぐ上には坑道跡が望め、近くでは銀かと見まごうほどに白く光った方鉛鉱を採取した。

 
2009年2月14日号
166  太郎山山麓を歩くF  

 太郎山の表参道の途中の赤粘土中の砂鉄量があまりにも多かったので、黄金沢川の砂鉄量を観たが、微量にすぎなかった。酸性の水が流れる沢であるからそれも当然かな、等と自答しながら沢を下り、山口の集落の高台にある白山比盗_社をめざして歩いた。
 由緒書きに補足を加え記してみると、次の様になる。
 聖武天皇の御代、天平5年に疫病が発生したので加賀国石川郡より白山比梼ミを太郎山の梺(ふもと)に勧請した。勧請神僧は西光寺(山口に地名のみが残る)の牛久保氏で、その後、延喜4年に滋野幸明が太郎山梺(西光寺のことと考える)よりこの地(二の宮)に遷し、そのまたその後の鎌倉時代後期の弘安元年に上田太郎大江佐泰が再建した。
「上田」や「太郎山」の命名につながる姓名がいっぺんに出てきたには、少々驚いた。
「上田」の地名については、下に住んでいた人びとが高い所に作られた田を「上田」と呼んだ、という説もある。なるほど、後代、神科台地の広々とした岩門辺りも「上田」に入っていた時期があるそうだから、地形から見て、下の住民が「上の田」「上の田」と言い、ついには「上田」に変化したとも考えられる。
『小縣郡民譚集』(小山眞夫著)に「上田の由来」が載っている。要約して記すと次の様になる。
 天武天皇が都を信濃に遷そうと、美濃王と采女(うねめ)朝臣に信濃の地形を調べるように命じた。

 
2009年2月21日号
167  太郎山山麓を歩くG  

 二人は一年かけて信濃中を巡り、いよいよ上田の嶽(小牧山)に登った。北に太郎山がそびえ、東には広野があり更に神川があり、西には岩鼻の崖がまるで門を閉じるように見える。どうも小牧山から千曲川までの間がせまくて、都にするにはいかがなものかと、二人は思案にくれた。
 その夜、二人の前に白髪の老翁が現れて「此の国に都を遷せば西国に朝敵が現れる」と告げた。
「これは、神のお告げだ。きっと諏訪明神であろう」と急ぎ小牧山から見た図形を持って都に帰り、天皇に報告をすると、「これは、これは夢に見えた所と同じ地形だ」とおっしゃり、急ぎ大事の変に備えた。そのおかげで国を挙げての乱にならなかった。乱が鎮まってから天皇は国々の神を祭らせた。老翁のお告げのあった所を諏訪明神の社領とされ、それより須波郷と名づけられ、持統天皇の御代になって神田ができ、「田を植えた」から「植田」となり、後に「上田」の文字で表すようになったそうな。
『日本書紀』天武13年春の項に、前出の二人を信濃に遣わして、地形を見る、とある。また、長野市鬼無里の白髭神社は、信濃に遷都した折の鬼門に造られた神社との伝承がある。また松本の浅間温泉の辺りも候補地であったそうな。
 今のところ、前出の地だけに遷都の伝承があるが、本当に遷都が目的だったのだろうか。砂鉄が採れ、鍛冶の盛んな地であろうと考えられる。

 
2009年2月28日号
168  太郎山山麓を歩くH  

「都を造るから地形を調べよ」と命ずる大義の裏側には「鉄穴を見つけよ」と命じているように思えるのだが、
『紀』は真相を黙して語らない。
「上田」の語源を再び探ろう。
「上(うえ)」と「上(かみ)」は同義語で「物の上部」「身分・地位の高い人またはその人のいる場所」とある。また、「上(うえ)」の古語は「ウベ」つまり「上の方」の意であるから、上の高い所に作られた田を「上田」と呼んだ。との説は「物の上部」の意に入る。
 天皇の尊称は「かみ」である。将軍は「うえ」さま、等と呼ばれた。こうした呼称は「身分や地位の高い人」の意に入る。「田」と「地」は同義語であるから「上田」=「上(うえ・かみ)の地」となる。
「上田」の地名が生れた頃はどなたの直轄地であっただろうか。出来ることならば真相を求めて、タイムトンネルを泳いでみたいものである。
 最近、大字上田の住所に住む柳沢久子さん、深町稔さんと金井の草創(くさわけ)神社界隈を歩いた。
 まずは、東太郎山の尾根の弥伍平(ひら)にある草創神社をお参りする。
 保守的であるかと思われる神社名や祭神が時勢と共にめまぐるしく変っている。平安時代の中期に、今の愛知県津島市の津島神社から素戔鳴命を勧請、草創津島宮と称し次は江戸時代前期の寛永年間に津島神社の摂社弥伍郎社を疫病除疫のために勧請し、津島宮は消え弥伍神社と改称された。

 
2009年3月7日号
169  太郎山山麓を歩くI  

 住民の情熱が結び、明治34年に郷社草創(くさわけ)神社になった。『神社と金井の歴史』(柳沢文武著)という一冊があるが、そこに神社の宝物と奉納品が記されている。
 気になる品が2つある。1つは明治時代に宮跡より掘り出したとされる、るつぼかと考えられる古瓶。2つ目は金(かね)の古羽子板である。両品とも今は神社にはなく、上田市立博物館や県外の博物館に保存されている。
 文武さんは金井の語源を「金鋳」に当てている。金井には鋳物師の集団が暮していたのでは、と考えていたのである。宝物であった古瓶が語ってくれているように思える。
 奉納品の羽子板であるが、金敷(金床)を模したものと伝えられている。しかも金(かね)で出来ているのだ。実際鍛冶屋の作業台は羽子板に形がよく似ている。奉納者は、草創神社の祭神が、製鉄や鍛冶に関わりがあることを知っていたのである。
 金井に古くから鉄滓の出ていた場所がある。「でいこめ」と呼ぶ。柳沢久子さん宅の畑も、「でいこめ」に近い。その畑で久子さんは鉄滓を拾った。その時、お父さんが「金クソだよ」と教えてくれたそうである。
 この畑は地下水脈が高いのか雨が降れば水がざぶざぶと溜ったそうである。山の屋根下の地形と、かつて木が生えていただろうけれど、耕作地になってからは保水力が無くなったことも原因なのかもしれない。いずれにしても水があることは製鉄、鍛冶には強みである。

 
2009年3月14日号
170  太郎山山麓を歩くJ  

「でいこめ」にはかつて、70p四方、高さ1m位の石積みがあり、その上に石の祠があったそうで、それを「おしゃごじさま」と呼んでいたそうな。
「でいこめ」や「おしゃごじ」の固有名詞はあまりなじみがない。「でいこめ」の語源を、文武さんは著書の中で『信濃の鉄』の著者、今井泰男先生の論を記している。「大工を古くは鋳工を表し、木工の大工は番匠で表し、近世になって大工になった」とある。「でいこめ」を漢字で「大工免(でいこめ)」と文武さんは表しているが「免」の説明が欠けているので筆者なりに補足すると「でいこめ」は役所の免税地であったから「でいこめ」=「大工免」と表した。と表現したかったのではないだろうか。
 次に「おしゃごじさま」の正体の伝承はないが、文武さんはその場所から出土する鉄滓と深い関係があると考え「おしゃごじ」の語源を調べていた。その論考と共に「おしゃごじ」の性格を考えた。
「お」は美称。「しゃご」の音を文武さんは「爍(しゃく)」(溶かす・熱い)「鑠(しゃく)」(金属を溶解する・焼く)の漢字に当てている。その意味から『鑠神(しゃくじ)―金属神』の論考もあるほどである。
 また「しゃご」とは「しゃく」の連音の変化によるものであろう。こうした例は方言に多い。「じ」は「司」に当てているので「おしゃごじ」とは「鑠司」のことで「金属を溶かす役所」の意か、または「鉄処のお頭」の意味になるのである。

 
2009年3月21日号
171  太郎山山麓を歩くK  

 久子さんは「おしゃごじさま」の前の道で、荷車の轍に砂鉄があったことを覚えている。「これは砂鉄だよ」とお父さんが教えてくれたそうだ。
 鉄滓の出た「でいこめ」や砂鉄のあった「おしゃごじさま」で過去に、製鉄か鍛冶が行われていたことが推測できる。
 ついでに、金井近辺の鉄に関わりあるかと思われる地名を拾ってみる。
 金井(金鋳)、蟹原、桜林、金草、蛇沢、草創津島宮(最初の社名)。「草創」の音を古代韓国語に代入してみたら、なんと「鉄固め別け」となった。草創津島宮は「製鉄(固め)の神、素戔鳴命を分霊」したことを、ちゃんと表している。
「おしゃごじ」については『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』(古部族研究会編)に踏査集成(今井野菊)が載っていて、製鉄の神とされる建御名方命を祭る社が大変多いことを記しておく。
 蛇沢を下れば川原柳になる。この町名は、仙石時代、上田城修築時に入用の瓦を作事奉行支配の元で焼いた瓦焼きから川原柳と転化したとみなされ、段丘上には火産霊神(ほむすびのかみ)を祭る愛宕神社がある。火の神を祭ることから、瓦焼きの工人集団が勧請したものか、作事の役所で勧請したものかは不明である。ちなみに、「アタゴ」の語源を古代韓国語に求めると「砂鉄お呉れ」の意である。
 神社のすぐ下に、かつての瓦焼き屋さんがあった。とぎれた歴史が時代をこえてつながっている事実がここにはあった。

 
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