2006年3月4日号
20  蟹 寺 @
 昔、園里(須坂市豊丘)に百姓の五兵衛という人がおって、その子に花子という名の娘がおったそうな。
 ある日、花子は親類からおだんごをもらっての帰り道に、ときどき花子にいじわるをする太郎に出っくわした。花子は胸にかかえていたおだんごの包みをとき
「太郎ちゃん、できたてのおだんごよ。少しあげるわ」
「うわっ、うまそっ!」
と、太郎は喜んでくちにほおばった。それから
「これ、礼だわっ」
と川ガニを、まぁ、たまげた。百匹ほどもくれたのだ。
 花子はもらったカニを食べるにしのびず、そばの谷川に放してやったそうな。
 いっぽう五兵衛は、山仕事が終っての帰り道で、どでかい蛇が、今、ガマを呑みこもうとしているところに出っくわした。
 五兵衛はあわてて蛇にかけより
「なぁ、蛇さんよ。くちのガマを放しておやり」
と声をかけるのに、蛇はくちを大きく開きガマを咽に送ろうとした。
「まぁ、まぁ、待った蛇さんよ。わしのでぇじな娘をおめぇさんにやるから、そのガマを放しておくれ」
早くちに五兵衛がいうと、蛇は「承知した」というやすぐさまガマを放し、草むらに姿を消した。
「あぁー。よかったなぁ、二度と、とっかまるなよ」
 五兵衛は胸をなでおろしながらガマを草のかげに入れてやった。
 いつもの五兵衛だったら山での出来事を愉快そうに話すのにその晩はむっつりとした表情で考えこんでいた。しばらくして決心したかのように、いつもより雨戸をきちんと締め、しんばり棒までおっかった。
 真夜中のこと、雨戸をたたく音がする。雨戸の節穴からのぞくと、立派な若者が立っていたが、五兵衛には蛇が若者に化けていることは想像できた。
 
2006年3月11日号
21  蟹 寺 A
 雨戸をたたく音は、いかにも「娘をもらいに来た。約束を果たせ」と聞こえる。五兵衛はしんばり棒をにぎりしめたまま身じろぎもしないで夜を明かした。
 朝になって五兵衛が、妻と花子にかくかくしかじかときのうの話をすると
「大蛇の所にまいりましょう。つきましては鉄の箱に入って行きたいので急ぎ鉄の箱を作ってください」
 りん、とした花子の声になみなみならない決心を悟った五兵衛はすぐさま鍛冶屋を呼び、鉄の箱を打った。外箱には木を使い二重箱にした。その中に花子が入り、まんじりともしないで夜を待った。夜ふけに、ドンドンドドーン、と雨戸がたたかれた。五兵衛がふるえる声を抑え
「娘は庭先の箱の中だ」
 というと、大蛇は聞くが早いか箱に巻きつきしめ壊そうとした。メリメリ、ドスン、バタン。箱が地面に打ちつけられる音が響きわたった。花子の悲鳴も聞こえる。五兵衛も生きたここちはしない。ただ、こぶしをにぎりしめ神に娘の無事を祈るばかりであった。
 家の外では不思議なことが起こっていた。
 あたりの草むらから、何万何千匹であるか、数えきれないほどのカニの大群がチョキチョキ鋏をかざし、泡を吹きながら大蛇めざして集まってきた。それから、大箱に巻きついている大蛇と大合戦になった。さすがの大蛇もカニの大群にはかなわない。ちっと力が衰えてきた時、草むらからガマの大群が毒気を吐きながらカニの応援にやってきた。勢いづいたカニはとうとう大蛇をやっつけた。しかし、カニとガマは一匹残らず戦死してしまったそうで、助かった娘と五兵衛は、カニとガマを大ぼてに拾い集め山寺に行き、手あつく葬ったと。その山寺を、誰言うとなく蟹寺と呼ぶようになったそうな。
 
2006年3月18日号
22  蟹 寺 おはなしの解説@
 本稿「蟹寺」の出典は『上高井誌』歴史編であるが、同類の話は『上田市付近の伝承』(箱山貴太郎編)にもあり、実に懐かしい真田地方の方言を交え綴られており、話者が目の前にいるかのような臨場感あふれる文章である。
 その他、京都府山城町にある蟹満寺の「蟹満寺縁起」にもあり、この縁起に関する資料は、『今昔物語』や『大日本国法華経験記』にもある。
 さて、須坂市豊丘の蟹寺に行ってみようと思い立ち、黒姫童話館の館長の羽生田敏先生とご一緒に豊丘を訪ねた。だが、捜せども捜せども蟹寺が見つからない。そこで、郷土史にお詳しい豊丘在住の吉田五ッ雄さんにお聞きしてみると、蟹寺はないとのこと。「カニデラ」の発声に近い「ガニデーラ」という平らな場所はあるそうな。それに昔はカニもいっぱいいたそうである。そこで、ハタと思い出したことがある。真田地方では「平」を「デーラ」とか「テラ」と発音する場所がある。須坂市と真田は菅平を境に近い位置関係にあるので、似た言葉づかいをしてもおかしくはない。また豊丘では「カニ」を「ガニ」と言うそうである。「ガニデーラ」が「ガニテラ」→「蟹寺」に変化していったのではないかと、三人の間で結論づけられた。
「ガニデーラ」の現場に立って驚いた驚いた。深い谷を刻む奈良川(なろうがわ)は、まるで大蛇が身をうねらす姿に似ている。羽生田先生と思わず息を呑み「大蛇が川を下ってるぅ」と叫んでしまった。
 うねる大蛇の岸には目測400坪ほどの平地があり、一部には公共の施設や墓地もある。この場所を「ガニガワラ」とか「ガニガラ」とも言うと中灰野の阪田邦登さんが教えてくださった。
 また近くに寺久保の地名もあるそうな。「蟹寺」捜しの旅はまだ続くのである。
 
2006年3月25日号
23  蟹 寺 おはなしの解説A
 寺久保に寺があったかは、どんなに手をつくしてもわからなかった。ただ、観音堂はあって如意輪観音が祀られていたことは確かである(現在は上原地区にある)。寺久保の観音堂=蟹寺の等式の成り立つ資料が皆無である。
 さて、もう一度奈良川の岸辺の「ガニデーラ」「ガニガラ」に戻った。小字名は間瀬口である。「マセ」の音を古代韓国語に代入すると「鉄の間」と読める。
 ここで物語を読み解いてみよう。最初に登場するカニは、李寧熙先生によると「(鉄を)磨ぐ人」の意であるそうな。つまり鍛冶師である。大蛇、蛇(サ)=鉄(サ)は古代韓国語の音意の認識からである。蛇が好んで住む湿地は、稲作の初発期に最も適した所でもあり、鉄器の原料となる水酸化鉄の生成される場所でもあるからなのだ。
 次に登場するのはガマ(蛙)である。上代は「かはづ」と発音した。その語源は「河のもの」の意の古代韓国語「ガパチ」で「皮作り」または「製鉄場(鍛冶場)の貴人」の意もあるという。また「ガマ」の音だけでも「(鉄の)磨ぎ間」と読めるのである。
 ガマ(蛙)は物語のチョイ役に登場したのではなく、きちっとした意味と立場があったことが、語源を探ることで見えてくる。
 諏訪大社上社本宮では1月1日の朝、蛙狩(かわずがり)の神事がある。御手洗川(みたらしがわ)の川底から必ずカエルが見つかることから、大社七不思議の一つとされている。そのカエルは拝殿で神にささげられる。製鉄神の南宮の本山信濃一の宮に、蛙が神事で大役を果していることに驚くと同時に、よく神事として残ってくれたものだと感じいっている。
 カニ「(鉄を)磨ぐ人」を助け、大蛇が壊せない鉄の箱に入る娘は並ではないことが推測できるのである。
 
2006年4月1日号
24  蟹 寺 おはなしの解説B
 大蛇とは上の位の存在で、ガマにとっては悪首領であり製鉄場潰しにかかったのだろうか。鍛冶場で働く関係者が、一丸となって悪首領をやっつけたというのが真相であったやもしれぬ。また、カニやガマは戦死したと語られているが、あるいは、新天地を求め旅立ったのではないかと思う。カニやガマが去った後でも、
彼らが活躍した地は地名や伝承が残った。
「ガニデーラ」や「ガニガラ」で活躍した人々は、どこからやってきたのだろうか。上原にはこの地の開拓者の積石塚や古墳がある。
 大蛇かと見まがうほどの奈良川(なろうがわ)の砂鉄量を測ろうと思ったが、谷が深く、おまけにコンクリート製で足場がないので砂の採取は残念だが諦めた。
 須坂市をもう少し知りたくて町を散歩してみた。
 須坂の地名は墨坂(すみさか)が転化したとの伝承を見つけた時、鉄作りのたたら場に炭坂という炭の係の人たちがいることを思い出した。古代韓国語で「スム(炭)サカ(混ぜる)」と李先生は解いておられたのでよく覚えている。では須坂は「ス(鉄)サカ(混ぜる)」となる。この二つの固有名詞は、たたら場の炉に炭や砂鉄を混ぜる人々を彷ふつとさせてくれるではないか。
 須坂市にはややこしいことに墨坂の冠を持つ神社が二つある。長い歴史の中で社号と祭神に混乱があったらしい。通称芝宮の祭神は墨坂神で、奈良県の榛原(はいばら)から部族の移動と共に遷(うつ)ってきた。天武2年のことだそうな。もう一つは百々川(どどがわ)を渡ってじきの、通称小山八幡または墨坂八幡で貞観2年に京都の石清水八幡よりフイゴの地と読める品陀和気命(ほんだわけのみこと)を勧請している。  百々川の百々は「(鉄を)打つまたは叩く」の意の百々(ドウドウ)の音にそっくりである。この地もまた鉄作りに叢(むらが)るのである。
 
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