2005年11月19日号
6 甲賀三郎伝承3つ@
 (その1)
 昔、甲賀太郎、次郎、三郎という兄弟がおった。三男の三郎には、そりゃあ、美しい春日姫という名の妻がいたそうな。この見目よい妻をもつ三郎をうらやんだのが太郎、次郎の兄たちでな。何とかして三郎を不幸にしようと兄たちは企みをめぐらした。そこで蓼科山に誘い、う〜んと深いと言われている人穴の縁に連れてきた。
「この穴ん中には目もくらみそうな宝玉があるんだと。おらたちは、まぁ、意気地がなくってさ。そこへいくと三郎は勇ましい。そこでひとつ宝玉を取ってきてはくれまいか」
兄たちがくちをそろえて言うもんで、(それもそうか)と思い、兄たちが用意した藤蔓につかまって、深い深〜い人穴にそろりそろりと下り行った。穴の上では太郎が次郎に目くばせすると、二人はいっきに藤蔓を切ってしまった。三郎は藤蔓をにぎったままあっというまに奈落の底へと落ちていった。それを知った春日姫は、悲しみのあまり人穴の縁にたたずみひたすら叫んだ。
「三郎さまぁー」と。そのうち春日姫は自ら人穴へ飛び込んでしまった。
 人穴深く落ちた三郎はすり傷ぐらいで命は助かった。
「あぁー、早くこの真暗闇からぬけ出したい、妻はどんなにか心配しているだろう。いとしい妻に会いたい会いたい」
と念じながら闇の中をさまよった。
 ある時、眠りから覚めた三郎がふっと上の方を見たらば微かな光を感じた。
「あっ、ひ、ひ、光だ。地上の光だ!」
三郎が出た所は御代田町真楽寺の大沼であった。ほっとして自分の体をながめると、な、なんと、鱗で包まれ大蛇の姿になっているではないか。三郎はじっとしていられなくて、とにかく蓼科山をめざすことにした。
 
2005年11月26日号
7 甲賀三郎伝承3つA
 三郎は近津の森(佐久市)に来て後ろを振り返って見ても、尾はまだ池から出きらないので「まだ近い」と言って前に進んだと。近津の名はこれから出たそうな。さらに南をめざして三郎は進んだ。そして、とうとう蓼科山の峯まで来てしまったのに尾は前山(佐久市)の貞祥寺の松の枝にたれていたそうな。貞祥寺の山号を尾垂山というのはこのことからだと。
 三郎はついに諏訪に至り諏訪明神になった。
 また一方、三郎の後を追って人穴に入った春日姫だが、三郎を見つけることができないまま、真楽寺の大沼の池の東南13町(約1400m)ほどの所にある湧玉の池(池ではなく小堰ほどの所だが水はこんこんと玉のように湧く)に出た。身は三郎と同じく全身鱗で包まれた蛇になっていたそうだ。蛇身の春日姫は妙義山をめがけて進んだそうな。三郎とは違う方向だから、とうとう二人はめぐり会えなかったんだねぇ。
 (その2)
 その昔、近江(滋賀)の甲賀の里に甲賀太郎、次郎、三郎の兄弟が鹿狩りをして暮しをたてておった。
 ある日、兄弟が若狭(若狭湾沿岸)の国の高懸山で猟をしていると、山の神が変じた大蛇と出っくわしたそうな。腰がひけた太郎と次郎はころびころび逃げてしまったが、三郎は大蛇に勇敢に立ち向い退治した。
 だが、二人の兄たちは、「逃げた」という所業が世間に知れることを恐れ、三郎を深い谷に突き落した。
 でもね、三郎は死ななかったの。なんと、山の神が変じた大蛇と同じ姿になって信濃に抜けたんだそうだ。
 一方、甲賀の里に帰った太郎と次郎は、「三郎は大蛇に殺された」と言いふらしたと。三郎の妻や子の嘆きはそりゃあ大変なものだったが、三郎の菩提を弔うために観音堂を建てたと。
 
2005年12月3日号
8 甲賀三郎伝承3つB
「観音さま、どうか、夫の行が一段と進み、再びこの世で出会えますように」と三郎の妻はひたすら念じた。その甲斐あって三郎は33年目に甲賀の里に帰って来たが、里人が三郎を指し、「うわっ、大蛇や、大蛇やおっそろしや」と大騒ぎをするもので、初めて、自分の身が大蛇に変っていることを知った。急ぎ観音堂の下に入り、どうか、元の身に変えてほしいと祈った。そのうち、舌が柔らかくなり声も出た。
「ナム、ナム、南無観世音さま」
と唱えるうち人間の姿に戻ったそうな。観音堂を建てた妻や子に三郎はどんなにか感謝しただろうねえ。兄たちはどうしたかといえば罪の意識にさいなまれ自ら命を絶ったそうだ。
 やがて三郎は近江国の押領使(おうりょうし)となったが再び信濃に去り諏訪大明神になったそうだ。
 (その3)
 飯田市三穂に千頭山立石寺(真言宗高野山)の中興の祖として崇められている人物が甲賀三郎兼家である。このお方、弓や馬術に優れていた。特に鹿を射る名手としてその名は近郷近在に知られておった。射た鹿の数はなんと900頭の余にもなるそうだ。
 いつのことであったか、2匹の犬が3日も吠え続けるんで不審に思い樹の陰からそっとうかがうと、なんと、五尺(約150cm)ほどの鹿がいた。急ぎ弓づるをきりきりとしぼり矢を射た。と、その刹那、鹿はたちまち一寸八分(約6cm)の観音さまに化し、2匹の犬は2つの石になってしまった。
 三郎さま腰を抜かすかと思われるほどびっくりしなすったがすぐさま膝をつき
「あぁ、私めに射られた鹿の気持も考えず、とんだ所業をして来ました。どうかお許しください」
と深く侘び、狩衣の袖に包み帰りお祭りしたそうな。
 
2005年12月10日号
9 甲賀三郎伝承3つ おはなしの解説@
 甲賀三郎伝説は中世に流行した物語草紙の一つに『諏訪本地』と言われるものがあり、これが基本となって各地に流布したと考えられている。長野県内の三郎伝説はお話の(その1)と(その3)で(その2)は滋賀県甲南市伝承のものである。なぜか諏訪神社系に三郎伝説が多いのである。
 さて(その1)のお話を古代韓国語をも交え甲賀三郎の正体を考察してみたい。「甲」は古代韓国語で「カブ」で貝殻や甲羅の意である。「賀」は「ガ」で磨(と)ぐ。「三郎」は日本の侍の語源「サム・レィン」と発声し戦う者の意でもあり三男をも意味する。甲賀三郎とは(身を防御する)かぶとやよろい(古代は鉄製)を造る(打つ)三男と読めるので、大鍛冶、小鍛冶まで含む製鉄関係の三男ではなかっただろうか。春日姫の「春日」は「ガセガル」と発声し、「ガ」は磨ぐ、「セ」は新、「ガル」は耕す・替えるの意だそうで、古くなった鉄器を打ち直すと読める。蓼科山には位の高い高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が祭られている。李寧熙先生は「高句麗の澤鉄刀の神」と解いている。
「人穴」とは鉄穴のことで、実は鉄鉱石のことである。「藤蔓」は砂鉄を漉す時に必要な笊(ざる)を編む材料であるが、鉄鉱石が高温で燃えると、その火は藤色に見えるそうである。真楽寺は真言宗智山派で山号は浅間山といい、古くは浅間山守護の祈願所として建立された。
 その境内にある大沼の池は今も湧水量が多い。造り物の龍の首部が池から突き出ていてびっくりした。製鉄地には砂鉄を沈めておく池が必要だそうである。
  次は大蛇(蛇身になった)のこと。鉄は古代韓国語で「サ」、蛇も「サ」、鉄=蛇の概念は意味もわからずわれわれの生活に根づいている。鍛冶に水は欠かせない。水の守り神に蛇を崇(あが)める信仰はここから生まれた。
 
2005年12月17日号
10 甲賀三郎伝承3つ おはなしの解説A
「近津の森」とは近津神社のことで祭神は味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)で「鉄城の鉄王・高句麗を祈る者」と読めるそうである。神々の正体が見えないと神社の性格さえ霧の中で、前も後ろも見えないのではないだろうか。近くの「田切り地形」の中原遺跡群(小諸市)の古墳時代後期〜平安時代の住居跡から高さ10cmの円錐形の少し厚めの鉄鐸が出土している。乾燥地で鉄器類が多く残る貴重な場所である。
 次は佐久市の貞祥寺と松のことである。この寺は曹洞宗で清らかな湧水がしたたり落ちる。お話にある尾垂の松はなかったけれど、赤松の炭は火力が強く製鉄に不可欠な物である。「松」は松炭を暗示しているかに思える。古い時代貞祥寺のある一帯で自然の風を利用した露天たたらが行われていたのではないだろうか。
 春日姫が地上に出たと言われる湧玉の池の名称はなく「湧玉」はあるというので行った。水神の社の前を通り、ちょっと下った小川の端から水の玉が湧く。湧水量は多く美味であった。春日姫が行ったとされる群馬県の妙義山の妙義神社には日本武尊、菅原道真公の他2柱が祭られている。武尊の足跡をたどれば製鉄とかかわりがあることに気づく。菅原氏も鉄磨ぎの家系ではなかったかとも言われている。
 最後は、甲賀三郎は蓼科山を越え諏訪明神になったという。蓼科山を越えた茅野市にある横谷鉄山(現在は廃鉱)の鉱床は鉄バクテリアや緑そう類もその生成に一役買っている一種の沼鉄鉱で、鉄分に富む温泉や池の水が沈澱し、1mほどの地表鉱床をつくっている。諏訪地方は金、銀、銅、磁鉄鉱などの鉱物資源の豊かな所であった。李寧熙先生によると「諏訪」は「スバ」と発声し「W」と「b」は日本語に成り変る時交替するそうである。
 
2005年12月24日号
11 甲賀三郎伝承3つ おはなしの解説B
諏訪」はスバと発声し「鉄の場」の意味だそう。製鉄に不可欠な物を暗示する旅を続けてきた甲賀三郎にとって、なんと、ふさわしい活躍の場であったろうか。
『梁塵秘抄』には「南宮の本山は、信濃国とぞ承るさぞ申す、美濃国には中の宮、伊賀国には稚き児(ちご)の宮」とあるので、まずは「中の宮」とうたう岐阜県の南宮大社、仲山金山彦神社に詣でた。境内には製鉄関係の会社から奉納された鉄器類と鉱石が飾られている。
 興味深いのは蛇山神事で、社の左手の山の蛇池から神をお招きする。男の子が竜頭をかぶり舞う竜子舞もある。日守(火守)の地名や大社の裏手には真言宗の寺があり桜山の地名を持つ。「桜」のサは鉄のことクラは「倉」のことで、サクラとは鉄倉と学んだ。
 この地名からも、かつては確かに製鉄の地であったことを証明してくれている。
 いよいよ、稚き児の宮。それは、三重県伊賀市の敢国神社のことで、大彦命、金山昆売命、少彦名命を祭る。大彦命の後裔の阿倍氏は鉄山を管理した氏族であるし、稲荷山古墳から出土した鉄刀の銘文「乎獲居(をわけ)の臣の上祖、名は意冨比こ(おほひこ) 」に大彦命が比定されている。また、少彦名命は、手の俣から漏れたそうな。細かな微粒子は砂鉄であろう。そして本殿に向って右の相殿には甲賀三郎が座す。同神社域内観音谷にお墓もあると、若い神職さんが話してくれたことがあった。いつか追求してみたいと考えている。
 敢国神社地内に諏訪明神社も座す。祭神はもちろん甲賀三郎である。下方の地に池があるが「あれは諏訪湖じゃないか」と筆者の夫の声に思わず拍手をしてしまった。同市の諏訪地区には古社の風情を残した諏訪神社がある。勧請者は甲賀三郎で、信州よりと神社略誌にあった。
 
2006年1月1日号
12 甲賀三郎伝承3つ おはなしの解説C
 伊賀市の散策絵地図では、忍者が案内役をしてくれる。伊賀忍家の宗家は服部氏、甲賀忍家の宗家は望月家であるがこの望月家、甲賀三郎こと望月三郎が子孫であると言われている。望月家は甲賀市の飯道山(山伏道場、役行者開基)と関係が深く神符と薬を売ることを業としていたそうな。
 さて甲賀三郎=望月三郎となるのかナゾ解きをしてみよう。望月三郎のモは「集め」の意のモではないかと考える。チは「嵌(は)める」(柄を付ける、さしこむナタや鎌、刀、鍬など)の意。「月」は製鉄の地を意味すると考える。韓国の浦項(ぼはん)市の浦項製鉄の近くの日月池(いるおるち)に古代の製鉄遺跡があるそうな。また、古代の製鉄技術者集団が日本へ亡命したことを示すお話も残っている。
 望月三郎とは「(鉄)嵌めを打つ集め地の三男」と読める。両者とも製鉄あるいは鍛冶の家系の三男なので甲賀三郎=望月三郎の等式が成り立つのである。
 かつて、『神道説話の成立』という立派な本を読んだことがあったが、甲賀三郎、望月三郎に関して「鉄」との関わりは皆無であったが、著者は「血縁的なつながりにより同姓を称しているのではなく、出自職能に近似したものがあったため同姓を称するに至ったのではないか」と記している。
 この文章に合えたからこそ、ますます両者が鉄と繋がる家系であると考えられるようになった。
 さて、7年に1度の「御柱」の祭の主役の御柱の意味がわからなかったが『古代の鉄と神々』を読んで納得した。それによると古来、製鉄のたたら炉の高殿の4本の押立柱の南方の柱を神聖視し、金山彦神を祭る。
それが「御柱」の起原ではないか。建南方の「ミナカタ」=南方で南宮の本山だからこそ祭として残ったのではないだろうか。
 
 
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