2006年1月14日号
13  炭焼き長者@
 昔、小諸の伏屋が原に、炭焼きを生業にする松若というひとり住まいの若者がおったそうな。
 炭焼きの合間に野菜や栗やソバなどを作っては市で売って暮しをたてていた。
 一方、その頃、都の近衛三位泰親というお方にそれはそれは器量よしで品のいい娘がいたけれど、どうしたわけか三十を過ぎても嫁がずにいたと。父母の嘆きたるや一方ではなかった。
「あの娘は、親の口から言うのもなんですけれど、心映えもよく、これが出来ないということはないのにどうして縁遠いのでしょう」
「ほんになぁ」とため息をつく毎日であった。で、ある日のこと、思いあまって、都で名を馳せていた陰陽師に占ってもらったところ「夫になる人は信濃の伏屋におりまする。日本の国中探してもこの人より夫にする人はおりません故、早く信濃に出立させなさい」と言うではないか。父母や親類は、(不思議な卦だ)と思ったが、とにかく教えにまかせようと旅の支度をととのえた。近衛家では精一杯のお土産の他に黄金二百枚とお供を二人つけ信濃へと送り出したそうな。
 その日、伏屋の松若は焼きあがったばかりの炭を釜から出し、一番出来ばえのいい炭を選んで釜神さまにお供えした。
「釜神さまのご加護をもちまして、いい炭が釜出し出来やした。うれしゅうごわす。あしたは市の日でごわすんで、持って参ろうと存じます」
と頭を深く深くたれた。それから晴々とした顔で、夕飯の箸を取ろうとした時だ。
「もうし、もうし、おたのみ申す」
と、外で男の声がした。
(はて? 聞き覚えのない声だが……)と思いながら戸を開けると、この辺りでは見かけない女づれの旅人で、声をかけてきたのは供とおぼしき男であった。
 
2006年1月21日号
14  炭焼き長者A
「ど、どなたさまでごわしょう」
びっくりする松若に供の男は、なぜ松若を訪ねるに至ったかを話した。
「それは、それは、都からの長旅お疲れでごわしょう。あばら家ではありますが暖をとる火だけは充分ありますゆえ、どうぞ中にお入りください」
と松若は一行を家に入れ、いろりに炭を継ぎたした。
 供の男は両手をついて
「このお方は、あなたさまの妻になるお方であります。どうか、末長く仲よくお暮らしください」
と言うし、娘もまた
「ふびんと思いくださってあなたさまの妻にしてくださいませ。どうかおたの申します」
おっとりした調子で言った。
「実は、わしのじじさまは近衛三位中将親房といって都の人だと聞いておりやすが、あなたさまのととさまも近衛三位とは不思議なご縁ですなぁ」
松若はこの不思議な縁をよろこび、早速、祝言をあげたそうな。
「これでご主人さまにうれしい報告ができます。どうか、仲むつまじく、とお願い申し上げます」
供の者たちはそう言い残して都へと帰っていった。
 新しい暮らしには、あまりにもなんにもなさすぎた。そこで、松若は妻に相談して品物をそろえることにした。ある日、妻が持参した黄金をくずし買物に出かける途中、林の中で遊んでいる、それはそれはまばゆい錦の鶏を見つけた。ちょいと手を伸ばせばつかまえられそうだ。松若が近づいていくと、コッコ、コッコと鳴いて逃げ出す。また追って行けば地を蹴っては飛び立つし、そうかといって、そう遠くへも行かない。
「都住まいだった妻でもこんなにきれいな鶏は見たことはあるまい、ぜひ、生け捕って妻に見せたい」
と、日がな一日鶏を追った。
 
2006年1月28日号
15  炭焼き長者B
 松若は逃げる鶏にむかって、気なしに、懐に手を入れ黄金を鶏に投げつけた。するとどうだろう。錦の鶏も黄金もたちまち消えてしまったではないか。
「ややっ、どうしたことだ。消えたっ! 妻の黄金も失ってしもうた」
松若は顔色を変え必死になって草むらを探したが、どこにも黄金は見当たらない。
 しょんぼりと肩を落して帰った松若に、妻はやさしく
「これからは欲を出さずに二人力を合わせて働きましょう」
と言ってくれた。
「ほんに、わしは、はずかしいことをしたものだ」
二人そろって地にひれ伏して釜神さまにおわびをした。そして、静かに目を開けるとどうだろう。お供えしておいた炭がまばゆいばかりに輝いて、みーんな黄金に変っているではないか。
「これは釜神さまのお恵みだろうか。なんと、ありがたいことよ。もったいないことよ」
ますます深く頭をたれた。
 松若はその黄金を元手に田畑を開き、ひたすら働いた。そのかいあって長者と言われるまでになったが、
元はといえば錦の鶏がきっかけだと、お礼の気持を込めて黄金の鶏をこしらえ家宝とあがめたそうな。で、
世の人々は「金鶏長者」とか、炭が黄金に変わったことから「炭焼き長者」と呼ぶようになったそうだ。
 それからずっと後のことだが、八幡太郎義家が、奥州征伐におもむいた時のこと、長者は馬百頭をそろえて、田を耕していた。それを見た義家は
「うむ。立派な馬だ。よし軍馬として頂こう」
と召し上げた。しかし長者は少しもさわがず、すぐさま代りの馬、百頭を馬屋から出して田を耕し続けた。
さぁ、それを見た義家、このような用意があるとは恐ろしいとばかり、長者を討ち滅ぼしてしまった。
 
2006年2月4日号
16  炭焼き長者 おはなしの解説@
 炭焼き長者は別に金鶏長者と言ったり、伏屋長者(下伊那郡阿智村に伝承される)とも言う。
 表題の長者のいた伏屋が原は、小諸市の糖塚山の東、山の前あたりから東にかけての地を言うそうである。
 糖塚山=長者の米糖の捨て場があったことから名づけられたそうな。
 繰矢川=長者の厨の水が流れ込んでいた川だという。
 釜神=釜神さまを祭っていたことからこの地名が残っているそうである。
 炭焼き長者の舞台になった時代の手がかりは、八幡太郎義家が登場することから平安時代後期と思うのだが、義家に打たれた長者は初代なのか二代目、あるいは三代目なのかはお話の中からうかがい知ることはできない。
 炭が黄金に変わるなどということは、だいたいあるのかしらん。不思議な出来事である。そこで、物語に登場する言語を洗い真相にせまってみたいと思う。
 さて、「信濃(科野)」とはどのような意味をもつのだろうか。科の木が多く産出したからとか、級戸の神が風の神であることから風の強い高原の意であるとか、級坂(階段状になった傾斜地・河岸段丘・崖錐)の多い国であるためと説かれているが、いまだに定説をもたないのである。
 数年前の暮れのこと、李寧熙後援会の会報『まなほ』が届いた。ページを開いてびっくりした。愛知県の知多半島にも信濃川があるではないか。佐布里池から名古屋港にそそぐらしいのだが手持の地図には載っていない。李先生は「シナノ」を「鉄の出る野」と解いていた。読んだ瞬間、すごいっ! やっぱり! とばかり椅子から立ち上がってしまった。深くその説に納得するのは、すでに筆者が解いている信濃にかかる枕詞に合致するからである。
 次回は枕詞の真相を。
 
2006年2月11日号
17  炭焼き長者 おはなしの解説A
 枕詞は単に一定の語の上にかかって修飾したり、口調を整えるだけの言葉ではないと考える。
 信濃(科野)にかかるとされる「み薦(こも)苅る」は「みすず苅る」と誤読されたものであるそうな。
『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)の中で、信濃に生えているのは「こも」ばかりではない。
薦・葦・茅のような禾本科(かほんか)植物を広く「すず」と称したであろう(だから)「すず」と読むのが正しいと思う、と記している。「みすず苅る」を正しいとして、その語源を解いてみた。まず「み」を前出の書物では接頭語だと記しているが、思うに「み」は接頭語でも美称でもなく「水」の意の「み」に当てる。古代韓国語でも「ミ」は「水」の意もある。
 次は「すず」である。前出の書物の中で、植物の「すず」と「鈴」のアクセントはまったく同じであると記している。かつて、千曲市桑原の佐野川へ褐鉄鉱の団塊、高師小僧を探しに行ったことがあるが、同行してくださった堀内茂芳さんは、「高師小僧は振ると、カラカラ鳴ります」と教えてくださった。地方によってはこれを「鳴石(なりわ・なりいわ)」と称すそうである。いったい、褐鉄鉱の団塊はどうやって生成されたのだろうか。『古代の鉄と神々』の著者は記す。水中に含まれている鉄分が沈澱し、さらに鉄バクテリアが自己増殖して細胞分裂を行い、固い外殻を作ったものであると。
 沼沢・湖沼・湿原の茅・葦・薦等の根に好んで形成される鉱物を、太古これを「すず」と称したのであろうと結んでいる。
 その「すず」こそが、弥生時代の製鉄の主原料であったのである。
 次は「苅る」である。「かる」の音は、古代韓国語の「ガ」が、語源ではないかと考えている。
 
2006年2月18日号
18  炭焼き長者 おはなしの解説B
「ガ」は「磨ぎ(ぐ)」の意で、二つの法則を経て「かる」になり「苅る」の字が当てられたかと考える。「みすず苅る」とは「水から生れた鉄を磨ぐ」と考えれば「シナノ(鉄の出る野)」に合致するのである。上古の歌人は「みすず苅る信濃」の意味をきちんととらえて使っていたことがわかるのである。
「伏屋が原」の「ふせ」は「ブセ」と読める。「ブは火のこと」「セは鉄のこと」「原は地」のことで、鍛冶の地が伏屋が原だったのであろう。鍛冶に炭は不可欠なものであるからこそ炭=黄金の相関が成り立つのである。
 その次は「長者」についてである。李寧熙先生は「長者」は、韓国語のウサ、ウシ、ウス(大きい存在)を指し、日本に来て「をさ」というやまと言葉になり、一方、をさ、をし、をす、は「丘鉄」をも意味し、砂鉄まで含む「鉄」全般を指す語になったと言う。長者=鉄の等式から炭焼き長者は鍛冶王であった。
 また食も人が生きるに不可欠なもの。多くの人手を用い鉄器をもって野山の開墾をすすめていったであろう。長者は馬もたくさん飼っていた。平安時代の望月の御牧も近い。御牧の前身の私牧を彷彿とさせる。
 さて、古くからの家畜、牛やヤギが声を上げることを鳴くというのに、馬にかぎって「いななく」というので、その語源に迫ってみたい。
 ギリシャ文明では、馬を「聖なる動物」としてとらえ、「馬力」という単位もある。『日本書紀』の天武天皇の頃に、新羅から60余種の贈物があって、その中に騾(ら)一頭とあるのはロバのことで、そのロバが馬に先立つ動物で、古代の貴人がよく乗っていたという歴史がある。ロバは古代の韓国では「ナグ」とか「ナギィ」と呼ばれていた。
 
2006年2月25日号
19  炭焼き長者 おはなしの解説C
馬に先立つ動物、ロバを手がかりに「いななく」を解いてみた。
「いななく」の元の音は「イナナギィ」ではと推測する。「イ」は聖なるの意、「ナグ」はロバの意で、古代韓国語が日本語に成り変わる時、終声音が消えるという法則をもって「ナ」だけが残る。「ナギィ」は鳴くの意で、終声音が消え、もう一つの音として独立するケースに当り「ナク」となる。つまり「いななく」とは、「聖なるロバが鳴く」という意味の可能性があるのではと考える。
 以前、乗馬言葉の「ハイ、ドウドウ」の意味を尋ねられたことがあった。「ハイ」の意味はわからないが、「ドウドウ」は本来「百々(どうどう)」で打つ、叩くの意ではなかったかと考えている。新羅語であるそうな。茅野市には百々(どうどう)沢の地名があり、その上流には廃鉱になっているが黄鉄鉱の鉱山があった。須坂市にも百々(どと)川がある。源流には硫黄鉱山があったが現在は閉山となっている。「百々」とは乗馬用語とばかり思っていたが、「百々」の地名を拾っているうちいずれも鉱山にぶつかった。打つ、叩くの意の「百々」の原義は鉱物を打つ、叩くであったかと、偶然の発見に驚いている。
 余談になるが、鉄器とのかかわりで告白することがある。小学4年の夏のこと、鉄火みそを作ろうと思い立ち、鉄鍋に油を引き薪を燃やした。子どものこととて手順が悪く、火を付けてから茄子を切っていたところ、パチパチという音に振り返ると鍋は真っ赤になり、たちまちオレンジ色に変わった。迷わず火箸を使って窓の外に放り出した。落ち着いてから鍋を見ると、見事にど真ん中に楕円形の穴が開いていた。やがて母に見つかったが、首をかしげ唸るばかり。とうとうオレンジ色に輝いた鍋の穴の真相を秘したままである。
 
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