2006年6月3日号
32  鬼女紅葉 @
 それは、平安時代の中頃、朱雀帝承平7年秋11月、奥州会津の貧しい暮しの笹丸、菊世の夫婦に、それはそれは愛らしい女の子が生れたそうな。お七夜の晩に女の子は呉葉と命名された。
 両親の深い愛に守られ、呉葉は愛くるしい上、とても利発な娘に育っていった。幼い頃から、読み書きを覚え、いろりの灰に字を書いたり、かかさんから聞き覚えた物語をそらんじ、両親の目を見はらせた。
 また、母の膝の近くで、縫事を覚え、その針の運びは母の菊世を驚かせた。両親は貧しい中から金子を工面して琴や和歌を習わせた。呉葉は何をやっても、その上達ぶりはみごとで
「ただ物覚えがいいっつうだけじゃなし。別ぴんさんだし、だが、ただの別ぴんさんじゃあなく、気高さちゅうか、気品があるわいね。呉葉はただ者じゃねぇぞ。そう、つぅ、ことは親もただ者じゃなかろう」
と世間ではうわさし合った。
 母の菊世は針仕事の手を休めては
「今はうらぶれた身ではありますが、わが一族はかつて都で永く位の高い役人でありました。が、御所の応天門が炎上した事件に巻き込まれ都を追われる身となったのです。いつか、都の地に帰りたいと、ととさんはきっと思っておいででしょう。その時のために呉葉、学問や芸事を身に着けましょうぞ」
と呉葉にくちが酸っぱくなるほど言い聞かせた。
 都に上る夢を呉葉16歳の夏、天暦6年6月に実行したのだった。
 京へ上った親子は、父を伍輔、母を花田、呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めた。親切な人にも出会い、その人の紹介で四条わたりの町はずれに一軒の小間物屋を開いた。屋号を「鈴屋」と呼び、そこで紅葉は琴や針仕事や習字を子どもや町娘に教えたそうな。
 
2006年6月10日号
33  鬼女紅葉 A
 鈴屋の看板娘紅葉の、都の姫方と競っても負けないほどの気高さは、たちまち京の町のうわさとなってひろがっていった。特に琴の腕前は優れていて、紅葉が琴を弾けば、ウグイスはその音を止めてしまうとか。また夏の蒸し暑い日に弾けば、聞く者みんな、なんとなんと、自然に涼しさを感じるそうな。
 ふとしたことから紅葉は宮廷の守護役の源経基の御台所に見出だされ、その腰元となった。琴の名手である紅葉のうわさは経基の知るところとなり、琴がとり持つ縁で経基の側室となった。やがて経基の子を宿したが御台所との確執に「紅葉は妖術でもって御台さまを呪い殺そうと企んでいる」との疑いがかけられ、信濃国の水無瀬(今の鬼無里)へ追放となった。
 そこは草深い里で、西に山を背負い、前を裾花川が流れていた。今の内裏屋敷に紅葉は両親とわずかな供と一緒に入ったのである。
 そして、そこで経基の子を生んだ。男の子であった。父親の一字をとり経若丸と命名された。
 水無瀬の里での紅葉は、はるかな都をしのび、やがては経若丸を連れ、経基との親子の対面をしたいもの、それには経若丸を立派に育てねばと、子どもへの養育をおこたらなかった。
 叶うことならば仕官を、と願い、京に使いを何度となく出したが、経基からの返事はなかった。
 そうした間も、紅葉は里の人々に裁縫や読み書きそろばんを教え、病に苦しむ者あれば妙薬を与えたりしてとっても喜ばれ崇められていたそうな。
 ある日、京よりの使者として、平維茂が信濃入りをした。紅葉の喜びは大変なもので、酒宴を開き、それはそれは、厚くもてなした。が、紅葉はその席で初めて経基が10年以上も前に他界していたことを知った。
 
2006年6月17日号
34  鬼女紅葉 B
「維茂さま、経基さまの後をうけ任にあるご子息の満仲さまに仕官のこと、どうぞ、おとりなしを」
 紅葉は必死に頼んだ。
「今の京は荒れており、経若丸さまはこの里で暮すがお幸せかと。満仲さまも御台所さまの手前、あなたさまが考えるようなわけにはいかないと存ずる」
と、維茂は言いながらも、酒の酔いの中で(紅葉殿のよきようにしてやりたいが、どうしたものか)頭をかかえる維茂であった。
 その後も維茂は紅葉の館に出向き話し合ったが、経若丸の末を思うあまり言い放つ紅葉の言葉に、鬼心を見た思いがした。
 維茂はいったん京に帰り返事をすることを約束し、信濃を去ったかに見えた。が、別所の七久里に着き、
ここで、京の満仲の元に使者を飛ばし、紅葉との交渉の経過を報告、断を仰いだ。
 その頃、紅葉は京の楽しかった日々を経若丸に語ってきかせていた。
 平維茂のことも紅葉は、
「維茂さまは、剛胆にて沈着、武勇にすぐれ、その上礼節も正しく、情愛も深く花も実もあるお方です。きっとよきようにおはからいくださるでしょう」
と、そんなふうに言った。
 当の維茂は郷里の越後に帰る道すがら、満仲から紅葉の説得を頼まれ軽く引き受けたが、ここまでくると引き下がるわけにはいかなかった。その上七久里に、満仲から、家門を乱す怖れあり紅葉一家を滅ぼしてほしい、との依頼状が届いた。維茂は引き下がるわけにいかず、とうとう紅葉討伐に腰を上げた。
 維茂が去って20日目の明け方、紅葉は突然の乱入騒ぎに気付いた、が、時すでに遅く、紅葉は、つわ者どもの刃のさびとなって果てたのである。これを知り経若丸は、館を抜け出して祖父母の土塚の前に座り、自らの命を絶ったのだった。
 
2006年6月24日号
35  鬼女紅葉 おはなしの解説@
 紅葉に関する説話は、古くより今日まで数多くある。今昔物語、太平記、謡曲「紅葉狩」「北向山霊験記」。それに、戸隠の荒倉山を中心として多くの遺跡と遺物が存在するが、いずれも紅葉は魔性を身に付けた「鬼女」であると伝えている。
 しかし、鬼無里では、京の官女として貴ばれ、尊敬され、里人のために裁縫、読み書きそろばん等を教えた「貴女」として伝わっている。
 再話では紙幅の都合もあり、紅葉の出生から、子を思う母性愛を主とした。が、地名や神社創立の伝承を読み取るうち、紅葉伝説には密かに隠された別の真実のあった気配を感じる。それには鬼の正体を知らねばならないし、紅葉の語源にも迫りたい。きっと意外な真相が見えてくるであろう。期待感を持って鬼無里、戸隠を訪ねてみた。
 鬼無里には何回か足を運んだ。1回は、元信濃毎日新聞社報道部の丸山祥司さんが、いろは堂というおやきの店のお母さんをご紹介くださった。
 お母さんは、水無瀬の里で穏やかな日々を暮した紅葉の化身かと思われるような、容姿も物腰もそれは美しく、つつましやかで、なおかつ、情の深いお人柄であった。
 さて、いろは堂の庭の先には水量豊かな裾花川が流れている。裾花川は古くは煤(すす)花川といった。ススバナとは、濯(すす)ぎ(洗う)生む処と読める。スソバナは、鉄濯ぎ(洗う)生む処と読め、ススバナとスソバナは同訓同義語である。ついでに鬼無里は、鉄生みの城と読める。鬼無里の古名水無瀬はというと、水鉄生みと読める。つまり砂鉄生みの意である。前出の語源を証明するかのように、裾花川の砂鉄量は多いのである。地名を付けた先人方はきちっと真の意味をとらえていたのである。
 
2006年7月1日号
36  鬼女紅葉 おはなしの解説A
 鬼無里には京の都になぞらえた、東京(ひがしきょう)、西京、高尾、東山、清水、二条、三条、四条等の地名がある。これらは、紅葉が京を懐かしみ名付けたとの伝承もあるが、紅葉が生きたとされる10世紀以前すでに都人が鬼無里に入っている伝承がある。
 @日影地区の小高い所に白髯神社がある。社歴によると、西暦685年、天武天皇がこの郷に皇居を移そうとして、その鬼門にこの社を創立したという。
 A西京の春日神社も、やはり天武天皇が遷都の地検分のため三野王(みぬの)が来村し創建したとある。
 B紅葉が都から来て直に入ったといわれる今の内裏屋敷の裏山には「月夜ノ陵」という墳墓がある。やはり天武天皇時代に地形検分に来た皇族(三野王の墳墓かは不明)が客死したという伝承を持つのである。
 @に興味をいだくのは祭神が猿田彦命であるということである。李寧熙先生はサルタヒコを砂鉄の地を祈る子(男子の祭祀者)と解いておられた。白髯神社の下の方に砂鉄の採れる裾花川が流れている。
 Aの春日神社で興味のあることは、この神社は裾花川と天神川の合流点に位置する。こうした場所には砂鉄がよく集まるそうである。
 Bの「月夜ノ陵」で心ひかれるのは、月夜である。
月は古代、製鉄炉(露天たたら)の象徴だった。三日三晩燃え続ける火は遠くから月のように見えたのでは、との説もある。月は一ヵ月たつと再びめぐってくるものであるし、鉄もまた再生できるとの認識から製鉄炉の象徴としての「月」があったのではないだろうか。
「夜」は、李先生によると上・古代の韓国に「穢(ええ)」と呼ばれた製鉄の部族国家があり、早期に日本に進出。日本の古文献の「ハ」や「夜」のつく神名、地名、人名は「穢」との関わりがあるそうである。
 
2006年7月8日号
37  鬼女紅葉 おはなしの解説B
「月夜ノ陵」に眠る主は、穢(ええ)系の製鉄技術者という推測もできるのである。
 鬼無里の地名、神社等の伝承や語源を洗えば製鉄(鍛冶を含む)に繋がる。そうした事柄から見えてくることは、鬼無里は上古代には名だたる鉄処であった、と考えられるのである。
 さぁ、表題の「鬼女紅葉」とは? 隠された素性があるのだろうか、そしてどんな意味があるのだろうか。
 もしも「鬼」の絵を描くとすれば、まず頭に1本か2本の角を描き、眼は厳しくランランと光り、くちは裂け、全身は真っ赤で筋肉はこんもりと発達している。そうそう忘れちゃいけないわ、虎皮のふんどしと、いぼの沢山ある金棒も描かなくてはね。
 日本の鍛冶師(かじし)の守り絵図の鬼は、鍛冶師の向こう槌を打つ。鍛冶屋さんと最も息の合う相棒である。また、韓国の鬼も鍛冶屋で正しくは「たたき屋」であったそうで、金棒は熱い鉄のかたまりを叩くハンマーを指すと李先生は言う。また、虎の皮のふんどしは火に強いそうな。虎は日本に棲息していないところをみると、「鬼」は渡来の鉄の精錬師であったろう。厳しい表情から仕事への真剣さが伺いしれる。
 さて次は「紅葉」であるが、生身の紅葉を解く前に戒名を見てみよう。
 鬼無里の松巖寺には、小さな五輪の紅葉の墓がある。戒名は、「竈厳紅葉(ふがんこうよう)大禅定尼」という。「竈」の一字を調べると、「竈(かま)」はくどであり、へっついである。また、竈将軍といえば、一家の中で思うままに権力をふるう人のことである。戒名には当人の生きざまがよく刻まれるところから、「竈」=「製鉄炉(鍛冶炉も)」の等式が考えられる。紅葉は宮廷から派遣された人物で、美しく教養もあり、なおカリスマ性をも持つ鉄処の管理者であったろう。
 
2006年7月15日号
38  鬼女紅葉 おはなしの解説C
 紅葉は都から追放されたのではない、鉄処の管理者なればこそ、里人が用意したとされる屋敷に直に入れたというのもうなずける。
 紅葉は会津に居た時は呉葉といった。紅葉の名は、京に来てからとも、信濃に来てからとも言われているが、語源に迫れば様々なことが見えてくるのである。まず呉葉は本名で紅葉は討伐命令が出てからのニックネームではなかったかと考える。そして、ナゼ紅葉が討伐されねばならなかったのか、すべての重大な答えは「もみじ」の語源にある。
 李寧熙先生は韓国語のモッミチ(行き届かない、または及ばないこと)が日本に来て「もみち」「もみじ」になったと言っている。
 鉄処の女親分の仕事は、砂鉄を沢山漉し精錬し大量の農具と武器の生産性を上げることであろう。だが、
生産能率が悪かったか、鉄の流用でもあったのか。管理者落第の烙印を押され、宮廷で「もみじ」とあだなされた。平維茂は紅葉に、「身分を去れ」と説得にやって来たが、紅葉は拒否したため討たれたのではないだろうか。
 真相を隠すために御簾を掛けたが、御簾の間から透けて漏れる真実もあった。表題の物語の発生はそんなところにありはしなかったかという思いが強い。また、紅葉伝説を訪ね戸隠の志垣の鬼塚も訪ねた。謡曲「紅葉狩」では、打ち落とした鬼女の首は重すぎて都に持ち帰ることが出来ず、首を埋め墓を建てたそうな。志垣は鉄磨ぎ城と読める。裾花川近くにある柵地区のしがらみを広辞苑で調べると、水流を塞き止めるために杭を打ち並べこれに竹や木を渡したもの、とある。きっと鉄に関係あると見ていたが、砂を塞き止める仕掛けが「しがらみ」とわかった。紅葉伝説のある所の地名の語源も鉄と繋がる。
 
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