2009年3月28日号
172  諏訪の神さま おはなし@  

 大むかし、国を治めていた天照大御神は、出雲だけが、まだ自分に従っていないことを不満に思っていたそうな。
そこで大御神は、出雲を治めている大国主神に何度も使いを出して、出雲をゆずるように言ったのだが、なかなかゆずろうとはしなかった。
最後に使者になったのは建御雷(たけみかづち)神であった。
出雲の伊耶佐(いざさ)の浜辺で剣を抜き、逆さまに突き立て、その切っ先にあぐらを組んで「出雲をゆずれ」と談判する建御雷神の勢いに恐れをなした大国主神は「大御神の言うとおりにしましょう」とあっさり言ったけれど、「私はいいのですが、ふたりの息子たちがなんと言いますか」。
そこで建御雷神はつりに行っている八重事代主(やえことしろぬし)神を迎えに行き父神の前で尋ねると、「父上がそうおっしゃるならば、この出雲は御子に差し上げましょう」と言った。
大国主神は「あと、建御名方神がいますので、お尋ねください」と申したそうな。そう言っている間に建御名方(たけみなかた)神が大岩を手先で差し上げながらやって来て「だれだ。我国に来てひそひそとものを言っているのは。私が相手をしようぞ」と建御雷神の手をつかんだとたん「ちっちっちっちっ」と言いながらはじけるように飛びのいた。
なんと建御雷神の手は氷になっていたのだ。今度は別の手につかみかかると、剣の刃に変わっているではないか。
今度は建御雷神が攻めてきた。

 
2009年4月4日号
173  諏訪の神さま おはなしA  

 建御名方(たけみなかた)神がひるんだすきに、建御雷(たけみかづち)神は手を伸ばし引き寄せようとしたところ、建御名方神の手は、若い葦を折るようにやすやすと曲がってしまった。
千人かかって持ち上げるような大岩を差し上げる力持ちの建御名方神だが、「これは勝てん」と思ったのか、さっさと逃げ出した。が、それでも建御雷神はしつこく追って来て、とうとう信濃国の諏訪湖のほとりに追いつめた。
身動きの出来なくなった建御名方神は、
「どうか助けてください。私はこの場所から出ません。他には行きません。また、我父、大国主神の命には背きません。八重事代主(やえことしろぬし)神の言葉に背きません。天照大御神さまの仰せのとおり出雲をおゆずりいたしましょう」
と言った。
「よぅし」
と言って建御雷神は信濃を去った。
北に穂高岳、東に八ヶ岳、西に駒ヶ岳という高い山に囲まれていれば、あばれん坊の建御名方神も、ちょっくら出て来ることは出来ないだろうと考えたのだろう。
諏訪湖のほとりで気を休めようとしていたら、そこに昔からいる地神の洩矢(もりや)神が、鉄輪を見せびらかして攻めてきた。あわてた建御名方神は生えていた藤づるを縄にして果敢に戦い、とうとう建御名方神が勝った。が建御名方神は心が優しかったのかしらん。
負けた洩矢神と仕事を分けあいながら仲良く暮し諏訪を盛り上げていったそうな。

 
2009年4月11日号
174  諏訪の神さま おはなしの解説@ 

 建御名方(たけみなかた)の入信の路は、糸魚川から姫川を上り、長野から小県を通り諏訪に入ったと考える研究者が多い。それはなぜかというと、その道筋に諏訪神社が多いからだそうである。
小谷村には「大宮」の冠を持つ立派な諏訪神社がある。その内の一つ、中土の大宮諏訪神社の例大祭には、為政者をやゆするいわば「悪口祭(京都の八坂神社にもある)」的な「奴踊(やっこおどり)」がある。奴は円陣を組み「ヨーイトマカサーノヨイ」と声を掛け、やゆ歌をうたう。
「狂拍子(くるんびょうし)」では、男児2人が棒を使って踊る。「奴」であるとか意味不明の掛け声には、日本に早くから渡来した人々の足跡を感じる。
長野市に来て、善光寺7社の内4社が建御名方を祭る。そして、更に上田市塩田平の下之郷には宮中でも祭る、生島神・足島神がおわす。
大昔、この地を通って建御名方が諏訪に入られる時、両柱の神さまに敬意を表し、「お粥」を捧げて行かれたそうな。「お粥」で直ぐに思い当たったことがある。
建御名方神は「力くらべ」をして負けはしたが「武神」であるとか「軍神」であるとかの印象が強いが、本来は製鉄神である。
で、「お粥」であるが、6年ほど前に「粥」のことをたたら用語の中で学んだ。
「銑(ずく・銑鉄)」のことを古代韓国語で「ジュグ」というそうだ。銑鉄は粥状に流れ出るものだからという。

 
2009年4月18日号
175  諏訪の神さま おはなしの解説A 

 赤目(あこめ)という赤鉄鉱分の多い砂鉄で銑(ずく)を作る「銑押出し法」では、4日4晩もかかるそうである。
方言で、「ズクがある・ズクがない」は、この銑作りに根を引く言葉だと考えている。なにしろ4日4晩も眠らずに、こまめに動き、気を配らないと銑は出来ないからである。
建御名方(たけみなかた)は生島神・足島神に玉鋼のような上等な鉄を捧げたのではないかと推測してみる。
また神社の御神体は、「土」であるそうな。本郷の諏訪神社(泥宮)との関係もあると学んでいることから、「泥」のことを「泥(に)」ともいい、実は粘土のことである。粘土質の土は鉄分を含み、米もうまい。泥宮からは原初の稲作と共に沼沢の鉄を利用した鉄器作りが想像されてならない。
山名の「安曽岡山」の安曽(古くは安宗とも)の「アソ」は九州の阿蘇に由来するといわれている。群馬県の富岡市にも阿蘇岡山があり、利根郡昭和村にも阿曽がある。
「記紀 万葉の解読通信47号」で李寧熙先生は「刃物(ア)作り(ジュ)」の「アジュ」を漢字に当て表記したものが「阿曽」だと説明している。
古代から文化度の高い地、 塩田平には佐加神社があるが、元は白鬚神社といった。古代韓国語のお蔭で理由が判明したと、上田女子短期大学の故塩入秀敏先生から丁寧なお手紙を頂いたことがある。
平成11年9月のことである。先生の早過ぎた死は、言語学の分野でも大きな大きな損失である。

 
2009年4月25日号
176  諏訪の神さま おはなしの解説B 

 諏訪大社の縁起書に『諏訪大明神絵詞(えことば)』という絵巻があり、その詞書(ことばがき)に「洩矢(もりや)の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ」とある。
洩矢とは神長守矢氏の祖神、洩矢神のことで、明神とは建御名方(たけみなかた)神のことである。洩矢神は敗れたが建御名方神は勝ち、その後裔と称する神(じん)氏が諏訪社最高の神主大祝(おおほうり)を継ぎ、守矢氏は大祝に仕える五官の筆頭神長を継承した。
建御名方神は諏訪に逃げて来たのではなく、「諏訪」が「鉄の場」であること。また、古くからの製鉄を行っている洩矢神がいることも知っていて、やって来たのであろう。「諏訪」は建御名方神が来る前から「諏訪」だったのである。
李寧熙先生は「諏訪」は「鉄の場」を表す言葉だといっている。そのうち「鉄の場」だと証明されてくるのである。
さあ、洩矢神は鉄輪を持ってあらそったとあるが「鉄輪」とはなんだろうか。『古代の鉄と神々』の著者、真弓常忠さんは「鉄輪」は「鉄鐸(さなき)」であろうことは容易に察せられる、といっている。
鉄鐸は神長守矢氏固有の祭具で、守矢氏を中心とする湛(たたえ)神事に用いる。
鉄鐸は薄い鉄板をラッパ状に巻く形状である。
その鉄鐸を振り鳴らし鉄材(褐鉄鉱)の生成を湿原や傾斜地で祈り請うた、と推測されている。
塩尻市の信濃二の宮の小野神社で12ヶの鉄鐸を拝したことがあった。

 
2009年5月2日号
177  諏訪の神さま おはなしの解説C 

 洩矢(もりや)神が求めていた鉄材は褐鉄鉱である。褐鉄鉱のFe(鉄)の品質は花崗岩やかんらん岩に比べれば劣るが、諏訪社に伝わる鉄鐸は6世紀代にもなお行われていたというのである。
建御名方(たけみなかた)神は「藤の枝」をもって鉄輪を伏せしめたというのだが「藤の枝」とは何を意味するのだろうか。
『信濃の鉄』の著者、今井泰男先生は筆者の師である。先生のいうには「左巻きの藤蔓は褐鉄鉱よりも強い(丈夫)」という。
富士見町の井戸尻考古館の樋口さんも、すぐさま「その通りです」と目を輝かせて、尚も続けた。
強くて丈夫なので、昔は諏訪の御柱を引くのに藤蔓を供出したそうである。『古代の鉄と神々』では「藤の枝」とは「鉄穴(かんな)流し」による砂鉄採取の技術を象徴しているという。
つまり、土砂を急流に入れて洗い底っこに溜った鉄砂をザルで採る。そのザルが藤蔓で編んだものを良とするそうである。
望月の鹿曲川で、藤蔓で編んだザルで実験した。藤蔓では荒すぎる。砂鉄など引っかかってもこない。では、竹のザルは堅きに過ぎるというが、竹のザルでは少々の砂鉄が採れた。
古代の人々は忍耐強く少々の鉄を集め採ったのであろうか。実験してるうち、ため息が出た。そのうちあきてしまいザルを放り投げた。
その話を樋口さんにしたら、クスッと笑って、「うちの息子は桶で採った」というではないか。

 
2009年5月16日号
178  諏訪の神さま おはなしの解説D 

 桶で砂鉄を漉す話は後に詳しくしよう。実はとっておきの話なのである。
ザルでの砂鉄漉しの実験はうまく行かなかったが建御名方神は土着(先着)の古い製鉄法を持つ洩矢神より新しい砂鉄採取や製鉄技術を持ってやってきた神なのであろう。
古い文化が駆逐されずに残存して来た裏には、どんな事柄があったのかを考えてみたい。
どう考えてみても、洩矢神と建御名方神の出自が近い神同士ではないだろうか。
洩矢神は「矢」の字が付く、「弥」「八」「夜」「谷」「野」「耶」等の漢字で書き表された日本語は「ええ」または「ええ人」を表すと学んでいる。「ええ」は紀元前八世紀以前から、朝鮮半島北端の豆満江岸茂山の砂鉄が豊富に集まる所に製鉄国を築き、後代、今の韓国江原道一帯の鉄産地に南下、「東ええ」「ええ国」「鉄国」等の名で製鉄を続ける一方、早くから日本列島に進出、勢力を広げたと学んでいる。
信濃二の宮の小野神社に、長い矛に鉄鐸や麻幣が取り付けてあった。
『三国志』の東夷伝に「ええ人は3丈(約10m)ほどもある長い矛をよく作り、何人かで一緒に持ち歩くとあるそうであるが、なんと、御立産神事の御杖に似ていることか。
驚いた。神事は古い事をよく残す、という言葉を思い出した。
次は、建御名方神であるが、「建」「高」の付く名は高句麗系と見做されると学んでいる。母神は高志沼河姫(こしぬなかわひめ)である。

 
2009年5月23日号
179  諏訪の神さま おはなしの解説E 

 諏訪下社の妃神は八坂刀売(やさかとめ)神である「八坂」とは「ええ混じる」とも「ええの鉄処」とも読めるので、さてはこの妃神は 系の鉄処のお姫さまであったのか。と考えれば、建御名方神が洩矢神を完全に駆逐しなかった理由がここにありそうである。
厳冬期、諏訪湖の湖面に氷が張り亀裂状に氷が隆起する御神渡りは、上社の男神が下社の妃神の元に通う道筋だと伝えられてはいるが、一説には竜神信仰の面影をとどめた大蛇(うわばみ)の形であるともいわれている。
大蛇ならば、甲賀三郎の化身ではないか。
佐久には「甲賀三郎伝説」がある。
兄達の陰謀により蓼科山の穴に落ち暗闇の世界を彷った後、明るい場所に出たら三郎の体は大蛇と化していた。やがて蓼科山を下り三郎は諏訪明神になった。
これが甲賀三郎譚の粗筋である。
実は三郎は「鉄」をさがしに地下をさ迷っていたのである。伝承の中で「穴」が「鉄穴」を暗示している。「鉄穴」とは深い穴を指しているのではなく鉄鉱石が地面に露出している所をいう。
三郎がさがし、見つけた(とは伝承にはないが)鉄鉱床は蓼科山山麓の茅野市にある、褐鉄鉱床の「諏訪鉄山」であろう。
寒い頃、長尾根鉱区を地元の篠原治郎さん(79歳)に案内して頂いた。
褐鉄鉱床は二階建の家の高さほどの場所もあった。鉱石を掘る為に除かれた土は、山と同化していた。

 
2009年5月30日号
180  諏訪の神さま おはなしの解説F 

「蛇」は韓国式の音読みで「サ」となる。鉄も「サ」の概念がここに生れると学んでいる。蛇は湿地を好む。その湿地から初発期の稲作が始まり、弥生時代の鉄材の褐鉄鉱の生成も始まる。古代の人々はそうした事がわかっていたのであろう。
大蛇に化身した三郎は「製鉄・鍛冶集団のお頭」だったのではないか。
諏訪明神が大蛇となって下社に行くと妃神は「尾はどこじゃ」と尋ね、明神は「尾は高木の尾掛松」と答えたそうな。
下諏訪町「大和」の尾掛松に行ってみると、枝は切られ、白肌の枯樹がにょっきりと立っていた。槙柏だそうで、枝の切り口からいい香りがしたと教えてくれたのは枝を切った知人である。
この木の生きている姿を見た人は誰もいない。
日本の正史といわれる『六国史』に推古天皇5年8月に「竜田風神・信濃須波・水内神を祀らしむ」とある。「竜田風神が須波に水内神を祀った」と読めばいいのだろうか。そうすると、竜田風神と水内神は同神なのかさっぱりわからないので県神社庁で調べてもらったが、「水内」と名の付く神社の祭神はほとんど、建御名方神であった。
竜田風神といえば、志那都比古神(しなつひこ・級長津彦)・志那都比売神(しなつひめ・級長津媛)であるが、諏訪地方には前出の神を祭った神社は検索されない。が、長野市風間の式内社風間神社には前出の神が祭られている。諏訪明神は、志那都比古神とはいわないが風の神であるそうな。

 
2009年6月6日号
181  諏訪の神さま おはなしの解説G 

 この稿を書きながら、神々は時代と共に名前を替え変身するのかもしれないと思うと、考察する楽しさが倍増して来る。
さぁ、もう1つ諏訪明神の分身かと考えられる「神」のことを記してみよう。
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に「南宮の本山は信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚(おさな)き児の宮」とある。
「中の宮」は岐阜県垂井町の南宮大社のことで、金山彦命を祭り、宝物には刀剣類が多く、通称「鞴祭(ふいごまつり)」と呼ばれる金山祭がある。神社近くの地名も鉄に関わりある地名がいっぱいで、宇都宮精秀(きよひで)宮司さんは「南宮のもうひとつのルーツ」として参拝のしおりに特別寄稿している。注目すべきは、現在の韓国で「南宮」と名乗る人達が大勢いて、南宮氏は製鉄に関係あるともいわれている、とある。
「稚き児の宮」は三重県伊賀市、伊賀一の宮の敢国(あえくに)神社のことである。祭神は大彦命、児を表すのは手の俣から漏れ落ちた少彦名(すくなひこな)神のことをいい、それは鉄砂(砂鉄)を表しているそうであるが、驚くことに、相殿に諏訪神社があり、甲賀三郎をお祭りしている。その前の池を地元の研究家は諏訪湖だという。いずれにしてもこの地は、地名の語源から推測しても、鉄処である事は間違いない。近くには渡来の「鉄の貴人」と読める「荒木須智神社(白髭神社)」があり、製鉄に関わりある葛原(固め原)姓にまたびっくりした記憶がある。

 
2009年6月13日号
182  諏訪の神さま おはなしの解説H

 他の南宮2社が製鉄と関わりあるし、フイゴの風かと思われる風の神も諏訪明神の分身かと考えられるので、南宮の本山とは諏訪大社であろう。『古代の鉄と神々』では諏訪大社が製鉄の神であり、「南宮」の呼称が、製鉄のたたら炉の高殿を支える4本柱のうち、南方の柱を元山柱と称してもっとも神聖視し、ここに金屋子(金山)神を祭ることに由来し、「御柱」の意味もここに求めることができる、とある。
御柱の起源や意義については諸説あるが、筆者は「高殿の4本の押立柱」説に得心がいったのである。
「御柱」とはご存じの通り、7年ごとの寅年と申年に行われる御柱(みはしら)祭のことで、勇壮かつ雄大で、
郷土をあげての熱気と興奮の渦に驚くばかりである。他人の阻そうも祭時は良として許す精神は諏訪人気質の一端である。
なぜ御柱は寅年と申年なのか、考察してみた。
寅は、なわばりを常にめぐるという性質を持つし、 人は寅をトーテム(氏族の神聖視される動植物。日本人の持つ家紋と同じであろう)にしている。これは洩矢神の出自を表している気がしてならない。
次は申年だが、「申」の解字を見れば「両方の手で引っぱって真っ直ぐに伸す形をいうそうである「伸す」といえば、熱く熱した鉄も伸(の)さなければ製品にはならない。
こうした事柄からも「申」は鍛冶に関係する言葉であろう。寅年と申年の意は誰も追究していない。

 
2009年6月20日号
183  諏訪の神さま おはなしの解説I

 今まで諏訪明神の真の姿を求めて来たが、ここで諏訪明神をまとめておきたい。
諏訪明神とは、鉄鐸を作る技術を持った古くからの洩矢神であり、次に砂鉄からの製鉄技術を持ってやって来た建御名方神でもあり、大蛇(鉄の場のお頭)と化した甲賀三郎であり、風の神の志那都比古(級長津彦)神であり、さらに、信濃国の南宮の本山(金山神)の5つの分身の総称が諏訪明神なのであろう。「明神」とは製鉄神であると過去に学んでいる。前出の神々はすべて製鉄に関わる神なのである。
上社に近いフネ古墳では鉄処に多いとされる、割竹形木棺墓に鉄王が持つかと思われる蛇行剣や素環刀太刀の他直刀、ノミ、カンナ、鉾、鎌等の鉄器が多量に副葬されていた。下諏訪町にも岡谷市、茅野市にも著名な古墳は多くある。出土鉄器の成分分析が出来ていないので、前出の鉄器は渡来の製品か国内、地場の物かは不明だがすごい鉄器の量である。
諏訪明神のお膝元であるのにもかかわらず、岡谷市小坂の小坂神社では下照姫(したでるひめ)を祭る。事代主命の妹に当るので建御名方神のきょうだいであるが、木曽の水無(すいむ)神社にまつられる高照姫はその別名である。「下照姫」=「鉄の地、取り付ける(世話する)姫」と学んでいる。鉄の出る地を探し当てる役割の女性なのである。
小坂神社は湖を見おろす高台にある。下照姫は建御名方神を支えているのだ。

 
2009年6月27日号
184  諏訪の神さま おはなしの解説J

 鉄処を守る神がおわす諏訪地方(富士見町を除く)では、平安時代の住居跡から鍛冶の痕跡は見つかるが製鉄炉の出土は確認されていない。
神社の神事にある蛙狩(かわずがり)は毎年元日の朝に、上社の御手洗川の氷の下から赤蛙を採るが、なぜ蛙なのかの追求はないと思う。「かは(わ)ず(づ)」の語源の一つを拾うと「製鉄場(鍛冶場)の貴人」の意もあると学んでいる。語源がすっかり忘れられ、形が変形して神事として残った例であろうか。
前宮の4月の酉の日祭に沢山の鹿が狩猟され供えられたそうな。その中に一頭、耳の裂けた鹿がいるそうで、鹿と諏訪明神の古来からの関係を説いたもの、と諏訪七不思議にある。「鹿」の語源を知ってさえいれば直ぐわかる。李先生によれば「鹿」で表記された「シガ」は「鉄磨ぎ」を表し、かつ、 系の製鉄王を表すという。
蛙も鹿も生贄される運命にあるが、すでに政権を失った王を象徴しているように思える。
王としての座を譲ったにしても技術は残している。鳥とも蛇ともデフォルメされた薙鎌(なぎがま)も古代韓国語に代入すれば、「(鉄)の開祖の磨ぎ間」とも、「開祖の鎌」とも読め、諏訪明神は「鎌は我々の象徴だ」「諏訪は鉄処さ」と物で語るのが薙鎌であろうと推測する。
さぁ、神代に遡って、神の血を引く社家の中に中世末に滅亡した金刺氏がいるので、金刺氏の語源を探ってみた。

 
2009年7月4日号
185  諏訪の神さま おはなしの解説K

 金刺氏もまた、「鉄の城」という意味の韓国語の吏読(りとう)表記となることを知った。
諏訪はやはり、鉄まみれの「鉄の場」であることを姓名からも実感する。
さらに御神紋や家紋の「梶」について話を進めてみよう。
諏訪上社を始めとして関連ある社は御神紋に「梶」を掲げる(葉の数であるとか、根の有無はここでは問題にしない)。
長野市の善光寺や湯福神社でも「梶」である。
本田善光さんの出自、本田姓に関わる紋であろう。本田姓を始めとして「梶」紋を用いる氏族は半田、諏訪、誉田、生島(鬼梶)、茅野、金子、本多(この調べは充分でない)等であるが、諏訪の金子氏は諏訪社と深い繋がりがあり遠慮もあってか「梶」は使っていない。
遠方では、長崎県雲仙の小浜温泉の本多湯大夫家(温泉の元締)が「梶」である。
植物のカジは「穀」とも書くそうだが、本稿は慣用の「梶」とする。
筆者が梶を初めて見たのは、上社や茅野市の守屋神長さんのミシャグジ総本社の裏である。
クワ科の植物だそうで葉の形は山桑に似ているし、切り口から乳も出るが、切り口の中は空洞であった。実は一見プラタナスの実に似て丸いボンボンに毛が生えている感じであった。原産は南方で、諏訪で自生はしないそうである。どうりで野山を走り回った子どもの頃でも、お目にかかったことがないはずだ。

 
2009年7月11日号
186  諏訪の神さま おはなしの解説L

「梶」は幣の繊維として使ったともいわれている。クワ科であるといえば納得がいく。
昨年の5月初め、『まなほ』が届いた。そこには筆者の疑問に答える語源の解が載っていた。
それまで「梶」の音から「梶」=「鍛冶」かと短絡な推測をしていたが、「梶木」を「栲(たく)」といって楮(こうぞ)の古名だと知った。
「たく」は「(非常に)熱する」の意であるという。なんと、製鉄炉のたたら(ダル・ダラ)の語源「非常に熱する(こと)」にそっくりではないか、さすが「鉄の場」の諏訪だからこその合致であろう。
諏訪地方に行けば、誰でも、明神さまの伝承の1つや2つ語れる。
多くの語りの中で茅野市上原の葛井神社の池の魚は片目だそうな。片目の魚はいなかったけれど、製鉄のたたら炉のホト穴より熔鉄の状態を視つめ隻眼となった鍛冶職を象徴した話であろう。
また、年中の最後に一年中使った幣を送る神事がある。葛井の池に幣を入れると、翌朝遠州のさなぎの池に浮ぶという。
特定は出来ないが、その池らしきを見つけた。
静岡県御前崎市佐倉の池宮神社の桜ヶ池で、あちらには葛井の池とぴったり合う伝承はないが、9月23日の秋分の日に、赤飯をおひつに入れ池に沈める「おひつ納め」があり、その赤飯は翌日、なんと、諏訪湖に浮ぶという伝承と行事がある。
主祭神は「鉄泉の姫神」で、相殿には建御名方がちゃんとおわす。

 
2009年7月18日号
187  諏訪の神さま おはなしの解説M

 富士見町も諏訪郡であるし、井戸尻考古館に隣接する歴史民俗資料館に県下一の鉄に関する資料の展示があるのを知っていたので行ってみた。
資料は噂に疑いのないものであったが、紙巾の都合で割愛したい。
富士見町は東北日本と西南日本を2分する大きな裂け目「フォッサマグナ」の中にある。このような地域ではさまざまな鉱物の産出があるが、製鉄に関わる鉱物では触媒に使う石灰岩、マンガン、風化作用で砂鉄を生む、かんらん岩や磁鉄鉱等である。木炭になる木山も豊かな好条件で、平安時代から中世までの操業とされる金谷製鉄遺跡があり、江戸時代中期頃のことか「昔、穴の尾で鉄を吹いた」との伝承のある穴の尾製鉄遺跡がある。
「池の跡砂鉄採取遺跡」もある。この池は選鉄に使ったばかりでなく、保存も兼ねていたのではないだろうか。考古館の樋口誠司さんによれば、両手を捧げた手巾の砂から片手ほども砂鉄が採れたというから、驚く量である。
金谷製鉄遺跡の操業年代を探るための製鉄実験も行われている。
また、御所島には伏屋長者屋敷跡があり、長者は渡来系の人で牧と鉱山開発に関わっていたとの考証もある。
「伏屋」の「フセ」は「鉄の火=鉄焼き」「御所」は「鉄漉し」と読める。
赤石山脈中の入笠山(にゅうがさやま)、程久保山(ほどくぼやま)山麓では、上古の昔から鉄山師(やまし)が入り製鉄が行われて来たとの推測が成る。それに乙事(おっこと)には立派な諏訪神社もある。

 
2009年7月25日号
最終回  諏訪の神さま おはなしの解説N

 富士見町の製鉄に関わりある跡をかけ足で見たが、じっくりと考証する価値のある地域である。
さて、建御名方は「藤の枝」をもって洩矢神に勝ったというが「藤の枝」とは何なのか。
『古代の鉄と神々』の著者は「藤の枝」とは、鉄穴流しによる砂鉄採取の技術を象徴し、水底の砂鉄はザルで採り、ザルに筵(むしろ)を用いた。筵は藤蔓で編んだものを良とするとあるが、藤蔓を編み筵らしき物を作り、望月の鹿曲川や千曲川で、伝承学的実験で砂鉄の選鉱をした。前出の筵では砂鉄は引っかかってもこないので、最後は砂鉄量の多い岩手県東山町にある猊美渓(げいびけい)を流れる、その名も砂鉄川で試みた。
かつて、この川の砂鉄を用い名刀が造られた歴史もある。川砂は、花崗岩が風化した真砂(まさ)と呼ばれる上等鉄で、その中には「金」かと見間違えるほどの雲母もある。
実験結果、推測通り、多く採れたのは桶で、それは美しい黒光の砂鉄が底っこに残った。目の詰んでいる竹ザルならまだしも、藤蔓を用いる器はだめである。
つくづく思うに「藤の枝」とは「柵(しがらみ)」に「藤の枝」を用いたことをいうのではないだろうか。川に柵用として藤の枝を放り込めばそこに砂が造作もなく集まる。それを、桶で選鉱する、と結論づけたい。



長い間ご愛読、応援を頂きましてありがとうございました。再び紙上にてお会いいたしましょう。

 
 
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